kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2018年03月25日

骨折生活のディテール (2) 〜8週を過ぎてかなり回復

12月に骨折したあとの「右手が使えない」状態での日常生活について、1月の末に書いた記事の続きを書いておこうと思っていたが、なかなかその時間が取れずにいた。今もほかにすべきことは山盛りなのだが(例えばケンブリッジ・アナリティカに関する3月17日以降のガーディアンの怒涛の報道についてのページは、アップデートが全然追いついていない。今もまた新展開があって、さらに次のスクープが来てる。ことは「FBのデータが持ち出された」だけではない)、とりあえずケガからの回復の過程について書いておこう。腕を骨折した人はこんなふうなんだ、ということで、自分が骨折していなくても想像力を働かせるための材料としていただければと思う。実際、想像以上に細かい部分で不自由になるということは、1月の末に書いた通りだ。

なお、その記事が、あたかも受傷直後から炊事用のゴム手袋を使えていたかのように読めてしまうかもしれないのだが、受傷直後は右手は痛くて何もできない。手首に負荷をかけるようなさわり方もできない感じで、きつきつのゴム手袋はもちろん、ふつうの防寒用の手袋でさえつけられなかった。ゆるゆるのもふもふ素材の指なし手袋というか手首ウォーマーならなんとかなったので、厳寒期は右手はそういうのを着けてしのいでいた。左手は防寒用の手袋をしていたが、右手が使えないので大変だった。装着するほうは左手だけでなんとかなっても(正確には、椅子に腰掛けて手袋に手を突っ込んで、手首のゴムのところをひざなどに当てておいて、手袋の中に手をぎゅっと押し込む感じ)、外すのは片手ではできず、うちら世代なら必ず通じる「片平なぎさ方式」を使わざるをえなかった。気分は復讐に燃える悲運のピアニストである。

そんな日々も遠くなり、現在は右手の機能は、受傷前の(体感で)6割くらいまでは回復してきた。

お箸で食事ができているし(ただし手首が完全には動かないし、ケガしていないときに普通にやっていたような繊細な箸使いは無理)、日常持ち運ぶくらいのバッグなら右腕の肘を曲げてかけて歩くことも可能だ(ただしハードカバーの本が1冊あると無理)。手首が回転できず、商店でおつりとレシートを受け取るときに右の手のひらを上に向けて受け取るという動作ができなくなっていたのだが(だからそういうことは左手でやっていた)、それもここ2週間ほどの間にできるようになってきた。病院でも、診察とは別に進めているリハビリ(運動療法)で、毎回、動く範囲が広がってきている。腕を伸ばすほうはもう左手とあまり変わらないくらいまで伸ばせるようになっている。曲げるほうはまだ無理で、右腕を曲げて右の指先で右肩に触れるという動作がとても難しい。そんな感じでまだまだ筋肉がこわばっていて、例えば「スティック糊のふたを机の下に落としてしまった」ような場合にひょいと右手で拾い上げるという動作がうまくできないのだが、動く範囲が広がってくればできるようになるだろう。診察でも骨の回復は順調だし、骨に負荷がかからないようにしてさえいれば(だから「手をついて立ち上がる」とか「頬杖をつく」といった動作は厳禁)、腕を動かすという運動を意識しましょうと言われている。

目に見えて回復してきたことが感じられたのは、受傷から8週後のことだった。骨折(ひびを含む)の場合、だいたい8週間で損傷した組織が再生されて硬い骨ができてくるのだという。あとはその骨が固まるまで数ヶ月かかるのだが、8週を超えたら、なるほど、本当にそれまでできなかったことができるようになり始めた。

