これは、「日本語で言えばいいのに、わざわざフォーリン・ワードでセイする」という「ルー語」的なこととも少し違う。「ごはん」と言うか「ライス」と言うか、「花束」と言うか「ブーケ」と言うかは、日本語の中で相応の時間を過ごした人ならば、文脈によってよりしっくりくる方が判断できる。人々はどういうときに「わざわざ」カタカナ語を用いるか……というより、なぜ元からの日本語(多くが漢語由来の日本語だが)があるものについて、カタカナ語が日常的な語彙に取り入れられるのか、という点についてはアカデミックな研究・分析があるはずだ。
ということを思ったので、さっきこのような記事について、このように書いた。「書いた」というか、参照している記事のうち、自分で書きとめておきたい部分(80字強)をコピペした。何を書きとめておきたかったかというと、「圧力」と「プレッシャー」だ。
私のはてブのページより via kwout
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