kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年08月13日

人を助ける人たちの事務所が何者かに襲撃され、7人もが銃殺された。 #WhiteHelmets

市民によるボランティアの救援隊、シリア・シヴィル・ディフェンス (Syria Civil Defence)、通称「ホワイト・ヘルメッツ」。政府による武力弾圧・武力行使やら、各種武装組織の軍事的行動やらで機能しなくなった救急・消防分野を担っている彼らの活動を追ったNetflixでの短編ドキュメンタリーが、米アカデミー賞を受賞したことでも知られているが、ネットでは何より、YouTubeなどにアップされる現場映像を通じて彼らの活動に接している人が多いだろう。

Netflixのドキュメンタリー・予告編:


※ネット上の日本語圏では彼らについて書くと陰謀論者の皆さんをお騒がせするなどすることになるが、その背景についてはウィキペディアにまとめられているものを参照(「アポロは月に行っていない」とかいうのと同種の陰謀論者の《物語》においては、彼らは「闇の勢力による世界統一の野望の情報工作員」であるようです)。もっと詳しいことを知りたい人はこれな。陰謀論の信奉者は、こんなんがまともに相手にされると思わないように。

彼らの映像で最も広く閲覧されたもののひとつが、アレッポでのこの映像だ。上記のNetflixドキュメンタリーの予告編の最後のほうにも使われているが、2014年6月、シリア政府による住宅街への「たる爆弾」投下(と書くと「証拠もないのに決め付けている」と絡まれるので一応書いておくけど、2014年8月にジェイムズ・フォーリーが殺害されてアメリカが「自衛」云々で動き出す前のシリア内戦において、空からたる爆弾であれクラスター爆弾であれ何であれ爆弾を投下できる能力、つまり空軍力を持っていたのは、政府軍だけだった)によって建物が瓦礫の山にされたあと、その瓦礫の中に埋まっていた生後2週間足らずの赤ん坊を救助隊が救出した。何時間も何時間も、瓦礫を素手で掘り続けても見つからず、諦めようとした矢先に、泣き声が聞こえてきた。さらに掘り進めた先の壁か崩れ落ちた天井板の穴の向こうに、赤ちゃんはいた。



赤ん坊を引っ張り出し、腕に抱きかかえたのは、ビデオで状況を語っている若者、ハレド・ファラさんの同僚のハレド・オマールさん。彼は今からちょうど1年前の2016年8月、アレッポの反政府勢力支配地域での空爆で、死亡した。31歳だった。CNNの記事が、情報がよくまとまっている。

Syrian White Helmet rescuer killed in Aleppo
Updated 2324 GMT August 12, 2016
http://edition.cnn.com/2016/08/11/middleeast/syria-white-helmet-hero-killed-aleppo/index.html

そして1年後、2017年8月12日にまた、今度はイドリブ県で、「赤ん坊を救出したホワイト・ヘルメッツのメンバーが殺された」ことが伝えられた。それも1人ではない。7人もまとめて殺された。今回は政府軍の空爆ではない。ロシア軍の空爆でもないし、米軍の攻撃でもない。銃撃だ。それもどこかに出かけていて襲われたのではなく、ホワイト・ヘルメッツの拠点(詰め所)の中で。




正視することが難しいような血の海の写真が添えられたシリアン・アメリカン・メディカル・ソサイアティの代表者のツイートによると「またもや、頭を撃ち抜かれていた」そうだ。

写真を元にアーティストが描いた絵。


襲撃された詰め所の壁。


殺された7人。




Vickyさんが言っているように、AEJさんがツイートしている写真の左下の人は、昨年10月の下記の映像で、瓦礫の下から救出した赤ん坊を救急医療チームのもとに運んで抱きかかえながら嗚咽している。病院に運んだあとのことだろう、インタビューで「赤ん坊が見えたとき、まるで自分の子供であるかのような気がして」と語りながら、また涙を浮かべている。「私がこの子を病院に運んでいきました。うちの子であるかのように、つらかったです」


小さな体の重みをその手に受け止めながら、小さな体の呼吸や痛みによる微妙な震えやこわばりを感じながら、彼、アブー・キファーさん(「キファーの父」という意味の通称)は泣いている。瓦礫の下から人を助け出したことはこれまでにも何度もあっただろう。赤ん坊を助け出したことも何度もあっただろう。残念ながら助けられなかった命もあっただろう。そういうときに、いちいち泣きはしなかったのだろう。しかしこのときには、彼は泣きに泣いていた。

モニターの中にこの映像を見ながら、そういったことを思った。

しかしそれは、瞬時にして、「こんなことがいつまで続くのだろう」といういつものお決まりの言葉に塗り込められてしまい、言葉になる前に消えてしまっていた。

「こんなことがいつまで」という万能ワードが自分の中から出てくることに、ただの傍観者であるにも関わらず、疲弊していた。これがあと何回か続けば、すっかり慣れてしまって何とも思わなくなるだろう、と思った。

というか、救出者が嗚咽が止まらなくなっているこの映像の少し前には、アレッポの土ぼこりにまみれた幼い子供の写真がなぜか今更のようにネット上に衝撃波を生じさせていて、そのときに「え? みんな、こういう写真に慣れてしまってないのだろうか? 今更、この写真のどこにショックを受けるのだろうか?」と本気で考え込んでしまったのだが(そしてそれは私一人ではなく、「シリア」のリストにはかなりの苛立ちがあふれていたのだが)、実際に起きていることにはそんな、「ショック」とか「慣れ」とかいうのは、本質的に関係はない。

