kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年01月20日

マーティン・マクギネス政界引退

この人に代わる政治家は、おそらくいないだろう。そのくらい、北アイルランドの政治において特異的な人物であり、重要な政治家であった(といっても、紛争期からポスト紛争期にかけて仕事をしてきた北アイルランドの政治家には特異的な人は何人もいるのだが)。

beltel20jan2017-min.pngバラク・オバマ米大統領が退任し、ドナルド・トランプの就任の儀式が始まるのとタイミングを同じくして、「マーティン・マクギネスの政界引退」というニュースが北アイルランドから入ってきた。現地の時間で19日(木)夜のことだ。ニュース系を中心に、関連のツイートはざっくりとアーカイヴしてある

マーティン・マクギネスについては説明不要だろう。

……というのでは「不親切だ」とくさされるだけなので、少しは書いておこう。まず、ワタシ的には「知らない人からの電話に出た人」(笑。あのときのことを思い出すと今でも大笑いできる)だが、それでわかる人は、「知らない人からの電話」のときに一緒にきゃっきゃうふふしていたヲチャ仲間だけだろう。

一般的には「元IRA司令官」と言われ続けている人だが、それはそれで違和感がある。北アイルランド紛争の時代にIRAのトップクラスの幹部だったことは事実だが、IRAでの活動したよりもずっと長くの時間を「リパブリカンの政治家」として政治の第一線で過ごしてきたからだ。日本では、女王と握手したときにニュースになった。

……と書いていて、もう飽きてきた。そういったことはこのブログに細かく記録してきたし、繰り返す気にはなれない。そういう「過去に書いたことの繰り返し」で消耗してしまう前に、今書くべきことを書かねばならない。どこの誰とも知らない「読み手」のために周知の事実を書いている間に、私の指先と頭の中からは、私が書きたかったことが形を結ぶ前に雲散霧消していく。「それってだぁれ」という方は、当ブログのサイドバーにある検索窓を使うなり何なりして、ご自身でお調べいただきたい。(→と、自分でもちょっと調べ物をしたときに偶然遭遇した2009年11月末のエントリが、とてもわかりやすいと思う。)

ともあれ、「IRAの司令官」だったマーティン・マクギネスは、武器を置いて政治家になり、そして政治家としてIRA(をいわゆる「武装部門」として抱えている「リパブリカン」という運動体)を、「武装闘争の停止」という方向に牽引してきた。それは、文章にしてしまえば一言だが、とてつもないことだった。マクギネスがまだ運動体(組織)の何番目かの幹部だったころ、トップは「武装闘争至上主義」とでも呼ぶべき思想で動いており(それをphysical-force Republicanismという)、運動体の目的である「統一アイルランドの実現」のためには、絶対に武力で「英国人 (Brits) を追い出す」ことになるという理念を中心にすえていた。「銃による武装闘争だけではその目的は実現できない」として「投票箱による政治的な闘争」との両立を主張したマクギネスやジェリー・アダムズの世代のリパブリカンの活動家たちが主導権を握ったのは、1980年代のことだ(そのときにアダムズ&マクギネスのいわば「新世代」のリパブリカンと袂を分かった武装闘争至上主義の人々の集団が、「リパブリカン・シン・フェイン」という名称の政治団体と、「コンティニュイティIRA」、つまりCIRAという武装組織である。CIRAは今も「武装闘争」を続けている)。

シン・フェインがアダムズ&マクギネスのもとで「銃も投票箱も」の方針に転換しようとしていたころのリパブリカン内部の人たちの証言を読むと、それは非常に難しく、忍耐力を要求されることだったということがよくわかる。その「組織の路線転換」を実現させたことが、アダムズ&マクギネスの第一の成功であり、後の北アイルランド和平へとつながっていく第一歩となった。

マクギネスは、そういう時代から実に30年あまり、リパブリカン・ムーヴメントの第一線で政治家として仕事をしてきた。そして今から10年前の2007年5月、仇敵だったユニオニスト過激派の親玉であるイアン・ペイズリーとのパートナーシップのもと、北アイルランド自治政府(ストーモント・エグゼクティヴ)のトップとなった。爾来10年。

