現在、Seesaaブログでは、各記事(エントリ)の末尾に、その記事と同じカテゴリの最新記事タイトルや、ソーシャル・メディアに関するボタンが表示されるのがデフォルト(初期段階での仕様)になっている。が、当ブログでは今までそれが表示されていなかった。機能提供開始時に既に長くSeesaaブログを利用していて、HTMLを自分で変更していたので、自動的に反映されなかったという次第だ。
それを先ほど、表示されるようにした。
検索してみると、2009年2月5日に開始された機能で、実に6年前の「新機能」。(^^;)
優先順位がとても低かった上に、どこをどうすればどうなるのかさっぱりわからなかったので今まで後回しにしてしまっていた。
以下、同じように迷っている方がいるかもしれないので、簡単な作業メモ。
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◆「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)
◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。
【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)
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2015年03月08日
「追悼」と、対立と。
2009年の3月7日の夜(現地時間)、アントリムにある英軍基地、マセリーン・バラックスに宅配ピザが配達され、受け取りに出てきた兵士2人が何者かの銃撃を受けて殺された。ピザの配達の人も重傷を負った。ほどなくReal IRAが犯行声明を出し、すぐに何人かが逮捕され、うち2人が起訴されたがどちらも銃撃の実行者ではなく、最終的には誰も有罪にならず(1人は一度有罪になったが、その判決が上級審で覆された)、つまり事件は「未解決」の状態になっている。
「例のアメリカ人の口出し」とは、ニューヨークの偉いカトリックの聖職者が数日前に「IRAはカトリックを利用した暴力集団であり、ISISと本質的に変わらない」という非常に粗雑な発言をしていることを指す。それに便乗して、北アイルランドの政界はつつかれた蜂の巣かという状態でとげとげしい発言がわさっと出てきていて、「ああ、選挙前ですね」という気がする。
ともあれ、そんなこんなで、去年まで3月7日にDUP関係者が何か発言していたことがあったかと検索していたら、何のはずみでか、1981年の写真に行き当たった。ゲッティ・イメージズのアーカイヴ写真だ。銃を持った英兵に子供たちが群がっている。「プロテスタント」の子供たちだ。
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nofrills / nofrills
2009年3月7日 http://t.co/0D6WeabXb7 から6年経過で、DUP関連アカウントがレッドポピーをツイートしているが、去年までやってたっけ? 記憶にない。例のアメリカ人の口出しでニュースになったので目立っているだけかも(それゆえに私も気づいた)。 at 03/07 21:17
「例のアメリカ人の口出し」とは、ニューヨークの偉いカトリックの聖職者が数日前に「IRAはカトリックを利用した暴力集団であり、ISISと本質的に変わらない」という非常に粗雑な発言をしていることを指す。それに便乗して、北アイルランドの政界はつつかれた蜂の巣かという状態でとげとげしい発言がわさっと出てきていて、「ああ、選挙前ですね」という気がする。
ともあれ、そんなこんなで、去年まで3月7日にDUP関係者が何か発言していたことがあったかと検索していたら、何のはずみでか、1981年の写真に行き当たった。ゲッティ・イメージズのアーカイヴ写真だ。銃を持った英兵に子供たちが群がっている。「プロテスタント」の子供たちだ。
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー
私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。
彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。
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