kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2019年04月20日

北アイルランド紛争の死者が1人、増えた。(デリーの暴動でジャーナリスト死亡)

1994年のProvo停戦&ロイヤリスト諸組織停戦から四半世紀が経過する年の、1998年の和平合意から21年目のグッド・フライデー(聖金曜日)を迎える前の晩に、「北アイルランド紛争の死者」が1人増えた。民間人でジャーナリスト。女性。将来を期待される29歳で、数週間内にも書籍が出ることになっており(校了してたみたい)、この先の出版の契約もあった。専門分野は「紛争」のレガシーとトラウマ。

彼女の死は、最初はイングランドではほぼ無視されていたが(イングランドにとって北アイルランドは「よその土地」なのだ)、やがて大ニュースとなり、世界中から彼女を悼む声が集まってきている。葬儀費用などを集めるためジャーナリストたちによるクラウドファンディングも立ち上がった。(彼女自身、とても苦労しながらジャーナリストとして活動してきた人だ。)

記録はNAVERまとめを利用してとってある。まだ完成していないが、このあとまた手を入れるつもりだ。https://matome.naver.jp/odai/2155565677562110001

本ブログでは「記録」とは別に、若干の解説のようなことをしてみようと思う。

最近日本でも「かわいいうさちゃんのイベント」的に商業化しつつある様子が特に100円ショップの店頭で見て取れるイースターは、キリスト教の非常に重要な宗教行事だが、アイルランドでは、現在の(今のところ分断された形での)独立へとつながることになる1916年の蜂起(イースター蜂起)を記念するという歴史的・国家的なナラティヴの機会でもある。

「アイルランド共和国」として独立国家になっている26州では、1916年に蜂起者たちが立てこもったダブリンのGPOの建物の前で、軍事パレード(といってもアイルランドの軍は今は自衛力しか持たず、それも、恥ずかし気もなく「自衛」「国防」を「軍事」「戦争」の同義語としている諸国とは異なり、本当に自衛力)が行われたりする。

一方「英国の一部」として独立前の状態のまま残されている「北アイルランド」、すなわち「北部6州」では、現在もなお、「北アイルランド紛争」までの時代と同じように、「武力を以てのみ、英国からの独立を果たすべし」という主義主張(「フィジカル・フォース・リパブリカニズム」という)を抱いた武装集団が、旗をかかげ軍装にバラクラバにサングラスというスタイルで、紛争で斃れた「同志たち」が眠る墓地までパレードを行なうという、(小規模とはいえ)軍事的な示威行為の機会となっている。

そして彼らは「IRA」を名乗っている。だから、北アイルランドに関心なんか持っていないブリテン本土のメディアが、とっくの昔に停戦し、だいたい武装解除してほぼ機能停止しているProvisional IRA (PIRA) に関する記事に、今なお武力至上主義を奉じているIRAを名乗る勢力の写真を添えることすらある。軍装にきれいな旗の彼らのパレードの写真は、参加人数は少なくてもとても見栄えがするし、一目で「それ」とわかる。(なお、PIRAが今でもギャング団として勢力を持っていること、彼らは銃を持っていること、ときおり内紛で銃撃事件が起きていることは事実だが、もはやそれらは「紛争」時代の「政治的暴力」ではないし、そのように扱われてもいない。)

イースターに軍装で見栄えのするパレードを行なうこういった勢力は、北アイルランド全体でそれができるほどの数を持たない。メンバーや支持者は広い範囲にいるのかもしれないが、パレードを行なえるような地域は数少ない。

そして、北アイルランドから見れば、「川を挟んだ向こう側」なのに「英国の一部」に入っているという、分断の地理的な不自然さを背負っているような都市であるデリー市(DerryかLondonderryかという呼称論争を見れば、そのややこしさがわかるだろう)は、その武装至上主義の勢力がイースターのパレードを行なえるくらいの地域の支援がある。

これらの勢力は、1998年の和平合意(グッドフライデー合意: GFA)を支持していない。というか、2019年の今も武装活動を続けているのは、PIRAがその和平に応じたことに怒ってPIRAから離脱した勢力だ。

そう。彼らの旧称はReal IRA(組織自体は「IRA」としか名乗っていないにせよ……「自分たちこそ本家本元のIRAである」という主張があるので、「IRA」としか名乗らないのだ)。1998年4月の和平合意を支持しない、IRAの中の超過激派・超強硬派だ。1998年8月15日(土)にオマーという「紛争」とはあまり縁のなかった小さな町の商店街に自動車爆弾を仕掛け、9月の新学期前の買い物を楽しむ人々や、スペインから修学旅行に来ていた小学生の一団を殺傷した勢力だ。この勢力が、数年前にデリーを拠点としてきたより小さな勢力と合流して再編した。これも単に「IRA」を名乗っているのだが、IRA諸勢力を区別しなければならない立場(つまり一般の報道など)では、現在は「the New IRA」、または引用符つきで「the New 'IRA'」などと呼ばれている。

GFA後、和平を推進することとなったPIRAが「主流派リパブリカン (mainstream Republicans)」とされる一方で、このReal IRA/New IRAのような勢力は「非主流派(反主流派)リパブリカン (dissident Republicans)」と呼ばれている。

これら「ディシデンツ」には複数の武装勢力があるが、2019年4月の段階で活動しているのはNew IRAだけのようだ(もっともっと規模の小さな集団はあるかもしれないが、ある程度の規模がありテロ組織としての能力があるのはこの組織だけ)。Real IRAの分派よりもっと早い段階で(1980年代に)別の政治的理由によってPIRAから分派したContinuity IRAは、RIRA同様にGFAを支持してなかったが、現在は停戦している(武器庫は持ってるかもしれない)。

