「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年02月21日

「許す」と「赦す」と表記基準――1ヶ月以上前のシノドス @ synodos の記事に寄せて

1ヶ月以上前になるが、シノドス @synodos に掲載されたある記事が、はてなブックマークで大変な話題となっていた。私の見ている画面に、誰かのTwitterでのはてブからのフィード、もしくはそのRTという形で流れてきた表題の "「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題" に興味を覚えてクリックして、少し読んで、いきなり椅子から落ちることになったのだが(「文化翻訳」の話をしている論考でシーア派とスンニ派の区別をつけずにまとめて「イスラム」と扱い、「ムハンマドの図像はある」と主張している。まさにそれ――偶像崇拝――を理由のひとつとしてスンニ派の過激派がシーア派という宗派を標的にしているんですが……パキスタンやアフガニスタンでシーア派の宗教施設がスンニ派の過激派のボムで攻撃されたというニュースはしょっちゅうあるでしょう)、その点は本稿では扱わない。

この記事の筆者の関口涼子さんは、フランス語と日本語の翻訳をしておられる方で、シノドスには「翻訳家、作家」とある。つまり、言葉を使って何かを表現する専門家である。そしてこの記事は、大筋、日本語の新聞記事でフランス語のpardonner (英語のpardon) が「赦す」ではなく「許す」と《訳されて》いることを、《誤訳である》と指摘するものである("私が翻訳者としてこの記事で指摘したいところは、この記事に見られる重大な誤訳なのだ"、"読売新聞の記者は、このデッサンに「自分が読みたいことを読んだ」のかもしれない" と書かれている)。(ちなみに、あのような絵は日本語では「デッサン」とは言わない。「スケッチ」、「絵」である。)

私はのけぞった。そして、はてなブックマークで人々が「感心した」などと絶賛なさっているのを見て、寝込みたくなった。

なぜなら「許す」と「赦す」は、《誤訳》の問題では全然なく、《表記》の問題だからだ。読売新聞の記事を書いた人は《誤訳》などしていないのだ。

「赦す pardonner」(英語ではforgive)の概念を説明することは必要だし、それがなされたことはよいことだと思うが、しかし単なる事実として、この新聞記者は誤訳などしていない。

新聞記事では「赦す」という漢字は使えない。その代替として「許す」という漢字を使うことになっている(常用漢字)。それがまるで知られていないだけならまだしも、それゆえに「誤訳だ」と呼ばれ、それで大勢の人が納得してしまうという事実に、冗談ではなく本当に血の気が引いた。

《表記》について、これまで知らなかったという方には、下記のような出版物をチェックしてみていただきたい。公共図書館にも置いてあるはずだ。一般によく参照されるのは共同通信社の用字用語集だと思う(シノドス掲載記事で挙げられているのは読売新聞の記事だが、「許/赦」は常用漢字に関する表記基準なので、どの社でも変わらないはず)。

記者ハンドブック 第12版 新聞用字用語集記者ハンドブック 第12版 新聞用字用語集
一般社団法人 共同通信社 編著

日本語表記ルールブック 朝日新聞の用語の手引 日本語の正しい表記と用語の辞典 第三版 新しい国語表記ハンドブック

by G-Tools


まどろっこしくなるが、「表記基準」、「用字用語」というものについて少し説明をしておこう。なお、「用字用語」は文章の内容とは関係ない。単に形式面での基準である(したがって「検閲」ではない)。

日本語圏で他人の目に触れる文には2種類ある。筆者が好きなように書いたものと、既定の「表記基準」に従って編集されたものだ。前者には文学作品などがあり、後者には新聞記事などがある。例えば文学作品では外来語や擬音語をひらがなで書いたって構わない。書き手がそう書きたければ、「ぴあのをぽろぽろと弾いた」「ぶらんこがぎーこ、ギーコと音を立てた」でよい。しかし新聞記事では外来語や擬音語はカタカナで書くことに決まっている。「ピアノをポロポロと弾いた」「ブランコがギーコ、ギーコと音を立てた」でなければならない。(ただし「ぶらんこ」はひらがなで書くこともある。)

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posted by nofrills at 19:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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