kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年10月10日

#CableStreet80: 1936年の「奴らを通すな (They Shall Not Pass)」と、街と人々の「歴史」

cablestreet80.png10月9日は、「アイルランドの息子」でもある革命家、チェ・ゲバラが処刑された日(1967年なので、来年は「没後50年」)だが、ロンドンでは#cablestreet80が上位に来ている。1936年10月4日に、「イーストエンドの移民たち」(すなわちジューイッシュとアイリッシュ)と左翼の人々を中心として行なわれた反ファシスト運動の大規模な、今で言う「カウンター・デモ」から80年となることを記念する行事が行なわれている。このような行事は週末に行なわれるのが常だが(そして、この件では主要な参加者の多くがユダヤ人なので、安息日の土曜日は避けて日曜日となったのだろう)、カレンダーを見ると10月4日に一番近い日曜日は2日。何らかの都合・事情で、2日ではなく9日になったのだろうが、どういう事情なのかはわからない。

ともあれ、80年前のその「カウンター・デモ」は、Battle of Cable Street (ケーブル・ストリートの闘い)と呼ばれるものである。当時のニュース映像がYouTubeにアップされている。ここに集まっている大勢の人々は、この地域に暮らすジューイッシュやアイリッシュ、また左翼活動家に加え(イーストエンドは貧民街であったがゆえに救貧活動も活発な土地柄で、またテムズ川のドックで働く肉体労働者の組合活動も活発という文脈がある)、「奴らを通すな (!No pasarán!: They Shall Not Pass)」のスローガンのもと、各地から参集した人々だ。



ケーブル・ストリートは、ロンドン塔のから少し東に行ったところ(ホワイトチャペルの南の端)からまっすぐ東へと伸びる長い通りだ。現在はDLRの高架がかかっており、通りの全長はDLRでほぼ2駅分となっている。Google Street Viewで見ると、この一帯は「真新しい」と呼んでよいような建物がかなり多くあり、21世紀になってからずいぶん再開発が進んだことが一目でわかる(むろん、ドックランズの再開発にともなうものだ)。そのような中にも、ヴィクトリアンの一般的なレンガの建物が残っていたりもする。このトピックとは関係ないが、ケーブル・ストリートの西の端の区画には、「切り裂きジャック博物館」もある。

1936年10月4日、そういうエリアに、「ファシスト」たちが示威・挑発を目的として乗り込もうとしていた(「ファシズム」は大陸仕込みで「非英国的」というイメージがあるかもしれないが、それは誤ったイメージである。またナチスの人種主義・反ユダヤ主義はドイツに移住した英国人思想家の影響を強く受けている)。それに反対する人々が「奴らを通すな」と集結し、ホワイトチャペルのハイ・ストリートにバリケードと「人間の壁」を築き、道をふさいだ。ロンドン警察は、ファシストのデモ隊をケーブル・ストリートへと通そうとし、カウンター・デモの人々もそちらへ移動。そこで警察がカウンター・デモを散らそうとしたことで大勢の負傷者が出たが、ファシストのデモ隊はUターンした(以上、参考記事に基づく)。その一連の経緯の記録映像を短くまとめて解説をつけたものが、上にエンベッドしたニュース映像だ。(当時はこのようなニュース映像は映画館で作品の上映の前に流していた。この映像はどこの映画館で、どんな映画と一緒に人々に見せられたのだろう。「あ、あれ俺! 俺!」なんてこともあったに違いない。事実の細部への興味は尽きない。)

