kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年08月04日

北アイルランドの「自治」に関する、よくある誤解・誤認について

北アイルランドの自治議会・自治政府は、現在、絶賛空転状態のまま夏休み中だ。夏休み明けにどうなるのか、全然見通しが立たないのだが、この北アイルランドの自治システムについて、「1999年、ブレア政権下での地方分権法によって設けられたものだ」といった誤りをけっこう頻繁に見かける。

直近の例は、この6月にちくま新書から出た近藤康史氏の『分解するイギリス』で見たものだ。この新書は、2015年の総選挙と2016年のEUレファレンダム以降の「ウエストミンスター・モデル」(英語でググるとthe Westminster systemという表現が数多く表示されるが、the Westminster modelという表現も比較政治学の分野の論文など数多くヒットする)の現状を解説・検討する本で、「そもそも『ウエストミンスター・モデル』とは何なのか、どのような性質なのか」というところからたっぷり解説してくれていて、読者がその「モデル」を規範(モデル)と思っていようといまいと、有益な本だと思う(英国の政治システムを規範と思っている人にとってはことさらに有益かもしれない)ということは最初に述べておく。なお、このタイトルにはどうしても、「ぐは、トム・ネアン!」と反応してしまうのだが、著者の近藤氏の「分解」の定義(「序章」の最後に記されている。紙の書籍でpp. 36-37)は、「連合王国の解体」的な意味に限定はされない(ただ、実際にそのように「分解」しているのかどうかについては、この書籍の奥付にある発行日と数日前後して行なわれた今年の総選挙の結果を見るに、疑問がある。というか、70年代にもこういう程度の「分解」は起きていたのではないか。19世紀にも)。
4480069704分解するイギリス: 民主主義モデルの漂流 (ちくま新書 1262)
近藤 康史
筑摩書房 2017-06-06

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本稿はこの書籍について論評する目的ではないので、書籍紹介はここまでにして本題に入ろう。問題の記述は第1章「安定するイギリス」(この章では「モデル」たるイギリスについて解説されている)の第5節「集権的国家」内、「連合王国としてのイギリス」という小見出しのパートである。紙の本ではp. 74.

 この点で重視されるのは、先の「立法権」の問題である。1999年の分権化以前において、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに、地域固有の議会は設置されていなかった。

※引用者注: 下線部は誤り。

――近藤康史『分解するイギリス――民主主義モデルの漂流』(ちくま新書1262)、筑摩書房、2017年


スコットランドとウェールズに立法権のある議会が設置されたのは、確かに、1999年の分権化においてである。しかし、北アイルランドはそうではない。あのややこしい土地には、あのややこしい土地が「北アイルランド Northern Ireland」として「南」から切り離されたときから、「地方固有の議会」が設置されていた(北アイルランドを「地方 region」と呼ぶことには抵抗があるが……provinceなので。ただ、これも日本語だと「ほとんどの場合、日本語では州と訳すが、アイルランドは例外で地方と訳す」という状態で、実にややこしい)。1920年に、The Parliament of Northern Irelandが設立されていたのである。

一方、現在絶賛空転中の北アイルランド自治議会は、The Northern Ireland Assemblyである。

「パーラメント」と「アセンブリー」の両者、建物は同じストーモントの議事堂(写真)を使っているとはいえ、別物である。日本語版ウィキペディアはなぜか両者を「北アイルランド議会」として一緒くたに扱っているのだが(日本語版ウィキペディアでページが創設されたときは私は一切見ていなかったので、なぜこうなっているのか、経緯はわからない)、日本語では同じ「議会」でも英語ではparliamentとassemblyという別の語が用いられているので、辞書ならばともかく事典としては、本来一緒くたにすべきではなかろう。ちなみにparliamentとassemblyの違いについてはこちらなど。もっともっとちなみに、スコットランドはThe Scottish Parliamentで、ウェールズはThe National Assembly for Walesである。もっともっともっとちなみに、The Scottish Parliamentは文法的にThe Parliament of Scotlandと言い換えられそうなものだが、後者はスコットランドとイングランドのunionが成立する前の、「スコットランド王国」時代の議会のことであり、両者の言い換えは成立しない。(同様のことが、The Republic of Irelandと、The Irish Republicの間にも生じている。これについてちゃんと把握できたのは、日本語を介在させることをやめたからだ。)

