kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年04月15日

日本で桜の花が咲いているとき、日本以外でも桜の花が咲いている。

4月3日は、よく晴れていた。

近場にソメイヨシノの大きな木が2本ある。今年は花が遅かったが、陽気に誘われたように、この日、ようやく五分咲きに近くなっていた。1本目の木の下の右側にはレジャーシートを広げて楽しそうにくつろいでいるお母さん2人と子供たちがいて、左側には小学生の女の子たちが真剣な表情でスマホを掲げて貼り付いていた。この木の枝はけっこう下まで下がっているので、身長が150センチに満たない彼女たちでも、腕を伸ばせば何とか、撮りたいような写真が撮れるのだ。

私は枝の先の方だけを撮って、とりあえず、自転車にまたがってもう1本の大木に行くことにした。

Untitled

Modest ones


もう1本の大木は児童遊園の中にある。少し離れたところから見ると、上の方の枝はまだまだこれから咲くところだ。

Another big Somei-yoshino tree


と、大木のほうから、キラキラと輝くような笑い声が聞こえた。

私は大木に近づいていった。下の方にまで伸びた枝が次々と花を咲かせ、何もかもがいっぱいの陽光を浴びて、キラキラと輝いていた。

Another big Somei-yoshino tree

Another big Somei-yoshino tree

Another big Somei-yoshino tree


キラキラとした笑い声が、また聞こえてくる。

この木の大きく張り出した高い枝の下には、子供用のブランコが置かれている。

そのブランコに乗って、幼い女の子が、高く高く、振り子運動を繰り返している。後ろにお母さんがいて、女の子の背中を押してやる。ブランコにしっかりつかまって桜の花々に届きそうなほど高く高く舞い上がりながら、女の子がキラキラ、キラキラと笑い声をあげている。空は青く、花は薄く色づいて、豊かな日差しに透けて細かな輝きを振りまいている。

こんなに美しいものがこの世の中にあるのか、と思った。少し距離のあるところから、花々の枝を通して、しばらく見とれていた。

それは生命力の、生命そのものの喜びの声であり、喜びの輝きだった。

Another big Somei-yoshino tree


しばらくして、お母さんが「もうおうち、帰ろうよぉ」と言った。女の子のキラキラした笑い声は止まない。お母さんは家でやることがあるから帰らねばならない、ということを言い、女の子は「じゃあ、おうち帰ったら、○○する?」といったことを言い、何往復かのやり取りの後、彼女は静止したブランコからぱしゅっと飛び降りた。ほんの十数秒のうちに、お母さんと手をつないで、スキップして、彼女は行ってしまった。後には、彼女の輝くような笑い声がまだこだましていた。開いて間もない花々をたっぷりつけて重くなり、私の目の高さまで垂れ下がった桜の枝が、わずかな風にゆれていた。

Another big Somei-yoshino tree

Another big Somei-yoshino tree

Another big Somei-yoshino tree


翌4日になっても、あの光景は、頭を離れなかった。別の場所に出かけて別の木々を別の光で見ても、ずっと残っていた。

sakura_04april2017.jpg


そして、記憶を反芻するようにして帰宅した私がTwitterの画面の中に見た光景は、3日に桜の大木の下で見たのと同じ年頃の子供の姿のある光景だったが、両者はまるでかけ離れていた。3日に見たのは生命の輝きそのものの光景。今ここで目にしているのは生命の輝きが完全に奪い去られた光景。空気中の化学物質が、血を流すことなく、文字通りに人々の「息の根を止めた」光景。2013年8月に同じTwitterの画面の中に見た光景。1988年の出来事の記録のなかに見られる光景。










アレッポから(母親が英語で)ツイートしていた7歳のバナ・アルアベドさんのアカウントからも、ニュースは(写真つきで)流れていた。




それから10日が経過した。こんなことがあったことなど、もはや、多くの人々にとっては「記憶のかなた」かもしれない。「ああ、そういえばそんなこと、ありましたっけねぇ」的な何かかもしれない。

「世間」はそうやって忘れていくだろう。私だって忘れていく。

でも、私がTwitterで見た写真やビデオ映像の中で、うつろな目をして口を半開きにし、もがくように顎を上げ、手を伸ばそうとしていた子供たちは、桜の大木の下のブランコに乗っていたあの子供がキラキラと輝くような笑い声を上げていたときに、同じように桜の花の下で笑っていたかもしれないのだ。せめてそういうことは書き留めておきたい。何もできない、できるわけがない。けれども、せめては。

In these dark days, the drive through Idlib province is a study in contrasts. Few places match its beauty in spring – green as far as the eye can see, olive and cherry trees in blossom, yellow and purple flowers alongside the verdant hues of the earth.

But look further into the distance, at the towns and villages that dot the countryside along the way to and from Khan Sheikhun, scene of the chemical attack on Tuesday that killed more than 80 people, and you will see columns of smoke rising in the sky.

