kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2017年03月10日

アモス・ギタイ監督(イスラエル)の映画、『フリーゾーン Free Zone』

画面の左半分弱を占めた若い女の横顔。音楽(歌)が流れ、女が顔をしかめ、涙を流す。アイメイクが黒く尾を引いて頬の上を流れ落ちる。オープニング・クレジットからの7分間、この映画はずっとその映像だ。流れている歌の歌詞は日本語の字幕で画面下部に表示される。泣いている若い女の横顔は、見ている者の目を引きつけて離さない。

freezone-song.png  私の父が買った 安い値段で
  子羊! 子羊!
  私の父が買った 安い値段で
  そうハガダに 書いてある
  猫が待ち伏せしていた
  子羊に跳びかかり 食い殺す
  子羊を食い殺した猫を
  犬が絞め殺す
  父が買った子羊
  安い値段で
  子羊! 子羊!……

字幕によると、この歌はさらに次のように続く(2番)。

  棍棒が
  犬を罰する
  猫を食いちぎった犬
  父が買った子羊を 食い殺した猫
  父は安い値段で 子羊を買った
  子羊! 子羊!

続いて、今度は「火が棍棒を燃やす」で始まり、また同じ「子羊を殺した猫を殺した犬を罰した棍棒」が(逆順で)繰り返される。

次は「水が火を消す」。そして「子羊を殺した猫を殺した犬を罰した棍棒を燃やした火」(の逆順)。

それから「近くを通った牛が 火を消した水を飲む」。そして「子羊を殺した猫を殺した犬を罰した棍棒を燃やした火を消した水」(の逆順)。

これで終わりではない。次は「水を飲んだ牛を殺しに 肉屋がやって来る」。そしてまた、繰り返される。「その牛は水を飲んだ、その水は火を消した、その火は棒を燃やした、その棒は犬を罰した、その犬は猫を絞め殺した、その猫は子羊をかみ殺した、その子羊は私の父が買った」。

そしてついには「堕天使が現れて 肉屋を殺す」。

  堕天使が現れて 肉屋を殺す
  肉屋は水を飲んだ牛を殺し 
  水は火を消した 
  火は棒を燃やし
  棒は犬を罰した
  犬は猫を絞め殺し
  猫は父が買った子羊を
  食い殺した
  子羊! 子羊!

先月Twitterに流していたのだが、3月9日(昨日)まで、アモス・ギタイ監督の映画『フリーゾーン』がGYAOで無料で配信されていた。このように「○月○日まで、いつでも再生可能」という形だと、ついつい「今見なくてもいいや」と思って後回しにしている間に最終日になってしまうのが常で、9日の夜になってようやく見た。

見ている間、完全に引き込まれたし、おもしろかったので、最終日の夜で「今から言われても見れない」という人が多いかもと思ったけど、Twitterに「おもしろい映画だった」ということを書いて投稿した。見終わって立ち上がってお茶でも入れたころには、見ている間にちぐはぐさを感じた部分の印象が強まってきて、「きっと、長い映画をカットして90分に収めたのだろう」と思えてくるのだが(実際、イスラエルで保守派から文句を言われた「嘆きの壁」近くでのシーンが最終的にはカットされたそうだが、それは主人公の若い女の「物語」がばっさりとカットされていることを意味する)、そういったちぐはぐな部分(例えば、【ネタバレ回避のため文字を背景色と同じにしてあります→】「アメリカ人」は丘を歩きながらレベッカに語ってないで、商売で借りた金を返すよう尽力しろよ【←ここまで】とか)をしのぐ「会話劇」の凄みと強さがある。そして、その「会話」は、ツイートした通り、英語、ヘブライ語、アラビア語で為され、3言語がシームレスにくるくると入れ替わる。

特におもしろかった(興味深かった)のが、物語が動き始めてほどないところで出てきたガソリンスタンドの場面だ。

ハンナ(ハンナ・ラスロ)の運転する観光タクシー(1日貸切でいろんなところを回ってくれるタイプ)に乗った主人公(というか、物語の上では最後のシーンまでは「狂言回し」だろうか)のアメリカ人女性レベッカ(ナタリー・ポートマン)は、ハンナが「今日は国境を越えたヨルダンで家族の用があるからお客さんは乗せない」と言う日に、無理をおして同行している。レベッカには泣くだけの理由があり、どこかに行きたくてならない(が自分では移動の手段を持たないのだろう)。だが、イスラエルからヨルダンに入るときの国境検問も、パスポートを見てハンコ押してようこそようこそというわけにはいかない。