デモを行なったのは、1936年当時、政治的に意味のある勢力になろうとあがいていた「英ファシスト連合」である。1930年代を通じて「第三極」的な期待を集めた大衆政党からいわゆる「泡沫政党」的レベルにまで落ち込んでいたファシスト連合は、リーダーのオズワルド・モズレー(モズリー)を先頭に、軍服的制服に身を包んで「ユダヤ人の街」に乗り込んでやる、と鼻息を荒くしていた。予定では、制服姿の「リーダー」はイーストエンドを練り歩き、そのまま飛行機に乗ってドイツに向かい、ゲッベルスの家で、ヒトラーを来賓に迎え、当時話題の女性セレブ、「ミットフォード姉妹」のひとりのダイアナと結婚式を執り行う、という大掛かりなパフォーマンスを決行するはずだったという(参考記事。なお、「ロンドンを練り歩いて飛行機で……」は失敗してパフォーマンスは出鼻を叩き潰されてザマァ、ということになったものの、結婚のイベントは予定通りに行なわれている)。

オズワルド・モズレーと結婚して「ダイアナ・モズレー」となったダイアナを含め、ミットフォード姉妹は1936年10月4日にイーストエンドに姿を見せていた。「80周年」の節目に、Twitterでは彼女たちの写真もけっこう流れていたが、この「美しい女性たち」を現在も崇めるように見ているのは、まず、ネオナチやalt-Rightや極右である。

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1896年生まれのモズレーは貴族階級出身の政治家で、軍人として第一次世界大戦で戦ったあと、1918年に国会議員(下院議員)となった。所属政党は最初は保守党、やがて離党して(その理由が「アイルランドでアイリッシュ・リパブリカンを相手にBlack and Tansを使うべきではない」ということだったというのが、後にモズレーがどうなったかを知っていると、皮肉だ)無所属になり、ほどなく労働党に入って、その後また離党して自身の政党を立ち上げ、そこで当時欧州で勢いを得ていたファシズムに傾いて、ついに英ファシスト連合を作った、という人物だ。非常にルックスがよく(肖像画や写真を見ると「映画スター」並みである)、弁舌にも秀でていてカリスマ性のある人だったというが、思想が先鋭化するにつれて行動も先鋭化し、政治家として必要な人々からの広範な支持を失いながらも、「黒シャツ隊」という武装集団を組織した。この「黒シャツ隊」は、ファシスト連合の集会に押しかける反対勢力と暴力的な衝突を起こして新聞沙汰となっていた。

Towards the middle of the 1930s, the BUF's violent clashes with opponents began to alienate some middle-class supporters, and membership decreased. At the Olympia rally in London, in 1934, BUF stewards violently ejected anti-fascist disrupters, with one protester claiming to have lost an eye, and this led the Daily Mail to withdraw its support for the movement. The level of violence shown at the rally shocked many, with the effect of turning neutral parties against the BUF and contributing to anti-fascist support. One observer claimed: "I came to the conclusion that Mosley was a political maniac, and that all decent English people must combine to kill his movement."

The BUF briefly drew away from mainstream politics and towards antisemitism over 1934-35 owing to the growing influence of Nazi sympathisers within the party, such as William Joyce and John Beckett, which provoked the resignation of members such as Dr. Robert Forgan. This anti-semitic emphasis and these high-profile resignations resulted in membership dropping to below 8,000 by the end of 1935 and, ultimately, Mosley shifted the party's focus back to mainstream politics. The party continued to clash with anti-fascists, most famously at the Battle of Cable Street in October 1936, when organised anti-fascists prevented the BUF from marching through Cable Street. However, the party later staged other marches through the East End without incident, albeit not on Cable Street itself.

https://en.wikipedia.org/wiki/British_Union_of_Fascists


……とウィキペディアのエントリに説明されているように、「ケーブル・ストリートの闘い」の日はファシスト連合は退却を余儀なくされたが、その後、彼らは、イーストエンド(「ユダヤ人街」)で、ケーブル・ストリート以外の通りを通って示威行動を何度も行なっており、「ケーブル・ストリートの闘い」がファシスト連合を完全に食い止めたというのは《神話》である。が、「ピープル・パワーがファシストを打ち負かした」という心地よい物語は、まあ、語られ続けるだろう。そういう単純化された物語は、聞く側が勝手に補って解釈しないこと(「ファシストを*完全に*打ち負かした」と述べていないときに「完全に」を勝手に補わないこと)を心して、「語られていることはすべてではない」と基本的なことを確認しておけばよい話だ(が、それはそれで素直な人にとっては「最初に嘘を教えられる!」という怒りを生じさせるものでしかないかもしれない。そういうのは人を修正主義へと駆り立てる危険性がとても高い)。