北アイルランド自治政府は、ファースト・ミニスターと副ファースト・ミニスターの2トップでひとつという体制である。どちらかが辞すればもう一方も辞することになり、またエグゼクティヴ(自治政府)自体も、それを選出するアセンブリー(自治議会)も解散することになる。

今回、マクギネスは、政界引退を表明する前に、2007年以来ずっと就いてきた副ファースト・ミニスター(以下「DFM」)を辞した。それによってストーモントの自治議会は解散ということになり(解散の日付は1月26日、最後の召集は25日)、選挙が行なわれることになる(投票日は3月2日)。

マクギネスがDFMを辞したのは、ストーモントの政治がもうどうしようもないところに来ているからだった。

2016年の晩秋以降、北アイルランドの政治で浮上したスキャンダルがある。詳細は書いてるヒマがないのだが、地球温暖化対策として、冬季の暖房を化石燃料から再生可能エネルギーに切り替えていくために、設備を更新した事業者にはインセンティヴを出すというプログラムが問題を引き起こした。実体のない「切り替え」に対しても補助金が出るということで、元々暖房を入れていない物置に再生エネの暖房を入れて補助金ガッポリ……みたいなことが横行していた。仕組みが穴だらけだったとも言われているし、あまりにひどく悪用されたとも言われている。いずれにせよ、それによって一部の業者が甘い汁を吸いまくった。




このスキャンダルは「再生エネ暖房イニシアティヴ」の頭文字をとって「RHIスキャンダル」と呼ばれているが、燃料関連だけに燃えに燃えて、制御できないくらいになってしまった。「燃料関連だけに」というか、ストーモントでの対応がぐだぐだすぎて、延焼して燃料追加してまた延焼……という具合になっていた。DFMのマクギネスは、そのスキャンダル/不正についての調査をする間、ファースト・ミニスター(つまり全体の責任者)であるDUPのアーリーン・フォスターは一時的に退陣する(「ファースト・ミニスター代行」を立てる)のが筋だと考え、彼女にそのように提案した。だが彼女はそれをつっぱねた。元々、フォスターとマクギネスとのパートナーシップはあまりうまくいっていなかったようだ。その理由は、ずばり、「紛争」にあるのだろう。ほんとにいろいろやりまくって煽動しまくった当人であるイアン・ペイズリーが「平和の人、和解の人」となることで北アイルランドの政治はがらっと変わったのだが、それから10年が経過し、「IRAに媚を売るDUP」と見られることはDUPにとって死活問題と考える政治家たちが、今のDUPの中心だ。IRAなんてもう、実体なくなってるのにね。(DUPは、「われわれはテロとは関係なかった」と自認しているし、そう宣伝もしている。事実はどうかというと……ということは、今書いてるとこの原稿が書き終わらないのでやめておく。そもそも、過去に何度も書いてるし)

そして結局、フォスターは一時的に退陣することを拒み(2010年、妻が不倫相手への便宜を図ったという疑惑にさらされた当時のファースト・ミニスターのピーター・ロビンソンは一時退陣し、代行としてフォスターを立てたのだが、フォスター自身は自分が同じような調査対象となるだろうという場面で、「私への退陣要求は性差別だ」などと妄言をぶちかまし、退陣することを拒否した)、DFMのマクギネスが辞任した。これが1月9日のことだ。

その時点では、私は「たぶんすぐに後任のDFMが、代行というかたちであっても党の議員たちによって選任されて、国技『エクストリーム交渉』が始まるのだろう」と思っていた。シン・フェインにとって、ストーモント体制(ストーモントの自治議会&政府)を守ることは、何より優先されることのはずだからだ。

しかし、そうはならなかった。(※書きかけ。この稿は放置しないですぐに書き継ぎます。 →すぐに書き継ぐつもりだったんだけど、眠くなったりだるくなったりして、時間かかってしまった。以下、21日深夜の執筆) マクギネスの辞任から1週間後、後任の選任の期限となっても、シン・フェインは動かなかった。