ともあれ、そうやって瓦礫の下から救い出した赤ん坊の小さな体を手にしてずっとむせび泣いていたあの人は、殺された。事務所で、頭を撃ちぬかれて殺された。事務所内のホワイト・ヘルメッツの備品は盗まれた。「アサド政権ではなく、犯罪集団によるしわざと思われる」という。




ホワイト・ヘルメッツのメンバー、アナス・アルタアンさん(添付の写真は、うっかり見ないほうがいいです。ドラクロワの『民衆を導く自由の女神』の絵の下半分が現実の光景になっていて、血の海)。


7人が殺されたのは、夜間の襲撃だった。


以下、ホワイト・ヘルメッツのTLより。


























Blessed are the peacemakers:
for they shall be called the children of God.

https://en.wikipedia.org/wiki/Matthew_5:9






イドリブ県サルミンの詰め所襲撃のニュースがあったとき、ホワイト・ヘルメット創設者で代表者のラエド・サレハさんは、韓国にいた。Manhae Peace Prizeという賞を受賞するためだ。仏教系の賞なので、お寺の梵鐘やお寺の建築物の写真がホワイト・ヘルメットのアカウントからツイートされている。





彼らはまた、アイルランドのティペラリー平和賞も受賞が決まった。



2014年1月、まだ制服やロゴができる前のアレッポでの民間ボランティアたちの活動の映像を、改めて、見返している。自国政府からの攻撃で瓦礫にされた民家から、人を救おうと素手で掘る人々。


「(悲惨な光景がニュースに出てきたら、その画面の中で)人を助けている人を探しなさい。必ず、人を助けている人の姿があるはずですから」――何か惨事が起きると、ネット上の英語圏で人々がツイートしたりする名言だ。アメリカの往年の子供番組司会者、フレッド・ロジャーズの発言で、全体では下記のようなものである。
“My mother would say to me, ‘Look for the helpers. You will always find people who are helping.’ To this day, especially in times of disaster, I remember my mother’s words, and I am always comforted by realizing that there are still so many helpers − so many caring people in this world.”

http://www.snopes.com/radiotv/tv/scarynews.asp


しかしシリアでは、その「人を助ける人々」が攻撃対象となっている。というか、攻撃対象になってきた。もうずいぶん前から……2011年の段階で、普通に医師としてどちらの側も分け隔てなく負傷者を救おうとする医師たちは脅迫や攻撃の対象となった(反政権側の地域の負傷者にとって「病院に搬送される」ことは、「政府側に送られ、拷問にさらされる」ことを意味していた)。そういう状況だったからこそ、ホワイト・ヘルメッツのような「民間のボランティア」が人命救助という基本的なサーヴィスを担うことになったのだが。

イドリブ県のホワイト・ヘルメッツのTwitterアカウントのbioによると、既に201人の救急ボランティアが落命している。一方で彼らが救出した市民は9万人以上だそうだ。




この写真を前に、自分に何ができるだろう。攻撃者が犯罪集団であるかもしれない、というときに。

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そして何より、今回のこの襲撃が「ニュース」となって、「しばらくネット(特にTwitter)を見るのを少なくして、その分、本を読もう」ということを実践している私のもとにも届いたのは、殺害された7人のうちのひとりが過去に話題になった「救い出した赤ん坊を抱えて号泣しているレスキュー・ワーカー」だったからだ。もし、殺されたのが「無名」の人ばかりだったら、こんな記事になっていたかどうか? これが(「みんな」が公に発言できるようになり「民主的」になったはずの)ネット社会の現実だ。

Seven members of Syria's White Helmets shot dead by unknown gunmen
Raf Sanchez, middle east correspondent
12 AUGUST 2017 • 2:00PM
http://www.telegraph.co.uk/news/2017/08/12/seven-members-syrias-white-helmets-shot-dead-unknown-gunmen/

そして、これが21世紀の現実。



以下は、2012年12月のアレッポからの報告の一部。
 赤ん坊が死んだとき、百万人が住むアレッポにはたった31人の医師しかいなかった。クハレド(原文ママ。原典ではKhaledで「ハレド」または「カレド」とするのが一般的な名前)は経営者側の要請で――経営などということができるのかどうかわからないが――研修医からいきなりこの病院を率いる医師となった。彼は、病院の名前や病院のある場所は書かないでほしいと言った。市民によく利用されるという理由で、数週間前から政府軍の爆撃のターゲットになっていたダル・アル=シファ病院のように、「爆撃を受けるといけないので」と。
 戦時中に公共の場、とりわけ市民がよく利用する場所――病院、学校など――を爆弾などで狙うことはジュネーブ条約違反である。しかし、ここのだれがジュネーブ条約など気にする?
 爆弾を落とすために低空飛行しているアサド側の兵士が、ジュネーブ条約を知っているだろうか。ジュネーブ条約を気にしながらおこなわれた戦争があっただろうか。
 死んだ小さな赤ん坊を三角形のおくるみに包み、その小さな顔を覆ってから母親に渡したクハレドは、いたたまれないほど敗北感に満ちた表情をしていた。

――ジャニーン・ディ・ジョヴァンニ(古屋美登里訳)『シリアからの叫び』亜紀書房、2017年、pp. 184-185

※引用に際し、原文の漢数字をアラビア数字に置き換えた箇所がある。

4750514454シリアからの叫び (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズII-15)
ジャニーン・ディ・ジョヴァンニ 古屋美登里
亜紀書房 2017-03-04

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1408851105The Morning They Came for Us: Dispatches from Syria
Janine Di Giovanni
Bloomsbury Publishing PLC 2017-02-23

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※この記事は

2017年08月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:01 | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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