このような、「ケーブル・ストリートの闘い」をどのように評価すべきかについては、2016年10月4日のころに各メディアが記事にしていた。私が読んだのはアルジャジーラのJosef O'Sheaによる記事だ。

Remembering the Battle of Cable Street
http://www.aljazeera.com/indepth/features/2016/08/remembering-battle-cable-street-160802072152633.html
※URLには「2016年8月」とあるが、筆者の記事一覧のページでは「2016年10月4日」の日付が入っている。

この記事は、最後のセクションで「ケーブル・ストリートの闘いがこんにち持っている意味」について扱っていて、ここを読むと、EDLのトミー・ロビンソン(通称)が腹心(というか極右界の先輩)と一緒に、まるで「モズレー気取り」で、「カウンター・デモを突破してやる」的な行動に出たときのこと(2013年6月)などが思い出され、2016年の、特にEUレファレンダムとBrexit後のレイシズムの高まりと、英国の主要政党で現在の与党である保守党のあからさまな排外主義への傾き(極右化)は、2016年に突然もたらされたものではないということが改めて脳のひだひだの奥から引っ張り出されるような思いがする。

下記はこの記事から、「こんにちにおける意味」の部分ではなく、当時の状況を説明した部分の抜粋。

On that October day, 80 years ago, Mosley's BUF was still on the fringe of British politics. But fear and paranoia were in the air.

Posters pasted to walls all over London proclaimed the march through the "Jew-ridden and communistic" streets of Stepney and Whitechapel. The Blackshirts had already brought violence and intimidation to the narrow dockside streets, crowded with immigrant Irish dock workers, who had fled poverty and famine in their native land, and a huge Jewish population, recent refugees from the Tsarist pogroms and upheaval in Eastern Europe.

http://www.aljazeera.com/indepth/features/2016/08/remembering-battle-cable-street-160802072152633.html


※このとき「ポグロムから逃げてきた人」などは、「英国が第一」的な孤立主義を説く極右勢力によって、「英国に共産主義を広めようとやってきた工作員」呼ばわりされていた。

かつて読んだことのあるフィクションで(どの作品だったかは忘れてしまったが)、1930年代のイーストエンドのユダヤ人家庭について、ユダヤ人が「うちも苦しかったし、社会からは冷遇されていたが、それよりさらにひどかったのがアイリッシュ」、「英国社会で差別されていたユダヤ人が小間使いとして雇っていたのがアイリッシュの娘」といったことを回想している場面があった。フィクションとはいってもすべてが絵空事ではなく、そのような細部は現実に即している。

そのような街に暮らしていた人々が、「奴らを通すな」というスローガンのもと、大結集した。このスローガンは、「ケーブル・ストリートの闘い」の3ヶ月前に始まったスペイン市民戦争で使われていた。

It was also used during the Spanish Civil War, this time at the Siege of Madrid by Dolores Ibárruri Gómez, a member of the Communist Party of Spain, in her famous "No pasarán" speech on 18 July 1936. The leader of the nationalist forces, Generalísimo Francisco Franco, upon gaining Madrid, responded to this slogan with "Hemos pasado" ("We have passed").

https://en.wikipedia.org/wiki/They_shall_not_pass


スペイン市民戦争は、大雑把に、ナショナリスト/ファシスト(フランコの軍勢)と、共和主義者/反ファシストの戦いだった。この戦争(内戦)には国境を越えて「外国人戦闘員」が参加していた。1936年7月の戦争開始当時、「アイルランド自由国」だったアイルランドからは、ファシストの側にも反ファシストの側にも、義勇兵が参加していた。ファシストの側にはいわゆる「青シャツ」、「緑シャツ」が参加し(映画Jimmy's Hallで左翼活動家である主人公ジミーを弾圧する「元IRA」のような人々。「宗教がだいじ」→「宗教を否定する共産主義はダメ」→「何はさておき反共」)、反ファシストの側には、スペイン内戦といえばおなじみの「国際旅団」に加わった人々がいた。