ここらへんで、地理に不案内な私はGoogleマップを参照していたのだが(映画館ではそういうことはできない。自宅でPCなどで見るのは、こういうときに有利だ)、この国境はエルサレムから東にエリコ(Jerico)を経由して進んだところにあるアレンビー橋の国境だろう。というか、ほかに国境をまっすぐ越える車のルートは、両国間にはない。

ともあれ、敵対的な入国審査をクリアしてヨルダンに入ったハンナの車は、目的地の「フリーゾーン Free Zone」を目指して幹線道路をひた走る……はずなのだが、途中でどこにいるかわからなくなってしまう。そのとき道路沿いにガソリンスタンドを見つけ、ハンナは固い表情を崩さずに車を入れる(ハンナは「アラブの地に入ってきたイスラエル人」だ)。道中、「教科書に出てきたものが目の前にある」的な興奮に包まれ、イスラエルに置いてきた傷心の反動ゆえか妙にハイになったレベッカは、古代ローマのころにそこで何があったかなどをしゃべりまくっていたのだが(彼女はニューヨークで大学に通っていたという説明が別の場面でなされる)、このガソリンスタンドでもはしゃいでいて、ハンナが止めるのもきかず、店の親父が(いかにも観光客相手に鍛えたような)英語で世間話をしながら「よかったら奥でお茶でもどうですか」と言うのに「お腹すいてるんですよ。チーズとかあります?」とついていってしまう。

「世間話」と書いたが、「ほう、テルアビブですか」などと言いつつレベッカと一緒に歩きながら友好的な親父がにこにこしながら語る「わたしの話」は、ナクバの話だ(「1948年まで私はヤッファに住んでいたが、追い出された」。ヤッファはテルアビブの元々の名前だ。ここで映画を見ている私の頭の中に、冒頭で流れていた歌の一節がよみがえる――「私の父が、安値で買った」)。

ここで映画はカットバック(と言ってよいのだろうか)して、ハンナがどうして「家族の用」のために車を走らせているのかが語られる。本来、タクシーの運転は夫のモシェの仕事なのだが、ハンナが牛舎で牛の乳を絞り、モシェがガレージで作業しているときに、パレスチナ武装勢力の迫撃砲か何かでガレージで爆発が起こり、モシェは怪我をして身動きが取れなくなってしまった(このシーンの、抑え目だが緊迫感あふれる描写は、映画全編を見終わったあとにまた見たくなった。爆発そのものを画面に出さず、ショッキングな映像を使うこともなく、衝撃をあまさず伝えていた。カメラがとてもよい)。モシェはヨルダンの「フリー・ゾーン」で商売をしているのだが、そこでヨルダン側のビジネス・パートナー、通称「アメリカ人」に大金を貸している。それを返してもらうためにハンナがフリー・ゾーンに向かっているわけだ。

車は、シリア国境やサウジアラビア国境の方角を示す標識が出てき始めた幹線道路を進む。道中で、ハンナがレベッカに自分がどこで生まれ、なぜイスラエルに来て、紆余曲折を経て今の仕事をするようになったのかを語り、レベッカもまたなぜニューヨークを出てイスラエルに来たのかを話しているが……この映画についての映画情報サイトに「ユダヤ系アメリカ人のレベッカ」とあっさり書かれているが、そう書いた人は映画を見たのだろうか。彼女の「居場所のなさ」は「ユダヤ系」とあっさり書くことを拒否しているのだが……、どちらにも重さ・重みがある。もちろん、年齢と経験、生きてきた時代と場所の分、ハンナの話の重みは、レベッカのそれを凌いでいる……商売が軌道に乗るたびに「インティファーダでパレスチナ人労働者が来なくなる」とか「失業対策・外国人労働者の締め出しという国の政策で、雇っていたタイ人労働者が国外退去になる」とかいったことが起こり、最終的には、イスラエルのモシェのガレージで装甲をほどこした車をヨルダンのフリー・ゾーンに輸送し、隣接するアラブ諸国に売るという商売をするようになった。中東戦争とかサダム・フセイン政権のこととかを前提とすれば、それがイスラエル人であるモシェにとってどれほどギリギリのことか、わかるだろう。この映画はそういうことを声高に叫ぶ映画ではないが、その抑えたトーンは、語られることにより一層のリアルさを伴わせる。

