「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年02月01日

「電話があったのですが、誰なのかよくわかりません」って話じゃないよね、300lbのカーボムが見つかったんだから。

北アイルランド、カウンティ・ダウンでまたカーボムが見つかったと大きく報じられている。下記はGoogle Newsの画面のキャプチャ。
carb-31jan2009.png


最初に見たBBCの報道:
Car bomb found in security alert
Page last updated at 21:18 GMT, Saturday, 31 January 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7862438.stm
→アップデートされた場合に備えて魚拓
A 300lb car bomb has been found in County Down five days after a telephoned warning claimed a device had been left in Castlewellan village.


300lb (= 136kg) はでかい。「俺らのこと、忘れてもらっちゃ困るぜ、まだ腕は鈍ってないんだからな」的な、存在証明のようなボムなら、ここまででかいのは作らないと思う。

と、その数字にショックを受けたところでもっとびっくりするのが、そのカーボムのあった場所だ。

上記のBBC記事には書かれていないのだが、その次に見たベルファスト・テレグラフ:

Car bomb found near Northern Ireland school
Saturday, 31 January 2009
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/car-bomb-found-near-northern-ireland-school-14165186.html

「学校の近く」って……。見出しだから多少派手にしているとしても、少なくとも生活道路ってことでしょ、その地域の人たちの。

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【ガザ攻撃】「あなたたちには未来があるじゃないかと言ったところで、そうだねと思ってもらうにはどうしたらいいのでしょう」――ハテムさんの支援活動日記、1月30日分

国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月30日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

一読して、これまでで最も淡々とした日記だと思ったのですが、これまでで最も重い内容の日記でもあると思います。

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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