Tragedy of a father who lost more than 20 family members in Khan Sheikhun
Kareem Shaheen in Idlib province
Saturday 8 April 2017 22.50 BST
https://www.theguardian.com/world/2017/apr/08/syria-town-mourning-chemical-attack






※記事内容のツイート、この続きはこちらでどうぞ

化学兵器使用のあと、「国際社会」はまたぞろ「国連安保理の緊急会合」を開き、アサド政権を非難するのしないので真っ二つに分かれた。2013年のゴータの町での化学兵器使用時と同じだ。

2013年と同じでなかったのは、米国が――というか、米国からの報道を見る限り「ペンタゴンが」と言ったほうがよいのかもしれないのだが――アサド政権の管理下にある軍用施設にミサイルを撃ち込むという行動に出たことだ。

そして、その「ミサイル攻撃」は実質的には何の変化ももたらさず(軍用空港にミサイルを撃ち込んだのだが、空港のインフラを破壊していないという)、2011年に始まった民主化要求運動が政権による武力弾圧で武装蜂起化し、内戦となって、政権が自国民の暮らす町に対して持っている限りの兵器を使い、兵器の在庫が尽きたらドラム缶的などこにでもあるような容器に爆薬を詰め込んで起爆するようにした手作りの「樽爆弾(バレル・ボム)」(テロリストがよく使う「パイプ・ボム」を巨大化したようなもの)を空から投下するという、常識では多くの人たちには考え付かなかったようなこと(実際、「アサドの武器庫が空になるまでの辛抱だ」と見られていたのだ)が平気で行なわれている状況は、きっとこれからも継続される。なぜなら、英米仏が「非戦闘員の保護」を掲げ、「独占的に空軍力を有する政権側が、自国民を殺戮することを阻止するため」として「飛行禁止区域(空域): No Fly Zone, NFZ」を導入する(という形で軍事介入する)よう行動するということは、シリアについてはありえないからだ。なぜありえないかというと、英米仏はアサド政権の最大の支援者であるロシアの賛同を取り付けることはできないからだ。2011年のリビアについて、国連の場でNFZを導入し、その後「非戦闘員の保護」をはるかに超えたことをやってカダフィを除去した英米仏(特に英仏)は、リビアのときはロシアを何とか説得したが、「リビアのNFZ導入」が「カダフィの除去」という結果を生じさせた(→「カダフィの除去のためのNFZ導入だった」と解釈される)以上、もはや国連安保理が「NFZ導入」という「人道的(人道の見地から必要と思われるもの)で、軍事的にはかなり消極的な軍事介入」で一致する望みはない。

そういう状況の中、米国が、というかドナルド・トランプ個人が「あれらの子供の写真を見たら何もしないではいられなかった」的なことを公言して(役者だね)行なった軍事行動は、しかし、実際には(米国内向けのパフォーマンスという側面をのぞいては)何の意味も持たない。交渉を前提としてゆさぶりをかけるときには使われるような強硬な手も、交渉がないときには意味はない。破壊されなかった滑走路からは今日も樽爆弾投下のために航空機が飛び立っているだろう。

そして、子供のキラキラした笑い声が、永遠に、止められていることだろう。

世界に知らされることなく。

そういうときに、自分の目の前の幸せな光景だけを見て、「ああ、よかった、日本はあんなふうでなく、平和で」などという脳内花畑に逃げ込むことは一種の防衛反応なのかもしれない。しかし、それをネットという全世界に開かれた場で発言することは、今そこで消されている声の持ち主にとって、たいへんに侮辱的なことでもある(「日本語で書けば日本人以外にはわからない」と思っている人もいるかもしれないが、日本が好きで日本語を勉強している人たちは、世界にものすごく大勢いるし、そういう人たちはTwitterなどで日本語の発言を熱心に読んでいる)。「日本のこの平和を守りたい」的なことは、「チラシの裏に書いとけ、な?」というレベルのことだ。自分だけで、あるいは家族や友人との身内の場で、または言論についての全責任を自分で取れるような場(講演とか論文とか)で発言するのは構わない。しかしSNSは、「チラシの裏」ではないし、そこでの「言葉」は文脈を持たない(=言論についての責任の所在を持たない、発言者の事情や信念などを持たない)状態で、単なる「言葉」として、それを読み解ける人々にダイレクトに飛んでいくのだ。




4月5日、この「まとめ」のページで何が起きているのかをできる範囲で最大限記録する作業をしながら、4日の夜に画面の中に見た子供たちの顔と、3日の昼間に桜の大木の下のブランコでの光景がずーっとまぶたの裏に浮かび、あのキラキラとした笑い声が耳の中でこだましていた。

作業をしながら、「よかった、日本は平和で」なんて、思いもしなかった。(こう言うと「反日」呼ばわりされるのだろう。)