The Parliament of Northern Irelandは1920年のGovernment of Ireland Act(つまり第4次アイルランド自治法)によって設置され、1972年3月に廃止された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_Northern_Ireland

話が長くなるのだが、設置時の「第4次アイルランド自治法」とはこういう法律だ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Government_of_Ireland_Act_1920
The Act was intended to establish separate Home Rule institutions within two new subdivisions of Ireland: the six north-eastern counties were to form "Northern Ireland", while the larger part of the country was to form "Southern Ireland". Both areas of Ireland were to continue as a part of the United Kingdom of Great Britain and Ireland, and provision was made for their future reunification under common Home Rule institutions.


つまり、「グレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国」の時代、英国統治下のアイルランドの「北」(北部6州、現在の北アイルランド)と「南」(それ以外の26州)のそれぞれに自治議会を設置する、という法律である。

※北アイルランドについて「住民の多数が英国への残留を望んだので英国に残留することになった」というがっさりした説明がなされることが多いが、「北」を、アントリム、ダウン、アーマー、ロンドンデリー、ファーマナ、ティローンの北部6州と規定し、それを「アルスター」と呼んだこと自体が恣意的なことである(ユニオニストたちは、アイルランドにおける「アルスター」から、カトリックが多数であるドニゴール、モナハン、キャヴァンを除外してアルスターのプロテスタントたちにとって外せないデリーなどを入れて「アルスター」と画定した)。最初っから「プロテスタント」が多数になるように、アイルランド島において歴史的根拠があるわけでもない境界線を策定し、「プロテスタントが多数」になるよう工作された地域が「北アイルランド」である。詳細は下記参照。
https://en.wikipedia.org/wiki/Partition_of_Ireland

英国の統治下に置かれていたアイルランドで「自治 Home rule」を求める動きが活発化したのが19世紀末のこと(このときにも「ウエストミンスターの二大政党制」は大揺れに揺れたのだが)。ブリテンの側に自治推進派と自治阻止派がいたことは自明だろうが、案外見落とされがちで語られずにいるのは、アイルランドの側に自治賛成派と自治反対派(英国による完全な支配・統治を望む人々)がいたということである。アイルランドにおける自治反対派は、「自治とはいうが、実体はカトリック支配だ Home rule is Rome rule」という標語を掲げて猛烈に抵抗した――基本的に自治反対派はプロテスタントで、教義上、カトリックとは相容れない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Home_Rule_Crisis#Unionist_opposition

それら自治反対派の中でも猛烈だったのが、17世紀以降に北部アイルランドに入植したスコットランド出身のプロテスタント(主にカルヴァン派)の子孫たちで、血判状みたいなのを作って47万筆以上の署名を集めるし(1912年9月、アルスター誓約)、自治に抵抗するための武装闘争を準備して秘密結社は作るし(このプロテスタント側の秘密結社「アルスター義勇軍」結成に応じて、カトリック側でも秘密結社「アイリッシュ義勇軍」が作られた。後のUVFとIRAのルーツである)、武器は密輸するしでえらいことになっていた。しかしそれがエスカレートする前に、第一次世界大戦が始まった(1914年7月)。そのため、アイルランドの自治導入によるプロテスタント(自治反対派、ユニオニスト)の反乱という危機は回避された。
https://en.wikipedia.org/wiki/Home_Rule_Crisis

第一次世界大戦は1918年11月まで続くが、その間の1916年4月に「アイリッシュ義勇軍」などアイルランドの民族主義組織がダブリンで武装蜂起した(イースター蜂起)。蜂起そのものはすぐに英軍によって鎮圧されたが、蜂起を計画した人々(ナショナリズムのイデオローグたち)があっという間に処刑されたことで英国への憎悪・反感が高まり、アイリッシュ・ナショナリズムが燃え上がることとなった。そこから、アイルランド独立戦争(1919年1月〜1921年7月)へとつながっていく。(※実はこの間に徴兵制をめぐる英国の失策とFirst Dailなどもあるのだが、ここでは話をはしょる。)

