「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年04月28日

歴史と伝統の英国のトレンドから、今日は「エド・ボールズの日」なので、政治家とITについて振り返ってみよう。

エイプリル・フールはもう古い。Twitter時代は「エド・ボールズの日」で決まり!



というわけで、今のUKのTrendsのトップ項目は、当然、「エド・ボールズの日」!



ただし今年は、総選挙直前(あと10日ほど)ということで、例年より控えめなお祝いとの現地報告。 (・_・)



※以下、解説。

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宗教保守の支配域から。(※中東ではありません)

英国は総選挙モードだが、総選挙が微妙に微妙な存在である北アイルランドではかなりの程度は通常運転のようだ。ストーモントの自治議会はもちろん、ウエストミンスターの国会とは日程的には関係ないので、通常モードで運営されている。総選挙では、前回2010年に「妻が若い愛人を作っていた」とか「妻がその愛人に便宜をはかっていた可能性がある」とかいったスキャンダルに見舞われたDUP党首が議席を落とし、アライアンス党のナオミ・ロングが議席を取った東ベルファスト選挙区は注目されているが(今回、DUPは数年前にベルファストのロード・メイヤーをつとめた若手をこの選挙区の候補者としている)、全体的には、北アイルランドでどういう選挙結果になるかより、ブリテンでの結果(おそらく、2010年と同じ「単独過半数なし」のhung parliamentになるだろうと見られている)次第で北アイルランドの地方政党がウエストミンスターの中央議会で持ちうる影響力についてがもっぱらの関心事であるようだ。

といっても、注目されているのは宗教右翼(キリスト教原理主義)のDUPだけなのだが。(シン・フェインは「議会不出席主義」のため議席をいくつ獲得してもウエストミンスターの政治には関わらないし、ほかの政党は物の数に入るほどの議席数は獲得しそうにない。ちなみに2010年の北アイルランドでの選挙結果はこちら。)

そのDUPが、2010年ごろは多少は「現代化」する気配を見せていたのだが、2012年12月以降ダラダラと続いた「旗騒動」後に、その「リベラル路線」は完全に消えた。北アイルランドでは、「保守強硬派」で鳴らして出世したユニオニスト政党のリーダーが「リベラル」路線を取ると失脚することになるというジンクスがあり(UUPのデイヴィッド・トリンブルが典型)、ピーター・ロビンソンはそういうふうにはなりたくなかったのではないかとも言われている。その結果として、2013年後半の「ハース交渉」は、あれほど時間と人手をかけて交渉したのに合意に必要な「妥協」がなされなかったのだが、その後もDUPの「強硬」路線は維持。というか、ストーモントの議会が機能してんのか、という状態。

ほかの政党、というかシン・フェインにも「過去」という問題がついて回り(彼らは「過去」について、北アイルランドで望まれているような態度は取らないだろう。なぜなら「北の政党」ではなく「全アイルランドの政党」なので)、北アイルランドでは「政治が機能してんのか」という点についてのジョークが今もまだ定番化したままだ。「紛争」が終わって、15年以上経過しているのに。

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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