はるか昔、80年代にLive AidだのWe Are The Worldだののビデオやインタビューを小林克也の番組で見ながら、「よかった、日本は食べ物がいっぱいあって」なんて思ってた人はいなかっただろうと私は思うのだが、案外、「よかった、日本は」的な人の方が実際は多かったのかもしれない。「日本は、日本は」言説の横溢に触れるたびに、そう思う。実際、例えば北アイルランドのことに関してまで「日本には何ができるのか」という問いを立てない限り、話を聞こうという人がいない(とされる)のがデフォだし(何もできることなんかないっていう前提に立つことができないのだろうか)、「ロンドンの美術館の歴史」のような、現地に山ほど研究業績があるものについても、「翻訳でなくて日本人が自分で書くことが必要です」と言われるのがデフォだ。

(とかいうことを書いてるとまた「世界市民乙」とかいうネット臭い嘲笑と罵倒がどっかから飛んでくることだろう。ブログのコメント欄を開けていたころはそういうのに対処するのも日課の1つだった。)

そういうなかで、シリアで政権側がまいたサリンによって殺されていった人々のことは、単に「よかった、日本は平和で」とつぶやくために、ダシにされ、踏み台にされ、消費されて終わるのかもしれない。

それでも、記録は必要だ。だから。

シリア、イドリブ県での化学兵器による攻撃から、米国のミサイル発射までの経緯まとめ
https://matome.naver.jp/odai/2149153879577747201
















2017年4月4日の私のツイートのログ:
http://twilog.org/nofrills/date-170404/asc



本稿の表題とした「日本で桜の花が咲いているとき、日本以外でも桜の花が咲いている」について。

私は2004年からFlickrを使っている。Flickrは写真を投稿して公開する(シェアする)サイトで、私が登録したときはカナダのベンチャーだったが、その後米Yahoo!に買収されたため、「Yahoo系サービス」として扱われている。

2004年当時、写真をシェアするウェブサービスはいくつもあったが、写真を簡単にウェブサイトやブログに埋め込めること、クリエイティヴ・コモンズのライセンスでの公開ができること(サービス開始時はCCがデフォルトだった)、ユーザー同士が写真を持ち寄って議論したり批評しあったり、単に楽しんだりする「グループ」の機能があることなど、「交流」という点で最も先進的なのはFlickrだった。そして先進的なサービスには多くの人が世界中から集まった。写真には言葉が必ずしも伴わなくてよいので、Twitterなどよりずっと「グローバル」だった。(時制の一致のため過去形にしているが、現在もそうである。)

本稿で見たガーディアン記事には、化学兵器が使われたシリアのイドリブ県に入った記者が見た光景が、「見渡す限り緑が広がり、オリーヴの木や桜の木が花を咲かせている」といったように描写されている。

この「桜 cherry」が、日本のうちらが「桜」と呼ぶのとまったく同じ種の花であることはないかもしれないが、この時期、地球のあちこちで「桜」と呼ばれる花が咲くということは(「桜」にほとんど「信仰」のようなナショナリズムがある日本ではあまり語られないかもしれないが)、いわずもがなの事実である。そういえば3月下旬にアイルランド島の一番北のほうに位置するデリーで行なわれたマーティン・マクギネスの葬儀でも、教会の脇で「桜」のような花が咲いていた。

で、そういうことをヴィジュアルで確認するのにとても便利に使えるのが、Flickrだ。Flickrには、世界各地の「桜 cherry blossoms」の写真がある。

例えばこれは米カリフォルニア州ディクソン:
Cherry Blossoms

これはスコットランド:
https://www.flickr.com/photos/kamesargyll/7024118933/
※撮影者が埋め込みを許可していないのでURLからごらんいただきたい。とてもきれいな写真。

これはイングランド:
Cherry-Blossom

これはトルコ:
#springiscoming , in Turkey

これはスイス:
Blossom

……と、こんな感じだ。

で、つい先日、私が「ピンクの花」のグループに投稿した写真にコメントをくれた人のページを見てみたら、その人の写真にも同じような「ピンクの花」が並んでいた。

WP_20170325_08_59_21_Pro

WP_20170325_10_05_33_Pro

下記はモモの花だろう。
2017-03-28-8140

これらの写真を撮ってアップしているvale 83さんは、個々の花に名前を書き添えておらず、どこで撮影されたのかの情報も一切添えられていないが、他の写真を見ていくとセルビアの首都ベオグラードのものが多いので、セルビアの人なのだろう。

ボケの花もある。
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私が撮った東京のボケ:
ボケ

こういうものを目にする環境に身を置いていれば、根拠などあるのかないのかわからないような「日本だけ」論にはまり込んでしまうこともないのではないかと思う。もちろん日本とは違うものもたくさん目にすることになるが、そういうのを見るたびに「日本は」「日本は」と言うことなど、ばかばかしくてやっていられなくなるだろう。

例えばシクラメンは、イングランドでこう咲いている。
Pink Drift

※この記事は

2017年04月15日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 06:45 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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