kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2007年06月11日

ガーディアン、創刊から通算5万号

The Guardian紙が創刊から通算で5万号に達したとのことで、オンライン版(ガーディアン・アンリミテッド)に特集ページが組まれている。
http://www.guardian.co.uk/50000

ガーディアン・アンリミテッドでは、創刊からこれまでの5万号から、50号を選んで、一面のスキャン画像をギャラリーとして公開している。
http://www.guardian.co.uk/news/gallery/2007/jun/08/1?picture=329998189

これが、かろうじて見出しが読める程度で記事の内容がわかるほどの解像度ではないのだけれど、ざーっと見ているだけで何かわくわくしてくるという、楽しいギャラリーだ。

50点の画像の最初は創刊号(1821年5月5日)のもの。2点目は1901年、ヴィクトリア女王死去のときのもの(夏目漱石は当時留学生としてロンドンにいて、下宿の大家さんと一緒にハイドパークまで行って、大家さんに肩車してもらって女王の葬列を見ている)、3点目は1912年、タイタニック号の沈没のときのもの。

4点目は1914年、「イングランド(当時の用語法ではEnglandはBritainというかUKのこと)がドイツに宣戦布告」が一面トップで、これはもちろん後にいう第一次世界大戦の開戦。5点目は1917年、「ロシア革命」(この画像はスキャンが薄すぎて何もわからない)。6点目は1936年、「エドワード8世の退位」(シンプソン夫人との「世紀の恋」による結論)・・・って1920年代がないのが残念だ(1920年または21年のアイルランド、1929年の世界大恐慌は入れてもらいたかった)。

7点目は1939年、といえばもちろん第二次世界大戦開戦で「対独宣戦布告」。この時点で「英国」を表す語はEnglandではなくBritainになっている。8点目が1941年、真珠湾攻撃(日本による対米英宣戦布告)で、地図(オーストラリアがあることで地図がわかりやすいものになっているのだろう)が大きく掲載されている。9点目が1945年でVE Day、10点目も1945年で「広島に対し原子爆弾を使用」。

【続きを読む】


posted by nofrills at 23:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。