そして「エルサレムから8時間も車を走らせて」(ハンナの台詞)、営業時間終了間際にハンナはようやくフリー・ゾーンにたどり着いた。しかしここに、ハンナが用のある「アメリカ人」はいなかった。

代わりに応対したのがレイラ(ヒアム・アッバス)だ。ハンナとレベッカを事務所に招き入れるレイラは固く冷淡な態度だが、その理由を観客は「イスラエル人とパレスチナ人だから」と読み解くだろう。実際そうなのかもしれないが、その集団としての対立が、ここでは「金を返さないビジネスパートナーと、金を貸した事業主」の代理人というより直接的な関係の中にぼやけてもいる。その「複雑さ」を前に、何となく不安定な気持ちで、狭い部屋の中の3人の女たちのやり取り(ここでアメリカ人のレベッカは「緩衝材」になっている……オスロ合意についてのビル・クリントンの回想録に似てると思った)を観客は見るのだが、そこではまた個人と個人の対立関係に「集団としての対立」が食い込んでいることも強調されている(お茶を出そうとするレイラ、「ぜひいただきます」と言うレベッカ、「だめ、コーシャじゃないから」とレベッカに耳打ちするハンナ)。そしてその「集団」性を、個人と個人の関係においては、人はカバーするのだということも(「甘くしてあるお茶」をレイラに勧められたハンナは「体に悪いから」と断ろうとする。「コーシャじゃないから」ではないのだ)。「お砂糖が体に悪いのなら、こんなに広まってない」とレイラがつぶやいたのは、彼女が言葉の裏をちゃんと読んでいたことを示すのだろう。

ともあれ、こうして3人の女たちは「アメリカ人」の暮らす集落へ向かう。暗い夜道、レイラの車にレベッカを乗らせ、ハンナはレイラのあとをついて車を走らせる。そこで3人、特にハンナとレイラの間に、「友情」とまでは呼べないような信頼関係ができていく。袖すりあうも他生の縁、という感じの関係が。

レイラはパレスチナ人だが、ヘブライ語も英語も使う(この映画の主要な登場人物はみなマルチ・リンガルだ)。その彼女が道中、助手席のレベッカに英語で言う(これは「名台詞」としてIMDBに入っていた)。「とても重要なことでしょう、敵の言葉を理解することは。でも、パレスチナ人はヘブライ語を使うけど、イスラエル人はアラビア語を使わない。残念なことです。もし彼らがアラビア語を話してくれれば(……ここで少し間があって……)ひょっとしたら状況は変わるかもしれない」

「敵の言葉」が、「相互理解」と「状況の変化」につながる。この変転、この捻転。常套句と化している「暴力の連鎖 the cycle of violence」ではなく、人間の精神の営為を連鎖させることができれば。

物語はこのあと、「アメリカ人」の息子(レイラを何らかの理由でさげすんでいるのだが、そのくだりが映画に含まれていないので、かえってストーリーがぼやーっとしてしまっているように思われた)が自分の暮らす集落を燃やし、どこかに逃げ去ってしまう。巻き込まれたくないと立ち去ろうとするハンナだが、家を燃やされ全てを失ったレイラをレベッカはほうっておくことができない。そしてユダヤ人(イスラエル人)とアラブ人(パレスチナ人)と「居場所のない」アメリカ人が、ひとつの車に乗って、そのユダヤ人個人が元来たところに戻る。

そしてそこに戻った瞬間に、ユダヤ人とアラブ人はいつ果てるとも知れぬ口論に明け暮れることになる。さっきまで、ラジオから流れる音楽に合わせてリズムを取り、一緒に盛り上がっていたのに――イスラエル軍のラジオ(と思われるもの)が流す「テロ」のニュースにもかかわらず。