1920年の「第4次アイルランド自治法」は、そういう状況の中で制定されたが、結局「南」の26州では発効しなかった。その代わり、「南」は英国との間にアングロ・アイリッシュ条約(英愛条約、1921年12月)を結ぶこととなった。同条約は1922年3月に発効し、アイルランドの「南」26州は大英帝国内(英連邦内)でウエストミンスターの支配を受けず自治を行なう「アイルランド自由国 the Irish Free State」となった。
https://en.wikipedia.org/wiki/Anglo-Irish_Treaty

(※ここで「アイルランド内戦」があるのだが、長くなるのではしょる。対英抵抗運動をともに戦ったアイリッシュ・ナショナリストが、アイルランドを「南」と「北」に分けるアングロ・アイリッシュ条約を推進する勢力と、条約に反対する勢力とに分かれ、相互に殺しあった。ケン・ローチ監督の映画『麦の穂をゆらす風』を参照。)

アイルランド自由国は1937年12月末に新憲法を採択し、「アイルランド共和国 the Republic of Ireland」となり、英連邦からも離脱して完全に独立した(そのため、「王国」であることを明確に否定する「共和国」となった)。

一方の「北」の6州では、1920年の「第4次アイルランド自治法」で設置された議会、The Parliament of Northern Irelandがそのまま機能し続けた。この議会のもとでの統治(自治)では、権力は常にプロテスタント(ユニオニスト)にあった(「プロテスタント独裁」の状態である)。カトリックは「二級市民」として差別にさらされた。南アフリカのアパルトヘイト体制との類似も見られるこの政治体制が、やがて60年代のうねりの中で、「二級市民」たちの公民権運動を引き起こす。それが武装化して「北アイルランド紛争」と呼ばれる事態に突入していき、1972年1月30日にデリーで「デモ隊と英軍との衝突」(実際には、非武装のデモ隊に対する軍隊による狙撃・銃撃)で13人の市民が殺されるということが発生し、報復としてベルファストなどで英軍を標的とした攻撃が行なわれるなどし、いわゆる「暴力の連鎖」が加速する中で、ついに1972年3月、英国政府は1920年以来の「北アイルランドの自治」を停止、北アイルランド議会(パーラメント)は廃止されるに至った。

この時代の「北アイルランドの自治」、すなわち「プロテスタントによる支配」が、いかに自分たちだけに都合がよいように構築されたものだったかについては、例えば立命館大学の南野泰義教授の論文(2007年)がネットで自由に読めるようになっているので、参照されたい。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ir/college/bulletin/Vol.27-4/11_MINAMINO.pdf

少し引用。
さて,1920年12月23日に成立した The 1920 Government of Ireland Act に基づき設置された北アイルランド政府(以下,ストーモント政府)は,かかる政府が停止される 1972 年まで,アルスター・プロテスタントによる北アイルランド支配に実効力を持たせる権力機関として機能してきた。同法成立後,ストーモント政府は,北アイルランドにおけるユニオニストの優位を維持・強化するために,単記移譲式比例代表制(STV)の廃止と小選挙区相対多数代表制への移行,企業主特権などの資産要件に基づく制限選挙と多数派の政権党に有利な恣意的な選挙区区割り(ゲリマンダリング)によって,ナショナリストを少数派としての政治的地位に固定化するとともに,アルスター・ユニオニスト党(UUP)を中心とするユニオニストの一極支配体制(以下,ストーモント体制)の構築に成功していた。かくて,ストーモント政府は,英国の国家組織の一部分を構成するものでありつつも,北アイルランドという領域内においては,「オレンジ国家」と呼ばれるように,少数派のナショナリストから見れば,民主主義的手法による「多数者の圧制」を体現するものであった。