The Irish Post (在外アイルランド人向けの媒体) の上記ツイートのリンク先記事には、当時の写真をふんだんに使い、「アイルランド人とケーブル・ストリートの戦い」について、「2016年に語る」という視座でまとめられている。アイルランド成分が濃厚すぎて、迎え成分が必要なくらいだから、成分置いておきます(ダイソーの手ぬぐい)。

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Chairman of CRAIC (Campaign for the Rights and Actions of Irish Communities) Austin Harney will be in attendance at the commemorative march, which will move from Whitechapel’s Altab Ali Park to Cable Street itself on Sunday, October 9 at noon.

...

“The Irish played a pivotal role in smashing the British Union of Fascists at the Battle of Cable Street. Not only were the Irish part of the backbone of at least 100,000 counter demonstrators but were to outnumber the BUF by 10 to 1.

“There is every reason to have a proper Irish presence for the 80th anniversary of the Battle of Cable Street 100 years since the 1916 Easter Rising.”


「アイリッシュ・コミュニティの権利と行動のためのキャンペーン」は、絶対間違いなく、略称が先に考案されていた組織名である。

この記事はこのあと、10年前の2006年の「90周年記念行事」に参加した「当時の実際の参加者」のスピーチの一節を引いている。

“I was moved to see bearded Jews and Irish Catholic dockers standing up to stop Mosley,” Professor Bill Fishman, who was there that day, told the rally in 2006.

“I shall never forget that as long as I live, how working-class people could get together to oppose the evil of fascism.”


ビル・フィッシュマン教授は、残念なことに、80周年を迎える前に亡くなっているようだ(On 22 December 2014, he died at the age of 93)。
https://en.wikipedia.org/wiki/William_J._Fishman

だが、「80周年」だとまだぎりぎりで、実際に事態を目撃した人々の話が聞ける。

Max Levitas, now 101 years old and still living close to Cable Street, was there on October 4, 1936, with his brother and father. They stood with tens of thousands of Londoners packed into the narrow streets of the East End, waiting behind police lines and improvised barricades.

Eighty years on and sitting in his modest home on nearby Sidney Street, Max recalls one of the most dramatic yet often overlooked days in 20th century British history.

"We had to stop Mosley and his fascists. We had to ensure these racists could not terrorise the people and march through the East End," says Max.

"There were huge crowds. Everybody was shouting: 'C'mon lads, we're going to go out and stop them. They want to march - we're not going to let them.' We stood together; we fought back," he recalls.

http://www.aljazeera.com/indepth/features/2016/08/remembering-battle-cable-street-160802072152633.html







当時の状況を語るマックス・レヴィタスさん(101歳)は(名前が語るとおり、ジューイッシュだが)、「タワー・ハムレッツ(区)の人々が、ジューイッシュであれ、アイリッシュであれ、イングリッシュであれ、人々を守り、ファシズムにより人々が殺害されるのを防ごうと町に出てきたのです。ジューイッシュに対してであれ、ジューイッシュ以外に対してであれ、人々を攻撃するなどということは、やり方として間違っています」と語っている。

1936年当時、ユダヤ人にとっては「ユダヤ人であるがゆえに攻撃される(家を追われたり、命を奪われたりする)」ということは、可能性の問題ではなく、リアルな問題だった。あまりに悪辣で規模の大きな「ナチス・ドイツによるホロコースト」はまだ始まっていなかったにせよ(だが1934年にはヒンデンブルク大統領が死去しており、ヒトラーはアンストッパブルになっていた)、欧州大陸ではポグロムは起きていた。ロンドンのイーストエンドは、大陸での迫害から逃れてきたユダヤ人の難民たちが多く暮らしていた。そのことは、ジョージ・オーウェルも1945年4月に発表された文章で、次のように書いている。

