「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年03月26日

「普通の22歳男子に戻りたい」と言ってアイドル・グループからメンバーが抜けて、ネットには彼に対するお約束のヘイトスピーチ。

「BBCのTop Gearのジェレミー・クラークソンがクビになった!」というのが流れてきて数時間後には、「One DirectionからZaynが脱退した!」が流れてくるという、何ですかこの芸能ニュース・ラッシュは、という日だ。



ゼイン・マリクが「普通の22歳男子に戻りたい」と言ってグループを脱退したことには「キャンディーズか、都はるみか!」とつっこまざるをえないが、それだけならブログにしない。

ブログを書いているのは、芸能系というより殺伐系の話題になっているからだ。クラークソンのbigotryではない(正直、あれは話題にすればするだけ「炎上商法」に寄与することになると思う)。ゼイン・マリクへのいやがらせ(彼の民族と宗教的バックグラウンドについてのヘイトスピーチ)だ。

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ロンドン、イーストエンドの再開発について読んでいるうちに、100年以上前の犬の写真をたっぷり鑑賞していた。

ロンドンのイーストエンド、というよりシティのすぐ東側に、スピタルフィールズ (Spitalfields) という地域がある。シティの外側に位置するこの地域は、17世紀にはフランスから逃れてきたユグノーの移民街で、シティのギルドの制約のないところで絹織物産業が営まれた。その後、アイルランドでのアイリッシュ・リネンの産業の後退で職にあぶれたアイリッシュが移住してくるようになったが、19世紀、ヴィクトリア朝が始まるころにはこの絹産業も下降線の一途をたどっていた。スピタルフィールズやその近隣地域で救貧活動が盛んに行なわれたのことにはそのような背景があり、19世紀のロンドンのイーストエンドの暗い雰囲気(切り裂きジャックなど)もそういう流れに位置する。

スピタルフィールズはそのころの重くて湿ったような雰囲気を漂わせながら、80年代、90年代以降は、シティとは毛色の違う「オルタナティヴ」な運動の拠点として流行ったし、今もそういう場所だ。場所がよいので再開発の計画も何度か持ち上がってきたし周辺域はずいぶん手が入れられてしまったようだが……というところで、Norton Folgate(通りの名)のあたりがまた危機にさらされていると知った。




その流れでスピタルフィールズの各種運動系のアカウントなどを見て回っていたら、次のようなすばらしい記事に遭遇した。




以下はその話。

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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