ここにさくっと述べられているディテールは「英国は一律でウエストミンスター・システム」という《神話》を打ち砕くものだろう。選挙のやり方そのものに関しても、北アイルランドのパーラメントでユニオニストたちが廃止してしまった(つまり、それまで行なわれていた)STVという方式は、「ウエストミンスター・システム」の単純小選挙区制で行なわれている(うちら日本での選挙区の投票も同じ)「候補1人だけを選んで投票する」という方法とは異なる。(ちなみに、このSTVという方式は、現在の北アイルランド自治議会選挙で採用されている。この方式だと開票に時間がかかるが、民意の反映では単純に1人だけ選ぶのより正確性が上がる。)

さて、1972年3月30日に北アイルランド議会(パーラメント)は廃止され、ウエストミンスターの直轄統治(ダイレクト・ルール、direct rule)が始まった。その詳細は、無駄に長くなるだけだからここでは触れない。ただ、英国政府としても直轄統治は暫定的な方策として意図していたということは記しておくべきだろう。その事実は、パーラメント廃止の翌年、1973年には、ユニオニストだけでなくナショナリスト(「二級市民」の側)も参加して権限を分譲する形の自治議会(アセンブリー)・政府が導入されたという事実が明確に示している。ただし、この1973年のアセンブリーは翌74年には廃止され、また直轄統治に戻ってしまった。ナショナリスト(カトリック)の政治参加に対するユニオニスト(プロテスタント)の抵抗運動のせいである(ちなみにその抵抗運動のリーダーの1人が、かのイアン・ペイズリーだった)。その後、80年代にもまたアセンブリーと称する機関が設置されたことがあるが、それは立法府ではなくウエストミンスターの直轄統治に対するチェック機関で、これもすぐにつぶれた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Northern_Ireland_Assembly#Previous_legislatures

その直轄統治を終わらせ、現在の北アイルランド自治議会(空転しているが)につながる自治議会(←ややこしい書き方をするにはそれなりの事情がある)、すなわちThe Northern Ireland Assemblyを作ったのが、The Northern Ireland Act 1998(1998年北アイルランド法)である(1999年の地方分権法ではない)。

1998年北アイルランド法は、1998年の和平合意(ベルファスト合意、通称「グッドフライデー合意」、略称GFA)によって制定された法律である。北アイルランド和平もまた、1999年の地方分権法と同じく、1997年に政権を取った労働党のトニー・ブレア首相のリーダーシップのもとで進められ、可能となり、実現にこぎつけたものではあるが、地方分権法と北アイルランド和平の間には別につながりはない。北アイルランドの自治は、1920年から続いてきた自治という伝統を復活させただけで、新規に設けられたわけではない。

……というのも、ひょっとしたら「歴史解釈」になるのかもしれない。「1998年北アイルランド法で設置された自治議会は、新規に設けられたものだと考えられる」という解釈も可能なのかもしれない。しかしいずれにせよ、地方分権法とは関係はない。

で、先ほどややこしい書き方をした件だが、現在(2017年)の北アイルランド自治議会(アセンブリー)は、1998年のGFAではなく、2006年のセント・アンドルーズ合意と、それを受けて制定された2006年北アイルランド法 The Northern Ireland (St Andrews Agreement) Act 2006に基づくものだ、という主張がある。「主張がある」というか、現在北アイルランド自治議会で最大議席を有するDUPがそう解釈している。DUPは「何が何でもGFAには反対」であり、その建前(「建前」と言うと正確ではないように思うが)を貫くため、「GFAとは別の合意には賛成だ」という《物語》が必要とされている。だからDUP的には「現在のアセンブリーはセント・アンドルーズ合意に基づくもの」ということになるのだが、がっさり理解するためには「現在のアセンブリーは基本的に1998年GFAに基づくもの」と思っていても構わないと思う。

すっかり長くなってしまった。英国について、「1999年の分権化以前において、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドに、地域固有の議会は設置されていなかった」という記述が誤っているということを(ある程度)本気で示そうとすると、このくらい書くことになるわけだ。

