そんなおり、macska dot orgさんの下記記事を読んで、あれが一種の「用語」であると把握した。
米国を席巻する「新しい無神論者」の非寛容と、ほんの少しの希望
4/25/2008 - 12:01 am
http://macska.org/article/224
これは、米国に滞在しておられるmasckaさんが、atheistのグループに実際に参加され、そこでの「無神論」がどのようなものであるかを、非常に読みやすい形でまとめてくださっている文章だ。翻訳者にとっては必読であり、このテーマに興味のある人は読んでおくとよさそうな文章である。ただし、それなりの前提を共有していないと、論旨を取り損ねるかもしれない(いかなる文章でもそれは同じかもしれないが)。
なお、この文章は、メールマガジン「α-Synodos(アルファ・シノドス)」の第一号に掲載されたものであるとのこと。興味がおありのかたはサイトにぜひ。
さて、macskaさんのブログ記事では、まず、オレゴン州ポートランドで活動するatheistのグループ(複数)について、大別して2つの流れがあることが紹介される――1) 60代以上の白人男性たちの「伝統的に存在していた」グループ(『聖書』についての議論、反進化論者に対抗するため熱力学第二法則のレクチャーなどを定期的に行なっているが、基本的に、何と言うか、「昔ながらのあっち系」な感じがする人たち)、2) ネット (SNS) を通じて集まった人たちによる新しいグループ。ご本人が参加されたのは後者である。
そのグループのメンバーやミーティングの内容・様子などについては、macskaさんの記事をご参照いただきたい。非常にいきいきと描写されていて、メディアの記事を読むだけではわからないこと――特に日本にいてはわからない「雰囲気」のようなもの――がよく伝わってくる。
そして、そのグループが、いわば「いろんなことをみんなと話せる場」として機能しているが――このあたり、SNSっぽいというか、「オフ会」っぽいなあと思うのだが――、その一方で、グループがそういうふうに機能していることを肯定しない/しえない人たちもいる、という。つまり、atheismの人たちが集まることによって「信仰共同体」的な、「教会の真似事」のような場が形成されてしまった、ということ(逆説的にも!)に対し、いい顔をしない人たちがいる、と。(「信仰共同体」などの言葉を与えられている、それが「真実」としてそうであるかどうかよりむしろ、そういう解釈・受け取られ方をしていることのほうが、このコンテクストでは重視されてしかるべきだろう。というのは、その解釈から生じた言辞や考えが、次の何かになっているので。)
そして:
無神論者たちのふるまいは、信仰者のそれと何ら変わらないのではないかーーすなわち無神論者たちは、無神論という新しい宗教の信者であり、その他の宗教の信者と本質的に何ら変わらないのではないかーーという問いかけは、多くの人が直感的に感じるものだ。それに対し、いかに「無神論は信仰を否定し、理性による現実把握を推奨しているのだ」と反論しようとも、現実に「原理主義的な」としか形容しようのない無神論者が多くいるのだから、一般にそういう印象を与えてしまうのは仕方がない。
※強調は引用者による。以下同。
ここで「『原理主義的な』としか形容しようのない無神論者」というのは、ここまでの話では、SNSでつながってできたサークルが「信仰共同体」的なものになっているのに賛成できない人たちのことだと読める。そして次のパラグラフでは、こういった人たちが「新しい無神論者」として言及される。つまり、「新しい無神論者」=「『原理主義的な』としか形容しようのない無神論者」。
たとえば「新しい無神論者」の代表的論客として先に名前を挙げたヒッチェンス【引用者注:『God Is Not Great (神は偉大ではない)』の著者、クリストファー・ヒッチェンス】とハリス【注:『The End of Faith (信仰の終焉)』の著者、サム・ハリス】は、ともにネオコン的な「テロとの戦争」に全面的に賛同しており、アルカイダとは無縁だったはずのイラクでの戦争すらーーおそらくイラク人がイスラム教徒であるというだけの理由でーー支持している。ハリスはさらに、イスラム過激派を懲らしめるために中東で核兵器を使うことすら著書で主張している。かれらはキリスト教原理主義にもイスラム教原理主義にも反対という立場を打ち出しているし、実際本人たちもそう思っているのだろうが、理性主義という理念のために多数の人を犠牲にしても良いという発想は、原理主義として批判されても仕方がないだろう。
実際に、「あれは宗教をベースにしているものであり、したがって私は反対である」という態度――agnosticな立場からはたぶん「あまりに単純」に見えるであろう態度――が、atheistによって示されることはある(私は英メディアの記事やそこで言及されているブログの記事程度でしか知らないが)。私が "fundamentalist atheism" という表現を見かけるのは、そういう立場――「それが宗教ベースであるがゆえに、私はそれを批判し、それに反対する」という立場――を批判する文章で、である。