こうしてストーモントの自治議会&政府は壊れた(解散ということになった)。

さて、それらのニュースを、私は文字だけで見ていた。というかネットをあまり見ていなかった。北アイルランドの外で打ち続く「ポスト・トゥルース」的な状況に完全にメンタルをやられ尽くしていて、ぺんぺんぐさも生えないような心理状態で、少し見るのが精一杯だった。それに、「どうせすぐに代行が立って、いつものようにエクストリーム交渉になだれ込むんでしょ」と思っていた。

そうならなかった。

北アイルランドの現在の政治体制では、自治議会で獲得した議席の数に応じて、各政党が自治政府の閣僚を出すことになっている。最も議席数の多い政党がファースト・ミニスターを、2番目の政党が副ファースト・ミニスターを出し、その正副ファースト・ミニスターの2人でひとつのトップを構成する。そのいずれかが何らかの理由で一時的に退く場合は、彼または彼女の所属政党から「代行」を出し、何らかの理由で辞任した場合には、彼または彼女の所属政党が後任を指名することになっている。よって、辞任したマクギネスの後任がシン・フェインによって指名されれば、ストーモント議会は今のまま続くことになるはずだった。

しかし、その後任指名の期限である16日は、何事もなく過ぎた。ストーモント議会は解散が決定した。手続きどおり、英国政府(中央政府)の北アイルランド庁のトップである国務大臣(SoS)が、議会の解散ならびに選挙の日程を告知した。



この写真、すごいよね。イアン・ペイズリー(ビッグ・イアン)は、死んだらその影響力をすべて失ってしまった。DUPという政党の創設者であり、その支持基盤を固めた宗教組織(新興の教会)フリー・プレスビテリアン・チャーチの創設者が、死んだら終わった。もし晩年に「変節」していなかったら、死後もなお語り続けられる伝説の存在となっただろう。しかし事実は、彼はマーティン・マクギネスと仲良くなり、紛争後の北アイルランド社会を運営する道を選んだのだ。これはDUPの人々にとってみれば、「ビッグ・イアンがIRAと手を結んだ」ことにほかならなかった。そのことが、イアン・ペイズリーの死後、どんどんはっきりしてきている。彼の双子の息子は、ひとりは教会の仕事をやっているが(カイル・ペイズリー。Twitterアカウントをフォローするとよい。すごくまっとうでオープンな考え方をしている。私は宗教は嫌いだが――宗教は個人を追い込むし、人を殺す――、この人は好きだ)、もうひとりがDUPの政治家で、その政治家のほうの息子(イアン・ペイズリー・ジュニア。現在はもう「ジュニア」は取れているが)は党内でまったく影響力を持っていない。DUPはもはや、ペイズリーの党ではない。














2007年3月といえば、ペイズリーとアダムズの初の会談(両者が初めて同席する場)だ。当ブログの過去記事にあるので、見たい方はサイドバーで「2007年3月」のところからどうぞ。あのときの「L字型に並べられた机の角をはさんだ微妙な距離」を私は忘れない。あのときに初めてイアン・ペイズリーの笑顔を見て、ペイズリーといえば怖い顔をして野太い声で何かを叫んでいるところしか見たことがなかったので驚いたことも、そのことについてNIヲチャ仲間(仲間だと私は一方的に思っている)も驚いていたことも忘れない。あれから、10年経過するのである。

そして北アイルランドの「ユーモア」も容赦ない。アレックス・ケインさんは紛争期にUUPのスタッフ(政策立案方面)だったベテランの活動家で、ここ10年以上、北アイルランドのメディアで政治コラムを書いている。