でもこんなことは、「英国政治」の研究にとってはどうでもよいことなのだろう。



北アイルランドのパーラメントを設立した第4次アイルランド自治法(1920年アイルランド統治法)について、山本正氏は『図説アイルランドの歴史』(2017年、河出書房新社)において次のように説明している。
 英首相ロイド=ジョージは、アイルランド統治法を独立戦争中の1920年12月に連合王国議会で成立させている。その内容は、アイルランドをアルスター地方のうちアントリム、アーマー、ダウン、ファーマナ、ロンドンデリー、ティローンの6県からなる「北アイルランド」とそれ以外の26県からなる「南アイルランドに分割し、それぞれに内政に関する立法権を有する議会と責任政府を認めるとともに、全アイルランド的問題を扱う場としてアイルランド評議会を設置する、南北アイルランドともウェストミンスターの連合王国議会に代表される、南北が合意すれば単一のアイルランド議会の樹立も可能とする、というものである。アルスター・ユニオニストは(第一次世界)大戦中にアイルランド全体を諦め、アルスター地方のみの連合王国への残留に重点を移していた。といっても、ユニオニスト側が自治を望んでいたわけではけっしてない。ロイド=ジョージが事前にアルスター・ユニオニストの指導者、クレイグを説得して、これを受け入れさせていたのである。……

――山本正『図説アイルランドの歴史』(ふくろうの本)河出書房新社、2017年、p. 118


というわけで北アイルランドのユニオニストは昔っからめんどくさかったのである。彼らがいかにめんどくさいかは、トニー・ブレアの回顧録に詳しい。一方、現首相のテリーザ・メイはきっと、そのことをあんまりよく知らない。英国の政治家としては、そんなことは知らなくても何とかなってきたのだろう。2010年以降16年に党首となるまで、メイは内務大臣を務めてきたのだが、内務大臣としてはテロ組織の活動にだけ注意を払っていればよかったのだろう。

4309762530図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本)
山本 正
河出書房新社 2017-04-24

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※この本、とてもよい。こういう通史的な一般向け書籍は日本語圏では古いもの(2000年以前のもの)、それもいわゆるナショナリスト史観ばりばりのものは出ていたが、「ケルトの虎」以降に書かれたバランスの取れた本が出たことは、まさに「待望の」という修飾語で語ってよいことだと思う。



近藤氏のちくま新書だが、北アイルランド・ヲチャとしてはもうひとつ気になる記述があった。GFAに関し「『イギリス残留』や『北アイルランド議会の設置』などを骨子とする」と説明された箇所である(紙の書籍でp. 168)。GFAは「北アイルランドのイギリス残留」を規定しているのだろうか?

GFAの条文はここで読める。
http://cain.ulst.ac.uk/events/peace/docs/agreement.htm

当該箇所を引用しておこう。
1. The participants endorse the commitment made by the British and Irish Governments that, in a new British-Irish Agreement replacing the Anglo-Irish Agreement, they will:

(i) recognise the legitimacy of whatever choice is freely exercised by a majority of the people of Northern Ireland with regard to its status, whether they prefer to continue to support the Union with Great Britain or a sovereign united Ireland;

(ii) recognise that it is for the people of the island of Ireland alone, by agreement between the two parts respectively and without external impediment, to exercise their right of self-determination on the basis of consent, freely and concurrently given, North and South, to bring about a united Ireland, if that is their wish, accepting that this right must be achieved and exercised with and subject to the agreement and consent of a majority of the people of Northern Ireland;

(iii) acknowledge that while a substantial section of the people in Northern Ireland share the legitimate wish of a majority of the people of the island of Ireland for a united Ireland, the present wish of a majority of the people of Northern Ireland, freely exercised and legitimate, is to maintain the Union and, accordingly, that Northern Ireland's status as part of the United Kingdom reflects and relies upon that wish; and that it would be wrong to make any change in the status of Northern Ireland save with the consent of a majority of its people;