繰り返しになるが、彼らは和平合意を支持していないし、現在も武装活動を続けている。2019年1月のデリーのカーボム、2月のロンドンの郵便ボムは、New IRAが「われわれはここにいる」と示すために行ったと考えられる。規模の面では、10年ほど前には「数十人単位にすぎない」と言われていたはずだが、どうやら拡大しているようだ。それも、年少者を大勢加えている。10代の少年たちに「銃を持て、祖国を奪還せよ」のロマンティシズムを吹き込んでいるのだろう。2009年3月の警官銃撃事件(Continuity IRA)のあと、事件の起きたアーマー州の武装集団が身内のSNS(当時はMySpaceか、今はもうなくなってしまったSNSだったかも)で10歳〜12歳くらいの子供をがちがちに武装させている写真を回覧しているのが問題となったこともある。(数年前にイスイス団が子供を武装させて写真を撮っていたとき、「やってることがディシデンツと同じだ」と思ったのはここだけの話。)

New IRAというのは、そういう組織だ。

2019年4月18日の木曜の晩、イースターを目前に控えたこのタイミングで、デリー市のクレガン地区(ここはずっと前からディシデンツの拠点として知られている。有名なFree Derryのゲーブルが記念碑のように立っているボグサイド地区の隣で、おおまかにひとつ市街地側)で、警察の強制捜査が行われた。

強制捜査が行われること自体は特筆すべきことではないし、仮にそれが強引なものとなったとしても驚くべきことではない。「警察対警察をCrown Forceと呼び攻撃対象としている武装勢力」という構図だ。

そしてその武装勢力の側が、その強制捜査に対する「英雄的抵抗」を行なうということも想定内だ。

かくして、「注目しているのは地元だけ」という状況の中、いつもの「暴動 (riot)」が始まった。警察車両にペトロル・ボム(火炎瓶)が投げつけられる。歓声を上げながら投げているのはスウェットの上下を着たような子供たち(10代の少年たち)。まるでお祭りだ。その様子を遠巻きに、近隣住民が見守る。その住民たちの中に、現場に駆け付けた地元のジャーナリストたちがいる。彼ら・彼女らの多くはまずスマホで撮影し、何がどうなっているのかを広い範囲に知らせる。

ライラ・マッキーも、木曜日の夜にそうしていたジャーナリストたちの1人だった。彼女のTwitterアカウントはカギがかかっているので私は見ることができないのだが、フォロワーがキャプチャ画像で伝えているところによると、群衆が火炎瓶を投げている現場を警察車両の背後から写した写真に「すさまじいことになってる」という言葉を添えてツイートしていた。

D4flswiU4AEYDqI.jpg
*via https://twitter.com/Jeggit/status/1119115597281841153

それが最後になった。

私が東京で最初にニュースを知ったのは、スマホのTwitterの画面内でのことだった。数時間前のツイートがTop tweetsとして示されている画面内に、「デリーでジャーナリストが射殺された (A journalist has been shot dead in Derry)」「警察は殺人事件として扱い、テロと見ている」というニュースが流れてきていた。

"Shot dead" ということは、標的として撃ち殺されたということだろうか? 北アイルランド紛争唯一のジャーナリストの犠牲者であるマーティン・オヘイガンのように(オヘイガンは調査報道を進めていて、LVFに暗殺された。事件は未解決)。

Twitterの断片からそれを確認するのはなかなか大変だった。メディアの報道記事の見出しがどれもこれも「デリーでジャーナリスト射殺、テロとの見方」ばかりで、この言い方は標的としてジャーナリストが襲われて殺されたということを示唆する。しかし、状況から考えてそういうわけでもなさそうだ。亡くなったジャーナリストの仕事として同僚たちがフィードしてくるのは、誰かにとって都合の悪いような調査報道(例えばNo Stone Unturnedのジャーナリストたちの仕事のようなもの)ではなく、紛争後の社会全体にリーチするような分析的な記事だ。

何が起きたのかがクリアになったのは、Twitterに大量にフィードされてくる見出しを超えて状況を把握するための言葉を読んだあとだった。暴動を起こしていた側(火炎瓶投げとは別の一帯)がいきなり発砲し、警察の横で暴動の様子を取材していたジャーナリストたちの1人が被弾した。現場では隣にいたジャーナリストがすぐに救急車を呼んだが、それより早く、警察の車両で病院に搬送された。そして搬送先の病院で息を引き取った。

ここから明らかなのは、ライラ・マッキーは標的とされて撃たれたわけではなく、流れ弾に当たったということだ。

その流れ弾は、誰かを銃撃することを意図して発射されたものだったということが、「殺人 murder」という警察の言葉の意味するもので、実際、警官を標的として撃ってきたのだろう。

事後、武装組織の代弁者(ではないと言い張っている政治組織)が次のようなステートメントを出した。このツイートにぶら下がっているリプライもまた、相当にひどいのだが(ジム・アリスターはどの口でそういうことを言うのかね)、このステートメント自体がBullshit以外の何物でもない(そして私は、アイリッシュ・リパブリカンの大義には反対する立場ではない)。しかし、これを信奉している人々はいるのだ。



これが北アイルランド和平の現実である。「頼りない和平 a fragile peace」と呼ばれているのは、こういうことだ。

今回はリパブリカンの側で起きた暴力だが、ロイヤリストの側も安定しているわけではない。身内の殺し合い(内部抗争)なのかもしれないが、住宅街の街路で人を射殺するということが最近も起きたばかりだ。

だが、ディシデント・リパブリカンの暴力は、ギャングランド的な色彩はなく、「紛争」期の政治的暴力そのものだ。

ザ・クランベリーズの歌った「ゾンビ」なのだ。In your head, in your head, they are fighting.






※この記事は

2019年04月20日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:31 | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