「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年03月15日

「アレッポは、97%の明かりが消えてしまった」……シリア、「革命/蜂起」の開始から4年

2011年3月15日。東京ではまだけっこうな余震が続いている中で、#Mar15 #Syriaのハッシュタグが流れてきてから4年である。




本文が書けずにいるうちに日付が変わりそうなので、とりあえずこれだけ。

あれから4年、今のシリアは「明かりが消えた国」。 #WithSyria #FailingSyria
http://matome.naver.jp/odai/2142615428998791101





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posted by nofrills at 23:42 | TrackBack(2) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

今年はストーモントの危機のため、あの重要な外交日程が飛んだらしい。

「エクストリームUターン」がおおごとになりつつある。毎年、北アイルランドの政治トップは、セント・パトリックス・デイは訪米して外交を行なう。政界・ビジネス界の人たちと会い、「投資」を呼び込み、「友好関係」を確認し強化することが目的だ(最近では「映画やドラマのロケ地」としての北アイルランドの売り込みがかなり成功しているが、ほかにも企業誘致などはかなり活発な様子が日々のニュースからうかがえる)。セント・パトリックス・デイ当日、つまり3月17日は、ホワイトハウスが北アイルランドの政治トップを招待するのが恒例で、この「毎年恒例の聖パトリックの日の外交」は、北アイルランドの政治日程よりも優先的に行なわれる……というか、北アイルランドの政治日程はそこを外して組まれていると思う。それが当たり前だったので、ちょっとびっくりした。

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posted by nofrills at 22:51 | TrackBack(1) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

北アイルランドのこの40年の写真集に、いろいろと隣り合わせなのだなと思う。

北アイルランド報道写真家協会 (NIPPA: The Northern Ireland Press Photographers Association) が40周年とのことで、ベルファスト・テレグラフが過去約40年の北アイルランドの写真を38点集めた写真集を公開している(40年以上前のものもある)。

Northern Ireland Press Photographer of the Year: 40 years of iconic images
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/northern-ireland/northern-ireland-press-photographer-of-the-year-40-years-of-iconic-images-31062487.html


報道写真家たちが撮影してきたのが「紛争」の光景だけではなかったということがよくわかるが、逆に言うと、ランダムすぎてやや分かりづらいかもしれない。

1点目はサッカーの北アイルランド代表としてボールを蹴るジョージ・ベストだ。彼がNI代表でプレイしていたのは1964年から77年で、写真は70年代半ばと思われるが、キャプションが詳しくないので、さらに調べてみないとわからない。ちなみに今年はジョージ・ベスト没後10年で(早いものだ)、息子のカルム・ベスト(モデル)が本を出したりしている。




2点目は「紛争の終わり」を象徴する有名な写真。Time for peaceと書かれた壁の前で子供が遊んでいる光景。3点目は「紛争」の有名な写真で、父親の棺を担いでいく武装組織の男たちの間に見える幼い女の子。4点目は「紛争」そのもので、マイケル・ストーンによるミルタウン墓地襲撃。5点目は1972年1月30日、デリーのあの一枚……と来て、次がいきなり「サッカー馬鹿」の写真。1982年のワールドカップ・スペイン大会に出場を決めた瞬間のファンの姿(ちなみにこの大会では準々決勝まで進んでいる)。ジャージも靴もアディダスだ。次は「旗騒動」の「中の人」のひとり、ウィリー・フレイザーの、思わずふきだしてしまうような写真。その次、8点目は1998年和平合意によるノーベル平和賞の2人と、目立ちたがりの芸能人。9点目はポータダウン紛争(オレンジ・オーダー)。

こんな感じで、写真家たちがとらえたさまざまな瞬間が、わりと脈絡なく、38点続いている。

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posted by nofrills at 22:30 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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