As the historian Brian Feeney puts it: "The guys who came here in 1969 had all fought in Aden and they brought particular attitudes with them - including banners warning rioters they'd be shot which were in Arabic. But they also brought ideas about 'sorting out the natives' which you couldn't have in the UK."
Very quickly, the mission subtly elided from 'keeping the two communities apart' to 'fighting the IRA'.
歴史家のブライアン・フィーニーはこう説明する。「1969年にここに来た兵士たちはみな、(現在はイエメンの)アデンで戦ったことがある者たちで、独特の態度を持ち込んできた。暴徒に「撃つぞ」と警告する旗も持ち込んできた。アラビア語で書かれた旗だ。それだけではない。『原住民を何とかする』という考えまで持ち込んできた。英国内ではありえない考え方だったが。」
急速に、そしてほとんど気づかれぬほどひっそりと、英軍の任務は「2つのコミュニティを引き離しておく」というものから、「IRAと戦う」というものに変容していった。
--- No fanfare for Operation Banner
By Kevin Connolly
Last Updated: Tuesday, 31 July 2007, 01:38 GMT 02:38 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6923421.stm
2007年7月31日いっぱいで、北アイルランドでの英軍の作戦、Operation Banner(オペレーション・バナー)が完全に終了する。8月1日からは、北アイルランドの英軍基地は現地での作戦のためではなく、スコットランドやウェールズの基地と同様の、訓練を目的とする施設となる。1994年のIRAとUDA, UVFなどリパブリカン、ロイヤリスト両派の停戦から2005年夏のIRAの活動停止、2007年春の自治政府の再起動を経て、「紛争」の終わりがまたひとつ、公式に形になる。
オペレーション・バナーが始まったのは1969年8月。デリーのボグサイド(→関連する過去記事)が「カトリック」と「プロテスタント」の衝突のホットスポットとなり、「プロテスタント」が政治を独占していた北アイルランドの警察(警察も「プロテスタント」が独占)ではどうすることもできなくなり、当時の北アイルランド「自治」政府がロンドンに英軍の出動を要請した。つまり「警察のサポート」が目的だった。
当初は「プロテスタント」と「カトリック」の間に立つ中立の存在として「カトリック」のおばあちゃんやおかあちゃんたちからお茶やお菓子をふるまわれるほど歓迎された英軍は、(ブライアン・フィーニーの言葉を借りれば)「原住民」たちを「鎮圧すべき者たち」とみなして行動し、「カトリック」の人たちから、「プロテスタント側」として敵視されるようになった。
そしてちょうどそのころ、IRAからProvisionals(暫定派)が分派した。Provisional IRAは英軍を「標的」とした。
仲裁のために入ったはずの英軍は、こうして「紛争」の当事者となった。それから約38年、30万人以上の兵士を送り込んだ英軍の「最も長い作戦」で、763人の兵士がゲリラ戦で殺された。
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