「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2009年03月18日

「非主流派リパブリカン dissident republicans」についてのメモ (4) ―― RSFの77歳、RIRAの事件で逮捕された41歳、RIRAの事件で逮捕された32歳(そして94年に蜂の巣にされたその父親)

マーティン・マクギネス(北アイルランド自治政府副ファーストミニスター)、ブライアン・コーウェン(アイルランド共和国首相)ら、セント・パトリックス・デイで訪米中の「アイルランド島の政治指導者」ご一行様の夜のマンハッタンでパチリと記念に、的な写真(ただし、現在のNI自治政府トップであるピーター・ロビンソンではなく先代その前のイアン・「フィデルと同い年」・ペイズリー、ホモフォビアで有名なアイリス・ロビンソンではなくアイリーン・ペイズリーですが)を見て、アイルランド共和国の首相はまあちょっと別なのだけど、マクギネスとペイズリーが並んでいるのを(かなり久しぶりに)見て、「北アイルランド紛争」の時代の(セクタリアンな)主義主張なんてのは、彼らにとっては結局何だったのだろうという疑問がまたもやもやと頭の前面に漂い出している。(そういったことは、部外者である私などよりもずっと重いかたちで、その中にいる人たちには感じられているのだが。)

マクギネスが、非主流派リパブリカンのことを "traitors" (売国の輩)という言葉で非難し、ペイズリーらユニオニストがそれを「勇気ある言動」と讃えているのは、誰がどう見てもどこかにお約束の足場があるであろう「政治」なのだけれど(シン・フェインは英軍が襲撃されたときには「歯切れ」が悪かったことでチクチクとやられていた。警官銃撃後に、"traitors" などという言葉をマクギネスが使ったのは、そういうことも影響しているだろう)、一方でどこにもお約束などありゃしない、「政治」などクソ食らえといわんばかりの武装闘争至上主義(わかりやすくするために「原理主義」という言葉を使ったほうがいいのかもしれないが、北アイルランドについては本物の、宗教上の原理主義、つまり「根本主義 fundamentalism」が紛争に深く関わっているので、その言葉は使わない――自分にはその程度のディセンシーはあるのだということをいちいち言語化して確認していないと、頭がおかしくなりそうだ)が、人数的には「わずか300人程度」であれ、今回のこの事態に大きく関わっている。

中東でまたいつもの(そう、「いつもの」)暴力が人命を奪っている(3月11日)ことは、私の見ている範囲が偏っていたのかもしれないが、少なくともガーディアンやタイムズやBBCではトップ記事にはなっていなかったし、「壁」の建設に抗議する側にいたアメリカ人のISMメンバーが、催涙弾(とはいえ殺傷能力のあるキャニスター)を顔面にまともにくらって瀕死の重傷を負った(14日)ことも同様で、そういうことを知ろうとすらしていなかったということにまたもやもやしたものを少しおぼえつつ、中東よりずっと「規模」の小さい「暴力」について、昨日も今日も記事を読む。自分で選択して。

以上が前置き。ここからが本文。

このエントリのポイントは3つ。ひとつは共和主義シン・フェイン (RSF) のRuairi O'Bradaighのこと。残り2つは、逮捕された「非主流派リパブリカン」の「大物」2人それぞれのこと。

【続きを読む】


posted by nofrills at 20:00 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む