そしてアメリカ人は、その場を立ち去る。そこのルールを無視して。

……と来て、これは「寓話」だという確信が(ますます)強くなる。映画を見終わったあとでウェブ検索してみたら、映画公開当時(2006年4月)のNYTのレビューが「寓話」という表現を使っていた

大部分が車の中で、あるいは車の中から撮影されたこのドラマは、「大きな物語」をそれ自体では持っていない。しかし「大きな物語」は、登場人物の背景として、常に見えている。そしてその「大きな物語」は、「どうしてこうなった」としか言いようのない悲劇である。そのことを集約していると思われたのが、本稿の最初で述べた冒頭のシーンとラストシーンに流れたあの歌だ。「父が安い値段で買った子羊を、猫が食い殺した。その猫を、犬が絞め殺した。棍棒が、その犬を罰した。火が、その棍棒を燃やした。水が、その火を消した。牛が、その水を飲んだ。肉屋が、その牛を屠った。……」

透明感のある女性の声で歌われる、この何とも不思議な歌。雰囲気的に「古くから歌い継がれてきたわらべ歌」のようなものだろうと思ったのだが、映画本編が悲劇的な結末を迎えた(のだと私は思う)ときにも繰り返し流されており、何かの意味があるのだろう(それがわからなければ、映画を見たことにならないのだろう)と気になって仕方がないので調べてみようと思った。

調べるのは大変かもしれないと予測してかかったのだが、あっさり見つかった。英語版のウィキペディアだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Free_Zone_%28film%29

The film is bookended by a rendition of the traditional Passover song "Had Gadya", performed by Chava Alberstein.


流れていたあの歌は、パスオーヴァー(過ぎ越しの祭)の伝統的な歌なのだそうだ。映画を見ているときは繰り返しの強烈さで忘れていたが、そういえば最初に「ハガダに書いてあった」と歌っていた(という字幕が出ていた)。ハガダは「過ぎ越しの祭り」に関連したものだ。

「過ぎ越しの祭」というのは聖書(旧約聖書)に由来する宗教行事で、ユダヤ教徒にとって1年の中でも最も重要な祭のひとつである。
聖書の出エジプト記 12章に記述されている、古代エジプトでアビブ(ニサン)の月に起こったとされる出来事と、それに起源を持つとするユダヤ教の行事のことである。……

イスラエル人は、エジプトに避難したヨセフの時代以降の長い期間の間に、奴隷として虐げられるようになっていた。神は、当時80歳になっていたモーセを民の指導者に任命して約束の地へと向かわせようとするが、ファラオがこれを妨害しようとする。そこで神は、エジプトに対して十の災いを臨ませる。その十番目の災いは、人間から家畜に至るまで、エジプトの「すべての初子を撃つ」というものであった。神は、戸口に印のない家にその災いを臨ませることをモーセに伝える。つまり、この名称は、戸口に印のあった家にはその災厄が臨まなかった(過ぎ越された)ことに由来する。


そして、映画の冒頭で流れる歌、 "Had Gadya" についても、英語版ウィキペディアに項目が立っていて、ユダヤ教の文化に詳しくない私のような者でも詳しいことがわかる。歌詞も、アラム語、ヘブライ語、英語で紹介されている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Chad_Gadya

これによると「子羊」ではなく「子山羊」で、上に引用した部分の最後の連に出てきた「堕天使」は「死の天使」となっている。また、「死の天使」のあとに「聖なるお方」(神)が出てきて、「死の天使」を殺している。摩訶不思議な動物図絵は、最後に宗教性のなかに終わっているのだ。

だが映画の中で歌われているバージョンの歌詞は違う。「山羊」ではなく「羊」だし、「堕天使」のあとはこうだ。

freezone-song2.png  なぜ歌うのか 子羊よ
  春はまだ イースターも
  何が変わったのか?