イギリスには約四十万人のユダヤ人がいることが以前から知られているが、それに加え一九三四年以来、二、三千から最大で一万人弱のユダヤ人難民がこの国に入国している。ユダヤ系人口のほとんど全ては六つの大都市に集中し、その多くは食品、衣類、家具の仕事に就いている。……イギリスの経済活動がユダヤ人によって支配されているというのは事実とはほど遠いと言えるだろう。それどころかユダヤ人たちは巨大合併へと向かう現代の動きについていけず、伝統的な方法で小規模にしかおこなえない商売を続けているように見える。

ジョージ・オーウェル「イギリスにおける反ユダヤ主義」(H.Tsubota 訳)
http://open-shelf.appspot.com/others/AntisemitismInBritain.html
解説: http://blog.livedoor.jp/blackcode/archives/AntisemitismInBritain.html


BBC Radio 4が話を聞いているのは、マックス・レヴィタスさんのほか、当時19歳で反ファシスト・グループに参加していたというBeattie Orwellさん(「私はダンスが苦手だったから、政治活動をやってたんですよ」と笑うチャーミングなおばあちゃん)。
http://www.bbc.co.uk/programmes/p049ylg4




そして「家族の物語」として、記念集会に足を運んだ3世代の女性たち。



「家族の物語」が、都市の歴史と重なる。



10年前の行事には参加していたビル・フィッシュマン教授(「バトルではなく防衛行為でした」)と、もっとずっと若い研究者(Alan Hudsonさん)が事実として何があったのかを詳しく解説しているビデオもある。「BBC英語」ではないが聞き取りやすいので、ぜひ(唐突にピーター・マンデルソンの名前が出てくるのでびっくりするかも)。解説や参考リンクはこちら。「ケーブル・ストリートの戦い」と同じ日に労働党のメインストリームはトラファルガー・スクエアでスペイン市民戦争に行った共和派の義勇兵たちのための集会を開いていたとかいうのは、「労働党」と「共産主義者やアナーキスト」の違いを浮き彫りにする歴史上のディテールではあるが、たぶん労働党が澄ました顔をして触れずにいる「黒歴史」だ(この文脈があると、80周年のイベントで労働党のジェレミー・コービン党首がスピーチを行なったということの意味が変わって見える)。ジューイッシュとアイリッシュのコミュニティは特に交流はなかったが、このときにともにファシストを阻止し、警察による突破を阻んだ(アイリッシュの港湾労働者による鉄壁のディフェンス!)。労働者階級の中の異なるグループの連帯によってこのようなことが可能になった……。フィッシュマン教授の話を聞いていると、ここで阻止していなかったら、確実にファシストによる過激な行動(ユダヤ人を標的とした放火など)が行なわれていたと思う。



このビデオが撮影されているミューラル(壁画)は、ケーブル・ストリートにあるSt George's Town Hallの壁に描かれたもの。1979年から83年にかけて描かれ、現在も維持されている(79年から83年というと、ナショナル・フロントの最盛期。こういうのがイーストエンドなんですよね。本当にすごい)。






というわけで、10月9日(日)、ロンドンのイーストエンドでは80年前の「戦い」を記念する集会が開かれていた。Twitterで追えた範囲では2通り、別個にイベントが行なわれていた。屋外のイベントと屋内のイベントだ。Twitterでは情報が断片化しすぎていてわけがわからないのだが(それゆえに「同時多発」感は出るし、それに惑わされることもある)、屋外のイベントではホワイトチャペルからケーブル・ストリートへの行進を行い、終着点のケーブル・ストリートのミューラルのところでジェレミー・コービンがスピーチを行なったようだ(参考記事)。屋内のイベントではサディク・カーン市長が演台に立った。