※ほんとは、この時点(17日)にブログを書こうとはしていた。でも、メンタル的に、それどころではなくなっていた。

この「RoIの大統領選挙を一言でひっくり返した」というのが、マーティン・マクギネスの「知らない人からの電話」の一件である。ゲラゲラ。

※書きかけ。いったん保存する。

この大統領選挙で当選したマイケル・D・ヒギンズ大統領(かわいい♡ )とマーティン・マクギネスの名前でTwitterを検索すると、下記のフィードが出てくる。昨年夏、エドワード・デイリー司教(元神父)の葬儀についてのものだ。デイリー神父が目撃した1972年1月30日のデリーの「ブラディ・サンデー(血の日曜日)」のとき、21歳のボグサイドのリパブリカンだったマーティン・マクギネスは既にデリーIRAの主要なメンバーだった。あの日、マクギネスが何をしていたかは、サヴィル・インクワイアリで(全部ではないが)明らかになった。そのことを、デイリー神父の葬儀で、マクギネスは思い出していただろうか。





マーティン・マクギネスという人は、表情は別として、こういう顔の人物だということを、北アイルランドのニュースを見ている人なら誰もが知っているだろう。

1月9日にDFMを辞任したときのニュースに添えられていた写真でも、こういう顔だった。例えばこういうの。






だが、実はそれは資料写真で(NIのニュースでは政治家のそのときの写真ではなく資料写真が用いられることはとても多い)、辞任時のマクギネスはげっそりと痩せていた。盟友のジェリー・アダムズが、辞表にサインするマクギネスの写真をツイートしている(撮影もおそらくアダムズだろう……アダムズにしては写真が上手すぎる気もするが)。スーツ姿ではなく薄手のセーターでの写真というのが、あとから思うと、はっきり示したくないところをごまかすためだったのだろうと思われる。(前日の日曜日に撮影されたもので、ビジネススーツの日ではなかった、というふうにも見えるが、シン・フェインはこういうところのイメージ・コントロールはわりと徹底している。)




この写真では「光の加減かな」、「レンズのせいだろう」と思えるかもしれないが、マクギネスの衰えはそのときには隠しようもなくなっていた。私のように「記事に添えられた資料写真」ではなく、「今日の議会で撮影された映像」を見ている北アイルランドの人々は、激痩せしたマクギネスの姿を見て健康状態を案じていた。








そして、辞任から3日後の12日にアイリッシュ・タイムズ(ダブリンの新聞)が行なったのが下記の報道である。



「マーティン・マクギネスはAmyloidosisという病気で治療を受けている」というこの報道に、マクギネスは「私のプライバシーが尊重されず残念である」と反応した。つまり報道内容を否定しなかった。

マクギネスが診断された病気、アミロイドーシスは、難しい病気である(日本では難病指定)。ストレスの多い政治家をやりながら治療できる病気ではないと判断したのだろう。

おそらく、誰もがそう思っていただろう。

1月12日(木)のアイリッシュ・タイムズの報道に続いて、1月16日(月)にシン・フェインが後継のDFMを指名せず、自治議会の解散と3月2日の選挙が決まったときには、誰もが「マクギネスは選挙には出馬しないだろう」と思っていたことだろう。私も、そう思っていた。

そして、その通りだった、ということがはっきりしたのが、20日(金)のことだ。
https://chirpstory.com/li/344346







こうして、次の選挙に出ないこと、つまり政界引退を宣言したマクギネスは、生まれ育って現在も自宅のあるデリーのボグサイドの路上で、人々に向かって話をした。マクギネスがボグサイドで何度となくやってきたことだろう。とっぷりと日が暮れた後だったが、数百人が集まった。









プレスビテリアン教会のニセモノ(サタイア)のアカウントの中の人が、サタイアであることを忘れ、率直な心境をツイートしているのが、大変多くRTされている。




さて、マクギネスの政界引退に際して人々から出てきたのは、このような言葉ばかりではない。

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1件目のジム・アリスターについては説明はいらないだろう。元々はDUP内の過激派で、シン・フェインとの歩み寄りに反発してDUPを飛び出してTUVというひとり政党を立ち上げた政治家だ。TUVは今も事実上「ひとり政党」の状態(議員が増えてない)だが、旗騒動界隈の活動家あたりからは支持されてるようだ。2件目の人のプロフィールはこんな感じ。

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ほかにも、まあ予想通りなんだけど(この人が「マーティン、これまでお疲れ」的なことを言い出したら、熱でもあるんじゃないかと思うよね)、グレゴリー・キャンベルはこの調子で:

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それに対してTwitterにはこんな反応がある。(ノーランのこのツイートにはものすごくたくさんのリプがついている。以下はその一部。)

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この「北ベルファストのトマス」という人は、確実に、マクギネスがどのような発言をし、どのような行動をとってきたかを見ていない。関心を払っていなかったのだろう。というより、見ることを拒絶してきたのだろう。

マクギネスの「和解」への活動は、本物だった。下記のツイートでジョーさん(シン・フェインの若い活動家)が貼り付けている4枚組の写真の右下の写真が誰との写真なのかを知る人は、マクギネスの活動がいかに本物であるかも知っているだろう。




この4枚組の写真の右下の1枚で、マクギネスとジョーさんと一緒に写っているのは、コリン・パリーさん。1993年のウォリントン爆弾事件(IRAが商店街のゴミ箱に爆弾を仕掛けた事件)で息子を殺された父親だ。パリーさんはその後、事件で命を奪われた子供2人の名前を冠したピース・センターを立ち上げ、紛争解決・紛争転換・和平・和解といった分野についての活動を行なっている。英国政府からの顕彰もうけている(確かOBE)。マーティン・マクギネスは、パリーさんとの対話を続け、パリーさんのピース・センターで行なわれたディスカッションに出席し、自分たちの組織が殺し傷つけたコミュニティの人々と直接対面した。そのときのことは私もブログかNAVERまとめで書いているが、ここではまずインタビュー記事。



拙ブログ(2013年3月17日)より:
http://nofrills.seesaa.net/article/347529460.html
1993年3月20日、イングランド、リヴァプールの東、マンチェスターまで行く中間地点くらいにあるウォリントンという町で、IRAのボムが炸裂して、何十人もが負傷させられ、3歳のジェイムズと12歳のティムが理不尽にも生命を奪われた。IRAの「メインランド爆弾作戦」の中でもひときわ「意味」のわからないウォリントン爆弾事件。

なぜIRAの標的になるのかもよくわからないような地味な地方都市で、息子のティムをそんな形で奪われたパリー夫妻はその後、「紛争と和解」を研究しそのために取り組むNGOを立ち上げた。バルカンなど「北アイルランド」とは別の文脈のコンフリクトについても「ともに考えましょう」と関連しているこの方々の活動は、徹底した「対話」にベースがある。そしてその「対話」ということの意味と価値をおそらく一番わかっていて、一番推進しているのが、マーティン・マクギネスだ。パリー夫妻がマクギネスといかによい関係を築いたかを語った記事がミラーにある。「復讐」ではなく「無念を晴らす」ことではなく、「対話」を。
http://www.mirror.co.uk/news/uk-news/warrington-bomb-attack-20-years-1766742

ウォリントン爆弾事件の20年追悼式典は、16日(土)に行われた。いかにも歴史ある街の中心のサークルへとつながる歩行者専用道路の爆弾が仕掛けられていた現場(今はモニュメントが作られている)に椅子が並べられ、最後はこれまでの歳月を表す20個の風船が空に放たれた。

ジェイムズ・ボールは、生きていれば23歳。ティム・パリーは32歳。

「和解と赦し」――20年前、商店街のゴミ箱に設置されたIRAのボムは、子供たちを殺した。
http://matome.naver.jp/odai/2136343869722454301


だが一部の人々はこのようなことよりも、うんざりするほど繰り返されてきたwhatabouteryを好む。

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「マーティン・マクギネスは昔こうだったじゃないか」に対しては「ピーター・ロビンソンは昔こうだったじゃないか」。実に、不毛である。ぶっちゃけ、おもしろいけど。(これを「おもしろい」といえるのも、これがもう完全に過去のことだからだ。)

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北アイルランドのこれはね、もう一種の定石、あるいは儀式。絶対に変わらない何か。

「シャンキルのジョージ」氏のような、少しでも建設的な意見というのはレアものだ。(ここでは彼は、別の言い方をすれば「ああいう言い草はないだろう」、「本当に真剣に考えていたらああいう態度は取れないんじゃないか」ということを言っている。そしてそれは、一理あるのだ。シン・フェインのナラティヴは「アイルランドの正当な軍事力」という神話の上に成り立っており、マクギネスの発言もそこにあるので。)