ここでレベッカは車の窓を開ける。

freezone-song3.png  私は今年変わった
  毎晩いつものように
  4つの質問しかしていない
  今晩は別の質問がある
  いつまで この地獄が続くのか
  今晩は質問がある
  いつまで この地獄が続くのか
  抑圧者から被抑圧者へ 死刑執行人 犠牲者
  この狂気はいつまで


freezone-song5.png  何か変わったのか
  私は今年変わった
  私は優しい子羊だった
  トラに 野生の狼に変わった
  私は鳩 レイヨウだった
  今では何になったのか わからない

  私の父が買った 安い値段で
  子羊! 子羊!
  私たちの父が買った 安い値段で
  また振り出しに戻る

映画の冒頭、歌がここまで来ると、レベッカのしゃくりあげる声の背景に車の外の音が入ってくる。男性たちが声を揃えて歌っているのが聞こえるが、それがどういう歌なのか、文化に不案内な私にはわからないが、ユダヤ教の歌だろう(実際、映画を見終わってから検索して読んだ記事によると、そのシーンは「嘆きの壁」のすぐ近くで撮影されている。ということは、レベッカが泣いているとき、窓の外を通っていく黒い傘は、単に「エルサレム市民」というより「礼拝に来たユダヤ教徒」なのだろう)。そのユダヤ教の歌に重なるように、左チャンネルからイスラム教の「アッラー・アクバ〜〜〜〜ル」(礼拝時刻を告げる声か)が入り、キリスト教の教会の鐘がカーン、カーンと響く。

レベッカはここで車の窓をまた閉める。「行きましょう、ここから離れたいの。お願い」。女性の声が応える。「どこへ」。「わからない。お願いだから早く」。そして物語が始まる。

このころには、さっきの歌はカーラジオから流れていたものなのだろうと観客にはわかってきている。彼女が泣いている理由がわかるのはもっとあとだが、それは冒頭のこの歌からみれば、拍子抜けするようなわかりやすい理由だ。ただ映画の物語自体は、冒頭の歌へと収斂していく。そしてレベッカは、最後には泣いていない。

freezone-song4.png


freezone-song6.png


映画に使われているこの歌、"Chad Gadya" は、イスラエルの女性歌手、Chava Albersteinによるもので、ウィキペディアによると、リリース当時、大変な騒ぎを引き起こしたそうだ。

A controversial interpretation of Chad Gadya was composed by Israeli singer Chava Alberstein. There were calls for the song to be banned on Israeli radio in 1989, although it became very well-known and is now frequently played during Passover.

https://en.wikipedia.org/wiki/Chad_Gadya


歌っているChava Albersteinは1947年12月(第二次世界大戦後)、ポーランドに生まれ、1950年に家族に連れられてイスラエルに移住した。この映画で監督から楽曲を使いたいと言われたときは即座にOKし、このために特別にレコーディングまでしたそうだが、最終的には監督はオリジナル版を使用した(ソースは後述の監督インタビュー)。
https://en.wikipedia.org/wiki/Chava_Alberstein
Alberstein is a champion of liberal causes. Throughout her career she has been an activist for human rights and Arab-Israeli unity. In 1989, Alberstein's song Had Gadya (a spin-off on a traditional song Chad Gadya, which is sung at the Passover seder) in which she criticizes Israel's policy towards Palestinians, was banned by Israel State Radio. The song was later used in the film Free Zone by director Amos Gitai in Natalie Portman's 7-minute crying scene.


それと、映画に出てきた「フリー・ゾーン」、実在するのだが、どこにあるのかがわからない。映画では国境を越えたハンナの車はそのまままっすぐ東に行ってアンマンを通過していた(イラクに向かう乗り合いバスに大勢の人が並んでいるバスターミナルの脇を通っている……というか、そのようにハンナがレベッカに説明していたが、それは2003年のイラク戦争後にニュースやドキュメンタリーなどでも伝えられた光景だ)。

映画の余韻にひたりながら、単なる好奇心から、どこにあるのかな……とアンマンの周辺からシリア国境に向かう方面に絞って、縮小・拡大しながらGoogleマップを見ていたら、Free Zoneという文字列が目に飛び込んだ。見てみると、アンマンの東側にあるザルカの郊外だ。