行進の出発場所は、アルタブ・アリ公園だった。この公園名を見ると、そそっかしい人は「うぬー、イスラム化するヨーロッパだ」と思い込むかもしれないが、「アルタブ・アリ」は「イスラム」の象徴ではない。「レイシズムの犠牲者」の名前だ。ウィキペディアにまとめられている来歴によると、この公園の場所には元々は St. Mary Matfelonという「白い教会」が建っていた(「ホワイトチャペル」という地名の由来)。その教会が、第二次大戦中のドイツ軍によるロンドン大空襲で破壊され、その跡地が「聖メアリ公園」として整備された。その公園が、1998年に「アルタブ・アリ公園」と改名され、「レイシズムの犠牲となった青年をしのぶ場」となったばかりでなく、英国による帝国主義を経験した「英領インド」の分裂で成立したパキスタンによる言語権の剥奪に抵抗し、暴力的弾圧を受けたベンガル語話者たちの言語運動の記念碑も建立され、ベンガル語で詩を書いた詩人、タゴールの言葉の一節を刻み、人々の生きる権利と尊厳を守るための象徴がちりばめられた場となっている。

アルタブ・アリは1978年、25歳のときにレイシストの少年3人にこの公園のあたりで襲撃され、殺害された。アリはバングラデシュからロンドンに来て、ブリック・レインの繊維工場で働いていた(「イーストエンドのスウェットショップ」ですね)。1978年5月4日、区議会選挙が行なわれた日の夜、仕事を終えた彼はバス停に向かう途中で白人2人(17歳)と黒人1人(16歳)の10代の少年3人組に追いかけられ、聖メアリ公園のところで刺し殺された。選挙に際し、この地域では極右政党のナショナル・フロントが憎悪煽動を行なっていた(モズレーのファシスト連合とやり口は同じ)。英国では16歳だと刑事犯でも名前が公開されないのが原則で、ウィキペディアを参照するに、この事件でも16歳の黒人少年の名前は出ていない。アリを刺したのはこの16歳少年で、警察の尋問で理由を尋ねられると、「理由なんか何もないっす」と答えたという。「パキ(国籍関係なく南アジア人に対する別称。うちら東アジア人に対する『チンク』みたいなもの)がいたら標的にして、金をせびってぼこぼこにするのが当たり前だった」と言う彼は、それまでに「少なくとも5度」は「パキ」をぼこったことがあったという。この殺人事件についての詳細な記事が今年2016年の事件記念日にBBCに出ている

当時はナショナル・フロントの活動が非常に活発で、その挙句に起きたこの「理由なんかない」殺人事件は人々に衝撃を与えた(たぶん、『時計仕掛けのオレンジ』と重ねあわされていたこともあったのではないかと思う)。「パキ」として理由のない襲撃の標的とされたバングラデシュ人のコミュニティは、防衛のために、まとまって立ち上がった。これがきっかけとなり、ホワイトチャペルからナショナル・フロントは追い出されることとなった。今、うちらが手にするロンドンの旅行ガイドブックなんかで当たり前のように「バングラ・コミュニティ」と描写されている地域も、こういう闘争を経験してきている。

(それにしても、ロンドンのイーストエンドは、本当に、「すべてがある」よね。写真家の岡村昭彦は「アイルランドにはすべてがある」と言っていたけれど、イーストエンドはその「アイルランド」も内包してるからね)

「ケーブル・ストリートの戦い」の80周年を記念するイベントが、こういう公園を集合場所として行なわれたということは、非常に大きな《物語》の一部である。場所は下記。この公園が面する大通り(ホワイトチャペル・ロード)をまっすぐ西進して最初の大通り(オーゲート駅の交差点)を南進して、鉄道(DLR)の高架と交差する地点が、ケーブル・ストリートの起点である。











↑↑グレイアムさんがいいこと言った。↑↑





↑労働党系の団体の旗の数々。これらのほかにも、この行進には、共産党のカマトンカチあり、Antifaの赤黒旗あり、労組の旗あり、あと畳まれててよく見えないんだけどケルト文字の旗もあったので、アイリッシュの団体も来ていたのだろう。






