kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年03月24日

北アイルランド、警官殺害事件で1人起訴(+もう1人起訴)。起訴されたのは17歳の少年(→1975年に17歳で人を殺したロイヤリストの現在)【メモ】

今月9日のクレイガヴォンでの警官殺害事件(Continuity IRAが犯行声明)で警察に逮捕されていた人々のうち、1人が起訴された。

この事件では7人が逮捕され、取調べを受けているが、起訴されたのはその中で最年少の17歳の男性だ。彼は法定年齢にも達していないから、起訴されても名前も公表されない。起訴事実は次の通り。

A 17-year-old youth has been charged with the murder of Constable Stephen Carroll in County Armagh earlier this month.

...

The youth is also charged with having a firearm with intent to endanger life and membership of a proscribed organisation, the Continuity IRA.

...

The 17-year-old also faces a further charge of collecting information likely to be of use to terrorists.

http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7960463.stm


つまり、殺人、生命を危険に陥れる意図を有した上での銃器所持(後刻の報道によればアサルトライフル: was in possession of an assault rifle and 26 rounds of 7.62 calibre ammunition)、特定組織(日常語でいう「テロ組織」)のメンバーシップ、テロリストに利用される可能性が高い情報の収集。

わずか17歳でこれだけ並べられて、警察の捜査がいつものごとく的外れ(顕著な例としては、ノーザンバンク現金強奪事件)でないことを祈るしかないが、それ以前にmurderで起訴されたのが17歳ということが、かなりショッキングだ。つまり実行犯ということだから。

17歳ということは、1998年のグッドフライデー合意のときは6歳である。北アイルランドの主要なパラミリタリー組織は1997年に停戦していたから(ただしCIRAは停戦していなかったし、この「停戦」をめぐってPIRAからRIRAが分派した)、世間で起きていることがある程度筋道だって把握できる年齢に達したころには、「北アイルランド紛争」は、形式的には(と留保をつけざるをえないのが現実だが)、終わっていたはずだ。

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posted by nofrills at 23:30 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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