「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年04月04日

ジェリー・アダムズが中東を訪問

シン・フェインのジェリー・アダムズが、2009年4月1日付けで(まぎらわしい日付だ)、「来週、中東を訪問します」というタイトルの記事をブログにアップした。
http://leargas.blogspot.com/2009/04/next-week-i-will-visit-middle-east.html

エントリには2006年9月にアダムズがパレスチナを訪問したときの写真がついている。半袖シャツで双眼鏡を首からさげたアダムズの後方には、コンクリート片の山のようなものと、集合住宅と、そして分離壁があり、分離壁を隔てたところは家屋などはなく、背の低い潅木と砂地になっている。場所が具体的にどこなのかはわからないが、写真キャプションには「2004年の国際司法裁判所の判断に反してイスラエル政府が建設している壁」と明示されている。

この訪問のとき、アダムズはイスラエル政府(当時は首相はオルメルトの前、シャロンかな)とも会談する意向だったが、イスラエル政府がこれを拒絶した。理由は、「ハマスと話をする奴とは話をしない」である。でもヴィザは出した。当時のエントリを参照。(コメント欄でもアップデートしているのでそれも。)
http://nofrills.seesaa.net/article/23359109.html
※シン・フェインが中東にコミットしている理由については、このエントリ(↑)を参照。

今回も、イスラエル政府はアダムズに会うことを拒否しているという。理由は同じだ。「ハマスと話をする奴とは(以下略」。

まるで「1997年のイアン・ペイズリー」(というか2007年までのイアン・ペイズリー)のようなNever, Never, Never的な態度を示しているイスラエルのリーバーマン(おそろしいことに外務大臣)については、イアン・ペイズリーにネゴシエーターとして期待をかけておくことにしよう。「アナポリス合意なんてものはないんだよ!」と言うリーバーマンは、「グッドフライデー合意は死んだ!」と言っていたペイズリーにそっくりに見える。そしてペイズリーが「和平」の主役となったのは、彼が反対していたGFAに上書きするような形で、彼を交渉の主役として、別の合意(St Andrews Agreement)ができたからだ。

そのことをアダムズは当事者として知っているし、イスラエル政府と直接の接触はなくても、何らかの形で有効な伝え方をするだろう。そのくらいは期待するよ。

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posted by nofrills at 23:51 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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