「15号」と「30号」の2本の幹線道路の交わる地点の近くにあるのがザルカのフリー・ゾーン。このまま「15号」の道路を北上すればシリアのダルーアの東側に出る。「30号」の道路を東進すると、やがて丁字路になり、右に進めばサウジアラビアへ、左に進むと(さらに丁字路を経て)イラクにつながっている。映画の中に出てきた道路標識はそれを示す表示だろう。

ちなみにこの「ザルカ」という地名は、アモス・ギタイのこの映画が製作された2005年には世界的に知られる名前となっていた――フリー・ゾーンのある町としてではなく、イスラエル/パレスチナとは別の文脈に位置づけられる「テロリスト」の出身地として。

(なお、Googleマップを離れ、普通にウェブ検索すると、ヨルダン政府による「フリー・ゾーン」の一覧が出てきたが、それを元に調べてみても、一番規模がありそうなところ、つまり映画に出てきたような場所は、ザルカのフリー・ゾーンだ。)



映画のトレイラー(イスラエル版かな)。レイラの例の台詞の場面も入っている:


IMDB:
http://www.imdb.com/title/tt0441761/

監督、アモス・ギタイのインタビュー:
http://sensesofcinema.com/2007/cinema-engage/amos-gitai-interview/

分量があるのでまだ全文は読めてないけど、失業したイスラエル人が、自動車に装甲をほどこし、ヨルダンの「フリー・ゾーン」に持っていってイラクなど近隣国向けに売るということは、実際に、ギタイの運転手を務めていた人がやっていたことで、ギタイは彼の商売に同行してどういうことをどういうところでやっているのかを確認し、この映画を構想したという。登場人物を「3人の女たち」にした理由も興味深い。

映画の中でハンナがレベッカに語って聞かせる「私の人生」に出てきた「親がバウハウスで学んでいて……」というくだりは、アモス・ギタイの人生と一致する(ギタイの父親はバウハウスで学んだ建築家である)。

このインタビューから、冒頭のシーンについての部分:
DS: The viewer doesn’t know why Rebecca’s character is weeping, but, even so, there’s that Passover song, “Had Gadia”. Since most people may not know the history behind that song, could you tell me about it?

AG: It’s “Had Gadia”, which is a traditional song sung on the evening of the seder on Passover, the Pesach, and it’s a kind of parable in which one eats or consumes the other. And the singer, Chava Alberstein, added lyrics, situated in her questioning of today’s [conflict]. The song was written 17 years ago and it’s really beautiful – and when I thought about this opening shot, I immediately called her and asked if I could use it. And she said yes. We were even thinking about re-recording it, but finally this original – which is so beautiful – and her voice, and even the orchestration she did, is great. So I decided to put it over a shot that I did for the opening with Natalie Portman, where she’s sitting in a car in front of the Wailing Wall, which we see vaguely in the background. It was a grey day, a bit melancholic, and I think that this helped a lot. She could actually put this emotional charge into it and do what I think is really spectacular [as an actor]: Move from one emotion to another and keeping it so raw. We did just two takes, because after the second one she said, “I can’t do it anymore.” I used, finally, the first one, which was so powerful. I thought it was nice to start with an enigmatic story. We see somebody, a young woman in a car, crying, and we don’t understand yet why, and the song of Chava Alberstein suggests very large kinds of cosmic questions. Finally, it will be translated to a very personal, intimate story.


映画を見終わったときの私のツイート:






「女性映画」扱いの日本版の邦題についてる明日がなんちゃらというのは、レベッカが回想シーンの中でFワードを使って言ってる「未来なんかどうでもいい」を踏まえたものだろう。しかし、あの「フリー・ゾーン」は「免税特区(デューティ・フリー)」的な意味で、「自由」とはほぼ関係ない。それにラストシーンでレベッカが「明日」に向かっていったとは、私には解釈できないのだが。

個人的に、「主演・ナタリー・ポートマン」で、「明日が見える場所」っていうだけでは、私はこの映画は見なかったと思う。逆に、このピントのずれた邦題に誘われてこの映画を見た人は、きょとんとしてしまっているか「テロってこわい」と思っているか(この映画はそういう映画ではない)、あるいはめちゃくちゃクサしているかではないかという危惧を覚える。

※この記事は

2017年03月10日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 09:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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