先日、オバマ上院議員に対するsmear campaignが激化し、彼が通った教会の牧師さんの発言(BBCの記事にけっこう詳しく出ている)がメディアでさかんに「反米的」と取り上げられていたとき(あれは、ノーム・チョムスキーの発言が「反米的」であるのと同様に「反米的」← no more 〜 than ... で読んでください。A whale is no more a fish than a horse is. で)、macskaさんの参加されたグループでもその話題となったのだそうだ。そのときのグループの人びとの反応が:
このグループの人たちは、「あの牧師は狂っている」「これだから宗教者は」と、まったくその文脈を理解しようともせず、切り捨てるように口にしていた。
つまりそこでは、「宗教か、そうでないか」ですべてをとらえようという態度が、当たり前のものとなっている。で、その「宗教」って何ですか――ってのはたぶん、ここでいうatheistじゃなくてagnosticだな、話がずれるからそこはスルーしよう。>自分
で、私が実はまるでわかっていなかったのは、欧州での「それ」の現れ方と、米国での「それ」の現れ方が違う、ということだ。
macskaさんが書いておられるとおり、欧州では(英国も基本的に「欧州」に含まれるのだが、英国は北アイルランドを除いても、ガチのファンダメさんがちょっとずつ勢いを得ている状況であり、やや米国的かもしれない)、「われわれの価値観」、つまり、「言論の自由」(現在これを声高に叫んでいる多くが「極右」勢力だったりするが)、「男女平等」、「同性愛者の権利擁護」を理解しない・受け入れない「イスラム教徒」を排斥したい人、攻撃したい人の言動が非常に目立つ。大メディアの報道でだけでなく、「難民申請を却下されたイラン人同性愛者」への支援活動において、そういった「これだからイスラムは」的な発言が為されているのを、私も見たことがある――オンラインで、だが。(だから私はいろいろとものすごく警戒してきたのだ、この1年以上の間。)
こういった現れ方を、masckaさんは「『不寛容なリベラル』的傾向」ということばを使って説明している。そして米国では、それは欧州のように「移民問題」においてではなく――米国における「移民問題」は主にメキシコ人についての問題を指す。FTAA(笑)――、「対テロ戦争」への態度において、はっきりと現れている、と述べる。
そして:
無神論者の多数を含む「理性」原理主義者らは、内政面において妊娠中絶問題や同性愛者の権利をめぐってキリスト教原理主義勢力に肩入れするブッシュ政権を批判しておきながら、外交・軍事面においてはブッシュが口を滑らして「新たな十字軍」と呼んだ「対テロ戦争」に根本的な部分で反対できない。
だから、ビル・クリントン&ブレアの「人道的軍事介入」っていうレトリックが、オバマ/ヒラリー/マケイン&ブラウンの時代、つまり来年以降にリバイバルした場合にどうなるか、それを考えるととても不安なのだ。(不安っていうか、げんなりする。)
先日、ブラウンが訪米したときの演説を読んで、やけに不安に感じたのだけれど、それが自分では「雰囲気的にいやな感じ」としか言語化できていなかったのだけれど、これである程度はっきりしてきた。
今のブッシュ政権を決定した「原理主義者/宗教保守派」に代わって、次の米政権のトップを決定する(「キャスティングボートを握る」的な意味であっても)かもしれない彼らは――「新しい無神論者」、「原理主義的無神論者」は――、「宗教的 religious」か「非宗教的 non-religious」かというより、「宗教 religion」か「反宗教 anti-religion」かを基準としている。
それは、米国において non-American が anti-American の同義語として機能していたあの「不寛容」の時代――そのときにも本人たちは「自由の国」というキャッチコピーを本気にしていたのかもしれないが――を思い起こさせる。……とかいうふうに「不寛容」ということばをいいかげんに使うべきではないのだけれども。
かれらから見れば、宗教を信仰している人はそれだけでかれらより非理性的であり、冷笑するしかない対象なのだ。このままいくと、迷える子羊=信仰者を救うために無神論の布教活動でもはじめかねない。そうした意識の大部分は、オバマの通っていた教会の牧師が過激な「米国主流社会」糾弾発言を繰り返すのと似たような文脈において形作られたもので、それなりに共感できないことはない。けれど、それが抑圧や貧困に抵抗するために信仰を必要としている人への不寛容に容易に繋がることには懸念を感じる。
つまり、「宗教なんか(少しでも)信じてる奴は馬鹿」的な、単純な白と黒の世界観、ファンダメさんの世界観と本質的にどう違うのかという世界観に雪崩れ込むことの危険。
