おそらくこれまでに何人もの「
Michael McIlveen(マイケル・マッカルヴィーン)」がいて、しかもそれは北アイルランドだけでなく世界の各地にいて、マイケルのように命まで奪われなくても精神が殺されているような人たちもたくさんいる。
そういうことは、知らされることがなければ、あるいは知ろうとしなければ、知ることもない。知ったとしても「元々対立していた」というような“わかりやすい説明”を貼り付けて終わらせようとすることもある。イラクについての「シーア派」と「スンニ派」とか、あるいは1994年のルワンダの「ツチ」と「フツ」とか。
そこでは人の集まりはどこまでも「集団」であって、個人個人ではない。「スンニ派によるシーア派を狙ったテロ」で「15人が死に30人が負傷した」、「両者はかくかくしかじかの理由で対立している」(あるいは「スンニ派はシーア派に対抗している」)と説明されて終わりだ。死んだ15人それぞれの個など、省みられることもない。それが「紛争」ってもの、その現れ方のひとつだと思う。
「紛争は終わった」ことになっても、その紛争のメンタリティは終わるわけじゃない。IRAが武器をおいて、
ストーモントのアセンブリーが再開したからって、「プロテスタント」対「カトリック」のメンタリティは過去のものになっていない。「紛争」真っ只中を知らないはずの10代後半の子たちが、「カトリック」を襲撃する。
人が「人間」である前に、「カトリック」であるようなナンセンス。
17日、Ballymena(バリミーナ)でマイケル・マッカルヴィーンの葬儀があった。1000人近くが参列したという。BBC Newsの北アイルランドのページのトップに、その記事があった。
偶然だが、葬儀の記事の隣には、ベルファストの「伝説」の壁画がお目見えしたという小さな写真つきのヘッドラインがある。
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