そして現在、先鋭化したレイシズムの攻撃対象となっているポーランド人の団体。



今もっともホットな話題が、スピーチのトピックとなった。









ジェレミー・コービンのスピーチ:












コービンって、いろんな写真を見ると、アイリッシュと一緒にいるときの顔がすごくいいんだよね。よほどアイリッシュ(・リパブリカン)が好きなんだろうと思う。それにこの人、ジェイムズ・ジョイスのあれを4度も読んでるっていうんだから、只者ではない。



ピカソの「ゲルニカ」のバナー。ゲルニカという都市そのものを標的とした空からの爆撃は、「すべての戦争を終わりにするための戦争」であったはずの第一次世界大戦を完全に過去のものとし、軍事的になんちゃらでかんちゃらな新たな時代を作ってゆく。これもまた、1930年代の欧州における「ファシスト対反ファシスト」の戦いという文脈の中の歴史的な出来事。



一方でサディク・カーン市長がスピーチを行なった屋内のイベント。こちらはロンドンのユダヤ人組織の主催。
Jewish leaders said the battle would be marked to “ensure that future generations continue the resolve to fight racism and fascism”. The 9 October reception, organised by the London Jewish Forum and media partnered by the Jewish News, will also hear from Chief Rabbi Ephraim Mirvis, Reform senior Rabbi Laura Janner-Klausner, and MPs Rushanara Ali and Ruth Smeeth. Attendees will be able to sign a pledge to anti-racism campaigning.

http://jewishnews.timesofisrael.com/sadiq-khan-to-address-communitys-cable-street-commemoration/


※この記事を読んで思ったことはいろいろある。「共産党員」や「アナーキスト」の存在が無視されているし、「アイリッシュ」の影も形も見当たらない。すべてを語ることはもちろん無理だ。しかしこの「語り」は何なのか。こういう「語り」をするのが常態化している人々はしかし、「だってケーブル・ストリートの記念行進ではイスラエル国旗が禁止されているじゃないか、イスラエルを祖国とするユダヤ人のための行事なのに」といったことを言っていたりする(Twitterで見かけたのだが、URLは控えていない)。


















このように、80年も前の「ケーブル・ストリートの戦い」は、今なお、アクチュアルな問題としてコンスタントにとらえなおされている。「昔話」や「歴史上の出来事の再現・コスプレのお題」にはなっていない。《神話》化されるほどポジティヴなことと受け止められているにも関わらず、それは、記念され、讃えられることはあっても「再現」するようなことではないと認識されている。その理由のひとつは、それが「再現イベント」にできるほど「完全な過去」になりきっていないということだろう。現在もなお、「ユダヤ人街」をまるで《舞台装置》であるかのように利用して、自身のパフォーマンスを行なおうという反ユダヤ主義・人種主義の勢力は存在する。それも、たぶんSNSという社会的な装置の発達にともない、以前より高度で自由で柔軟な組織化・集団化が可能となった2010年代においては、彼らの示威行動は、例えば1980年代よりずっと「やる甲斐のあるパフォーマンス」となってきている。下記は昨年、2015年7月にロンドンのユダヤ人の多い住宅街でネオナチがデモを行なおうとしたときの顛末(連中の卑劣さは、この「反ユダヤ主義のデモ」がユダヤ教徒が動きをとることができない安息日、土曜日に予定されていたという事実に、端的に表されている)。