最初は「右手で歯ブラシを持って歯を磨く」という動作(左手で磨いていた。といっても普段から歯磨きは左手がわりと多いんだけど)。手首をまっすぐにしたまま、ひじを張ってぎこちないロボットみたいな動きだったけど、右手で歯磨きができたのはうれしかった。それから「右手で水道の蛇口をひねる」という動作。無意識にやっていて、「あれ、今、右手で蛇口操作してたじゃん」と自問自答したのだが、そのくらいさらっとできるようになった(蛇口を開くのはぐっと力を入れないといけないので無理だったが、閉めるほうができるようになった)。そのあとは「鍵穴に鍵を差し込んで回転」とか「ドアノブをつかんで回転」といった動作。手首は回せないのだが、指先で、あるいは指でつかんで腕全体・体全体でその動作ができるようになった。びんのフタもあけられるようになり、シャンプーを両手で泡立てて両手で頭全体に行き渡らせるといったこともできるようになり、ヘッドフォンも楽に装着できるようになった(左手だけでは装着がとても難しいので、イヤフォンを使っていた)。これにより、日常の細かい動作もろもろが楽になった。そのころには圧をかけるために(サポーター的に)装着していた弾性包帯も完全に外すように医師から指示された。

8週を過ぎたところで医師から「無理しないようにすれば自転車に乗ってもよい」と許可が出た。徐々に元通りの生活に戻していきましょうという段階に入ったわけだ。自転車は乗るときに肘に大きな負荷がかかるし、ハンドルを切るときやブレーキを操作するときにも案外負荷がかかるので、復帰してしばらくは顔がこわばっていたのではないかと思うが、3月に入ってからはもうそういうこわばりの感覚はなくなっている。ただ、1度、何かの拍子で一瞬だけ左手をハンドルから離したら右が「ぐぎ」となる感覚があり、冷や汗ものだった。無理をしたら治りかけているものを台無しにしてしまいかねないので、これは注意しなければならない。そして相変わらず、「スマホを見ながら自転車」とか「無灯火でスマホ自転車」とか「逆走で無灯火でスマホ自転車」とか「逆走で猛スピードでいきなり右折してくる自転車」とかいった危険運転者と遭遇している。(-_-;)

そのころには、バスタオルを背中に回して左右の手で両端を持って背中を拭くという動作もできるようになった。その動作ができた次には、お風呂でタオルで背中が洗えるようになり、背中に手が回せるようになった。靴を履くときに引っ張り上げる動作もできるようになり、丈の長いレギンスやハイソックスなども着脱できるようになった。肘を真横に張るというお子様スタイルだが、お箸を使って食事もできるようになった(その後運動療法を重ね、筋肉のこわばりをほぐしてもらうにつれて、肘を張らなくてもお箸が使えるようにはなってきた)。

それでも右手の手首は返せない状態で、左手の甲に右手でクリームを塗ることはできても、右手を使って洗顔する、右手で顔に化粧水をつけるといった動作はできなかった。ましてやファンデやシャドウの化粧は右手でできるはずもなく、全部左手(アイラインのような繊細なことは無理だけど、面でやることはけっこうできるもんです。眉はペンシルではなくパウダーを使うようになった)。この動作ができないと、レジでお釣りとレシートを受け取ることもできない。

それに、1月末の記事には書いていなかったようだが、受傷後はいつも使っていたお財布が使えなくなっていた。下記のタイプのものだ(このブランドのものではありません)。
ポールスミス Paul Smith 財布 二つ折り財布 メンズ ジップストローグレイン PSK865 ブラウン

2つ折りで、周囲にぐるりとついたファスナーを開け閉めして小銭が出し入れするという動作が、片手では非常に難しい。それに、札入れ部分も片手では出し入れがほとんど不可能。このため、レジで異様に時間がかかる(レジで小銭を出すにに手間取っている人は、手を怪我していたり、麻痺のためうまく動かせなかったりしているのかもしれない)。「右利き用」の道具は、左手では扱いづらいということがよくわかった。ハサミなど左では扱いづらそうなイメージがあるものが特に支障なく使えていたので、財布がこうなるとは思っていなかった。

そこで、小物入れとして使っていたがま口を財布として使うことにした。革製の硬いものではなく、下記のような布製のやわらかいもので、持っていたものがたまたまカードが入るサイズだったので、スーパーのポイントカードや電子マネーのカードを重ねて入れて間仕切り的に使い、一方に小銭、一方に折りたたんだお札を入れる。がま口はがばっと開くのが最大の利点だが、それ以上に「右利き用」の作りをしていない。左手で不器用に受け取ったお釣りを不器用にお財布に入れるのも、普通の財布より断然やりやすい。
五色帆布堂 「KYOTO JAPAN」 がま口 波丸