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(「シャンキルのジョージ」氏のこの発言を見ていると、デイヴィッド・アーヴァインとジェリー・アダムズのことを思い出す。「ジョージ」氏のこの疑問に真正面から応じることで、対話は成立するし、理解は可能なのだ。)

こういうムードのところに、BBC Northern IrelandのThe Viewという政治・時事番組のゲストとしてスタジオに招かれていたイアン・ペイズリー・ジュニアが、このような発言をおこなった。




普段はイアン・ペイズリー・ジュニアのことを決してほめないような人も含め(実際、MPとしての彼の発言などは、ちょっといかがなものか的なものがよくある)、彼のこの態度には賞賛の言葉が相次いだ。
https://chirpstory.com/li/344346?page=8
https://chirpstory.com/li/344346?page=9















この発言から、「イアン・ペイズリー・ジュニアがDUP指導部(アーリーン・フォスター、ナイジェル・ドッズなど)に対してたてついたのではないか」などの観測が出るのには数分か十数分しかかからなかった。ペイズリー本人はそういうつもりでは全くないと言っているようだし、実際、DUP内部ではこのような「リベラルな」方針を掲げる政治家は、仮に中央にいてもすぐに隅に追いやられるだろうが(ユニオニストの政党は常にそうだ。UUPであれDUPであれ、デイヴィッド・トリンブルであれピーター・ロビンソンであれ……トリンブルもロビンソンも、紛争期にはガチ強硬派だったんだけど、政治家として現実主義路線をとるようになったら支持を失った。このことはSlugger O’Tooleなどに分析が出てたと思う)。

そういったことについて、アライアンスのナオミ・ロングがこのようなことを発言している。




毒を吐くことによって政治的な権力を獲得してきた人たちは、そのやり方を継続することしかしないし、おそらくはそれ以外のやり方はできない(根本的にはイアン・ペイズリーの煽動だけどね)。これまでは英国政府に一定の抑止力が期待できたのだが(なんだかんだいって、キャメロンは「リベラル」だった)、今は違う。

マーティン・マクギネスという驚くべき調整力と忍耐力、そしていわゆる「人間」力の持ち主が健康上の理由から第一線から退いたのが、英国本国でボリス・ジョンソンだのマイケル・ゴーヴだのナイジェル・ファラージだのといった権力亡者のトンデモなポピュリストが実権を握ったというタイミングであることは、不安をしか感じさせない。

ちなみに、北アイルランドでBrexitを支持したのは、メジャーな政党ではアーリーン・フォスターのDUPだけである。ほかは、UUPもSFもSDLPもアライアンスも、EU残留を欲していた。投票結果も、北アイルランドは残留が離脱を上回っていた。

3月2日の選挙結果を、DUPは、その事実を修正するために利用するだろう。つまり、ストーモントでDUPが第一党になることを「Brexitへの支持」と言い換えるだろう。

マーティン・マクギネスのいない選挙で、サプライズは起きるだろうか。






ボグサイドでのスピーチのときに撮影された写真。マクギネス家の3世代。




「氷バケツ・チャレンジ」のときにマクギネス家の庭で「おじいちゃんに氷水を浴びせる孫たち」の映像が公開されたのだが、そこにはここまで小さい子はいなかったかもしれない。

"Our revenge will be the laughter of our children" – Bobby Sands
http://www.bobbysandstrust.com/archives/1689



まさかのラバー・バンディッツ! しかもAn PhoblachtがRTしてた!



ベルファストでやってたのか(笑)





※この記事は

2017年01月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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北部(北アイルランド)のシン・フェイン、マーティン・マクギネスに代わる新たなリーダーは40歳の女性だ。
Excerpt: 北アイルランド紛争(1969〜1998)を生きてきた元「IRA司令官」、マーティン・マクギネスの後任は、1977年生まれの若い政治家……シン・フェインはピンチをチャンスに変える技能のワールドカップがあ..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2017-01-26 23:59





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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