kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年08月16日

【翻訳紹介】「あれは花火の音」と言って聞かされるそのおばあさんは、内戦を知っている。(レバノン)

以前、少しだけ日本語化したベイルートのZena el-Khalilさんのブログ(リンク先の下半分)から、停戦発効前後の3つの記事を、再度日本語化します。

ただ、前もってお断りしておきたいのですが、以下に私が日本語化したものだけを読んで、「大丈夫そうじゃん」などとは思わないでください。私が日本語化しているのは、全体のごく一部、それも明るいほうの記事だけです。

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posted by nofrills at 19:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | lives in war/Lebanon | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

「停戦」のその日、レバノンでは。

ウェブログ、Lebanon Updatesの8月14日記事から、「停戦」当日の出来事のログ。

Source: Tayyar, New TV and other news sources

00:25
アルジャジーラ記者:ベカアのブリタル(Brital)へのイスラエルによる空爆で25人が死傷。
00:42
イスラエル軍、バアルベックの西のアヤアト平原に上陸/侵入(landing)を試みる
00:50
ベカアのブリタルに対する今夜のイスラエルの空爆で、40人が死傷
01:02
レバノンにいる国連事務総長の代理、Geir Pedersonが、レバノンのシニオラ首相と会談したあとで、レバノンは月曜日の午前8時(現地時間:GMTでは5時)からの停戦を守ると確定。
01:40
停戦まで数時間という段階になって、イスラエル軍とヒズボラが衝突、最も激しい戦闘に。
03:27
イスラエル軍の推定では、ヒズボラの戦士の死者数は530。
04:15
新聞報道:オルメルト首相、イスラエル軍に対し、レバノンでの停戦履行を命令。
06:45
停戦発効前に、イスラエルがレバノン東部を攻撃。
07:00
ハビエ・ソラーナ(EU上級代表)の意向では、国連部隊のレバノン派遣は早急に。
07:10
バアルベックのアイン・ブルダイに対し、イスラエル空爆。
07:23
Sidiqeenに対しイスラエルの空爆。Ras al-Ainに対しイスラエルの砲撃。
07:24
Jouwaya、al-Ramadhiyeh、Sharrour-Arzoun三角地帯に対し、イスラエルの空爆。
07:25
イスラエル北部のいくつかの入植地(?:settlements)で警戒警報。
07:30
Sour (Tyre)南部に、イスラエルによる激しい砲撃。
07:43
レバノン山のKayfoun丘陵に対し、イスラエルの空爆。
07:45
Kfar Shoubaに対し、イスラエルの激しい砲撃。
07:51
Sour (Tyre)南部に対するイスラエルの空爆。
08:00
公式に停戦発効。
09:25
イスラエルが、レバノン南部に入っていたいくつかの地域から撤退することを宣言。
09:30
国連の停戦決議の発効にもかかわらず、イスラエル陸軍、空および海の封鎖を継続すると宣言。
09:42
ロイター報道:停戦発効で数千人単位でレバノン人が南部に帰還。
09:53
レバノン南部に帰還する人々が数千人単位で、Zahrani付近では大渋滞。
09:57
Yohmorで時限爆弾が爆発、1人負傷。
10:15
見慣れない物体には手を触れないようにと、レバノン南部の村の住民たちに警告。
11:42
Ansarでクラスター爆弾(の不発子爆弾?)が爆発、1人死亡。
13:30
イスラエル、戦闘で116人の兵士が死亡し、750人以上が負傷したことを認める。
13:32
ベイルート南郊の住民たちが一気に居住地に帰還。
13:37
イスラエル、発効から5時間もしないうちに停戦に違反。


※日本語にしたときに辞書とか見てないので、著しく間違ってる箇所があるかもしれません。その場合、コメント欄でご指摘をください。あと、地名はカタカナにしてたりしてなかったりしますが、それもご容赦のほど。
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posted by nofrills at 23:47 | Comment(0) | TrackBack(1) | lives in war/Lebanon | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月02日

【翻訳紹介】ベイルートから2件、「癌を摘出しているんだ」/「この臭いは9.11の後のニューヨークの臭い」

1つ前と関連して、レバノンのブログの翻訳紹介(というか、勝手に日本語化)。1つ前でやったZeinaさんとは別の人たち2人のブログで、Zeinaさんのブログに出てきたDahiyeという場所(最初に爆撃された地点のひとつで、ベイルートの南郊)に関する記述を含むものです。
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posted by nofrills at 10:55 | Comment(0) | TrackBack(2) | lives in war/Lebanon | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【翻訳紹介】ベイルート、避難所になっている学校にて(Zeina blog, July 23, 2006)

レバノンのブロガーが主流メディアでも注目されているので(「ので」ってのも変だが)、私も例によっていくつか勝手に日本語化する。

まずは、July 2006 War on Lebanonというブログから。このブログはグループブログで、現在、7人が投稿メンバーとしてリストされている。

その1人、Zeinaさんは、名前から女性だと思うが、大学生か大学を卒業した人のようで、一時的な避難民収容施設となっているベイルートの学校で、子供たちのケアのボランティアをしているようだ。詳しいことは本人がこのブログに書いていないからわからない。以上は、ブログの記事から読み取れる範囲のことだ。

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posted by nofrills at 10:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | lives in war/Lebanon | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月01日

レバノンを「見える化」するいくつかの情報源。

from the map of Israeli assault on Lebanon, as of 30 July 2006
※この画像についての説明は「続きを読む」で。

英国在住の友人が、夏の里帰りで東京に到着し、日本で最大手の報道機関の朝のニュースでレバノン報道がごくわずかしかないということに驚愕している旨、コメントをくれた。わたしは先日、あまりに呆れて以来、テレビのニュースというものを見ていないので、実際どのくらい「取り上げられていない」のかがわからないのだが、まあ、ネット経由で知った範囲のことは、ここみたいな個人のちっちゃいブログでも、書かないよりは書いておくほうがよいだろうとは思っている。

と思っていた矢先、Google News UKで、アジアカップでグループDのレバノンが、アジアカップから抜けたということを知った。BBCではごく短い記事しか出ていないが、同じグループDのオーストラリアのメディアは、それよりは詳しく報じている。(といっても、グループDがどうなるかについての記述が、長くはない記事の半分以上を占めているのだが。)

Lebanon out of Cup
http://www.sportal.com.au/soccer.asp?i=news&id=86273

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posted by nofrills at 23:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | lives in war/Lebanon | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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