これはこれで不自由はなかったのだが、右手の自由が回復されてくるとやはり元々使っていた「右利き用」の二つ折り財布を使うことが日常生活でのよいリハビリになるだろうなと思うようになり、先週切り替えた。がま口は、いったんお金を入れてしまったので元の小物入れ(目薬などを入れていた)の用途には戻せないが、何か別の用途で使うことにしよう。

そしてお財布を元のに戻したら、一気にいろいろと加速した感じがする。加速した勢いで、もう右肘を痛めていることを忘れてしまいそうになる。1リットルの牛乳パックが入った買い物袋はもう持ててしまうので、その調子でうっかり、1リットルの牛乳パックとじゃがいも1袋(1キロはあるだろう)が入った袋を持ったら「ぐぎ」と来た。「ぐぎ」となっても荷物を下に置いて少しさするなどすればおさまる程度で、深刻なことではない。でもやはり気をつけなければならない。腕から手の筋肉や腱は複雑で、何気ない動作で考えてもいなかったようなところに負担がかかるものなのだということを、この3ヶ月間、右腕に教えられてきたのだ。

2017年秋の悪天候の影響でお野菜がバカ高い冬だったが、ここしばらく、ようやく値段が落ち着いてキャベツ丸ごと1個が普通の値段(198円とか)になってきて、スーパーに山積みされている。そういうのを見て「わぁい♪」と行って1つ手に取ると、「ぐぎ」と来る。手をボールを持つ形に広げて重さを支えるということがどこにどのような負荷をかけているのか、これまで考えたことがなかった、などと思いながら、慌てて左手に持ち直す。レタス1個は持てても、キャベツ1個は無理、という重量感が今の目安だ。

こんな感じで回復してきたところに、春の花の季節がやってきた。

枝垂梅

White mass

今年初のタネツケバナ

私が使っているカメラはRICOH CX5というコンデジである。Twitterで知り合った人から勧められて購入した初のリコーで、「リコーってこんなに使いやすいのか」と驚いた。CXシリーズは生産終了しているが、中古品はけっこう流通している。

B004KPL08CRICOH ハイブリッドAFシステム搭載 光学10.7倍ズーム CX5 ブラック CX5BK
リコー 2011-02-10

by G-Tools

本体はほどほどに小さくて軽く(大きさは2つ折りの財布より小さく、重さはスマホ程度)、コートのポケットに放り込んで散歩に行けるという気軽なカメラで、(手振れさえ起きない環境なら)手に持った状態で、右手だけで撮影モードを選び(ダイヤルで設定)、シャッターボタンを押してピントを合わせ、撮影するところまで簡単にできる。この一連の動作が、うまく動かなくなっている手首を使うリハビリの動作として、とてもいい感じだ。しかも花を撮ろうとすると地面にかがみこむようにしたり、腕だけ上方に伸ばしたりとさまざまな姿勢をとる。その上で手首を使うという動作ができる。

ハコベ

Cherry blossoms in the rain

Cherry blossoms in the rain

ユキヤナギと雨

個人的にはカメラのグリップはしっかり出っ張っててくれたほうが好きだったので、このカメラを最初に買ったときは「グリップが頼りないなあ」と思ったのだが、使い始めてみたらすばらしく持ちやすく操作しやすい(ただし、フラッシュ部分に指がかかるという問題がある)。というわけでカメラを持った手の角度をあれこれ変えながら、超接近で花の写真を撮るというリハビリに励むことにする。

夜桜

Street

桜の森の満開の下

撮るだけ撮ったら満足してしまうし、冒頭に書いたように立て込んでいて、なかなかFlickrにアップしないのだが、ほかにもいろいろな花を眺めている。

八重咲きの枝垂れ梅

なお、骨折とは関係なく、私は右手が腱鞘炎もちなので、よほど暑い時期以外は普段は手首にサポーターを装着している。手首の動きはこれに助けられているところはかなり大きいとは思う。

リハビリでの通院は週に1度、続いている。レントゲンと医師による診察は、受傷後8週を過ぎた段階で、週に1度から2週に1度になった。処方箋を出してもらうことは激減したが(筋肉の張りがつらいときは湿布を使うので、それを処方してもらっている)、通院はまだしばらく続きそうである。

※この記事は

2018年03月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 18:00 | 雑多に | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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