それに加えて、2016年は、英国ではEUレファレンダム、米国では大統領選という大変に大きな機会に際し、極右的な言動がふつうにテレビや新聞のような言論機関を通じて、「何でもないこと」のように広く世間に流されるということが起きた。英国では既にその何年も前、2010年の総選挙のときにBNPが「まともに取り合うべき政党」としてのステータスを得てTVの討論番組に招かれるということになったときに潮目が変わってきていたのだが(BNPの論者はTVで論破され、赤っ恥をかくことになりはしても、BNPではない極右は「自分たちの主張する論点がテレビで論じられた」ことで漁夫の利を得る)……。BNPはその後、自己分裂して自滅したにせよ、2015年の総選挙に際してはUKIPがものすごいとしか言いようのないパブリシティを得ていたし、2010年から15年の間にはEDLの活動が全国ニュースになっていた時期もあり、EDLはいろいろアレそうな経緯でつぶれたとはいえ、EDLを取り巻く言説によって共感者となった人々の行き場は、UKIPであれBritain FirstであれNAであれ、まあ、いろいろある。そういう組織的な行動の場に関わらない人であっても、SNSで「同好の士」だけで群れて透明なタコツボにこもり、情報をシェアし、感情を高ぶらせつつ、自分たちの輪の外にもその主義主張を見せるということはできるし、やっているだろう。SNSなら(言語さえ共通していれば)国境も関係ない。米国のドナルド・トランプ支持者の発言が直接、英国のBFの活動家に届き、後者の反応は前者にリアルタイムで伝わるのだ。しかも人々が見ている前で。

ジョージ・オーウェルは、上で参照した1945年の小論において、「本当に何とかしなけりゃならないのは反ユダヤ主義じゃなくてナショナリズムだ」と述べている(戦争中にこれができたということが、この人がいかにすごい言論人であるかを示してもいるのだが)。

一方、2016年の現実を見ると、英国では政府がその「ナショナリズム」を率先して煽っている。最もはっきりと流れが変わったのは、2014年9月のスコットランド独立可否レファレンダムのときだったが(独立を阻止しようとするウエストミンスターは、保守党であれ労働党であれ、「スコットランド・ナショナリズムの悪魔化」という手法をとって、「ブリテン」のナショナリズムを煽り立てた)、その2年前、2012年の女王のダイヤモンド・ジュビリーとロンドン五輪のときに「国旗パタパタ」に対する抵抗感が薄れていくのは、ネット越しでもよくわかった(英国は帝国主義という過去を有するため、多くの人々の間で「国旗パタパタ」的なナショナリズムへの抵抗が共有されていた。保守党サイドの話ばかり吸い上げているとそういうところは見えないかもしれないが)。IDSだのマイケル・ハワードだのの古臭いナショナリズム全開の政治家たちの後を受け、2005年に「リベラル」なデイヴィッド・キャメロンが保守党党首になったときに、キャメロンがやがて率先してナショナリズムを煽っていくようになると、誰が予想しただろう。





タワー・ハムレットの区長のツイート:







「80周年」記念の展覧会やオンライン・アーカイヴなど:











Hope Not Hateの映像:




ケーブル・ストリートに掲げられた記念のプラーク。タワー・ハムレッツ環境トラストのプラークなので、「ブルー・プラーク」ではなく「レッド・プラーク」である。


* By Richard Allen (User created) [Public domain], via Wikimedia Commons


なお、Twitterで少し触れたように、本稿をまとめる際にネット検索をしたことで、ネット上に修正主義の言説がかなり多く出ていることを確認した。まっとうな修正主義(「脱神話化」)も中にはあるが、一般論として、刺激的な言葉で目立とうとしているのはたいがい、極右の歴史修正主義(ヒトラー礼賛の亜種)の言説と思っておいてよい。Twitterでの誰かの発言はもういちいち見ないし見てもすぐに忘れるようにしているのだが(EUレファレンダム以降、「極右のデマ」が普通になっている。いちいち気にしててもしょうがないから、なるべく見ない&記録しない&記憶しないの「3ない運動」を個人的に絶賛実施中だ)、Twitter(および各種SNS)の外の一般的なウェブ空間でも「まっとうなことを言っている」ふうで感情を煽り立てる歴史修正主義はけっこう目立っている(10年前のBNPが環境保護の重要性を訴えていた「ニュース」の書きぶりとよく似てるという印象)。そのことを書き添えて、この長い長いエントリを終わりにする。

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※この記事は

2016年10月10日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