(iv) affirm that if, in the future, the people of the island of Ireland exercise their right of self-determination on the basis set out in sections (i) and (ii) above to bring about a united Ireland, it will be a binding obligation on both Governments to introduce and support in their respective Parliaments legislation to give effect to that wish;

(v) affirm that whatever choice is freely exercised by a majority of the people of Northern Ireland, the power of the sovereign government with jurisdiction there shall be exercised with rigorous impartiality on behalf of all the people in the diversity of their identities and traditions and shall be founded on the principles of full respect for, and equality of, civil, political, social and cultural rights, of freedom from discrimination for all citizens, and of parity of esteem and of just and equal treatment for the identity, ethos, and aspirations of both communities;

(vi) recognise the birthright of all the people of Northern Ireland to identify themselves and be accepted as Irish or British, or both, as they may so choose, and accordingly confirm that their right to hold both British and Irish citizenship is accepted by both Governments and would not be affected by any future change in the status of Northern Ireland.


私にはこれは「イギリス残留」を骨子としている、というようには読めない。"whether they prefer to continue to support the Union with Great Britain or a sovereign united Ireland" とはっきり書いてあるのだから。

だが政治的判断で、これは「イギリス残留」を骨子としているのだと読むことも不可能ではないだろう。

2016年のEUレファレンダム後ににわかに日本語圏で注目された北アイルランドのborder poll(日本語圏では「北アイルランドの分離」と語られたが、実際には、「アイルランドの統一の回復」である)は、上記GFAにある "a sovereign united Ireland" への支持を問うレファレンダムの実施ということで、それは別に「強硬派のシン・フェインが主張していること」ではなく、関係筋が1998年に合意したGFAに明記されていることなのである。まして、シン・フェインやIRAが主張していることは「北アイルランドの分離独立」などではまったくないのだが、これは、何度でも強調しなければならないのだろう。でも、ぼくもう疲れたよ……



【追記】8月5日夕方
はてなブックマークのトップページに上がっていた。
hb05aug2017.png

ブクマ件数が2桁に行くなどとは思ってもいなかった。こんなニッチなトピックなのに、意外と多くの方が関心を持っていらっしゃるのだろうか。

関心をお持ちの方は、当ブログは当ブログで最善を尽くしてはいるけれども、より体系的でまとまった記述として、上でも参照した山本正氏の本をぜひ、読んでいただきたいと思う。日本語圏で「アイルランド」について書かれている本が「北アイルランド」をスルーしていることは珍しくないが、この本は北アイルランド紛争について1章を当てている。「ふくろうの本」というとっつきやすい形態だが、古い時代のことも過剰にロマンチックにならずざくざくと解説した、かなりハードコアな本である(「ふくろうの本」の地域研究的な本には、中身が濃いものが多いのだが)。

上にリンクしたけれど、ここにも改めて貼り込んでおこう。Amazonでなくてもほかのオンライン書店でも買えるし、まだ新しいので実店舗にもある(私は今でも健闘している「駅前商店街の個人経営の本屋さん」の棚で見つけて購入した)。

4309762530図説 アイルランドの歴史 (ふくろうの本)
山本 正
河出書房新社 2017-04-24

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なお、当ブログはブクマコメントの一覧を非表示にしているが、ある程度件数がある場合は、気まぐれにキャプチャを掲載することにしている。本エントリの様子は下記のようになっている。つまり、現時点でどなたもコメントしていない(ただし最初にブクマした私のコメントというかメモはある。私のブコメは検索を容易にするためのタグ付けが目的で、コメント独自の内容はないよう)。

hb05aug2017b.png

あと、当ブログのエントリなのにはてなで勝手に設定する「カテゴリ」が「テクノロジー」になっていないのは、親切などなたかが修正してくださったのだと思う(私がブクマしたときは「判定中」だったのだが、ほぼ間違いなく自動で「テクノロジー」扱いされていると思う)。どなたかを知ることはできないが、この場を借りて御礼申し上げたい。ありがとうございます。

※この記事は

2017年08月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