宗教ってのは、人間が必要としたから、人間が作り出したものであるはずだ。Atheismはそういう思想のことだったはずだ。しかしこういう形での「宗教なるもの」の全否定は、人間の否定ではないのか。
そこまでノンを言い得るのなら、それはそれでひとつの思想、ひとつの立場だ(虚無主義、かな)。だけど、「アメリカ」というものを遠くにぼんやり見ていて、あの国がそういう「徹底したノン」(常套句だが、「セリーヌ的」な)を「自分たちのもの」として受け入れられるとは、とても思えない。そしてそのことが怖い。
macskaさんの記事は、クリス・ヘッジズという人の書いた『I Don't Believe In Atheists (わたしは無神論者を信じない)』という本が、「新しい無神論者」が「理性や科学を教典の代わりとしてを持ち出す」ことは、宗教の原理主義のやっていることとあんまり違わない、それに「新しい無神論者」の見方は狭い(左記、要約というかパラフレーズは私による)、といった批判をしている、ということと、それがatheistのグループで、最初は「拒絶」にあい、それからある人の発言をきっかけとして「ヘッジズに肯定的な意見も出てきた」のだという報告で締めくくられている。ブログ記事のタイトルにある「ほんの少しの希望」とは、そのことを指す。
その「ほんの少しの希望」に、期待をかけるしかないのだろう。
最後に恒例のお茶ふきタイム。「対テロ戦争」支持というか、「イスラム原理主義は宗教ベースだから絶対悪」論者のサム・ハリスは(←すごく乱暴な書き方をしています)、「仏教など東洋の宗教に妙に寛容」で、チベットを、「帝国主義がテロリズムを生み出したという主張への反証(チベット仏教は平和的だから無差別テロを起こさない、イスラム教は邪悪なのでテロリズムを起こす)として挙げている」のだそうだ。
実際、「仏教は本質的にピースフルだから、暴動を起こすなんてありえない」という思い込みは、さほど珍しいものではない。でもその思い込みを自論の補強のために使って本を書いちゃう人はどちらかというと珍しいかもしれない(ブログなど個人が思ったことをそのまま書いてOKの媒体では、珍しくはないのだが)。
そういう人にもし会ったら、日本の16世紀の「僧兵」のこととか、一向一揆のこととか、ちょっとだけ教えてあげるのが、世界のためになるかもしれない。ってか日本で生まれ育って日本で教育を受けてきた人でさえ「日本には十字軍みたいな戦闘的宗教ってないよね」と真顔で言ってて、困惑したことあるけど、私は。
キリスト教のfundamentalismとは、直接の語源的には刊行物の名称であるが、そもそも「ものすごくガチな信仰」(<こういう文脈のときに、定義もしないでこういう言い方をすべきでないかもしれませんが、ちょっと省力化させてください)のことを言う。起源は18世紀、基本的には反啓蒙主義、つまり反フランス革命な感じ。お手軽なところでウィキペディア参照:
http://en.wikipedia.org/wiki/Fundamentalist_Christianity
Key figures included John Wesley, Anglican priest and originator of the Methodist movement; Jonathan Edwards, American Puritan preacher/theologian; George Whitefield, Anglican priest and chaplain to Selina Hastings, Countess of Huntingdon, founder of many revivalist chapels and promoter of associated causes; Robert Raikes, who established the first Sunday school to prevent children in the slums entering a life of crime; popular hymn writer Charles Wesley, and American Methodist bishop, Francis Asbury.
There was no single founder of fundamentalism. Americans Dwight L. Moody (1837 - 1899), Arthur Tappan Pierson and British preacher and father of dispensationalism John Nelson Darby (1800 - 1882), among others, propounded ideas and themes carried into fundamentalist Christianity.
The term fundamentalist, in the context of this article, derives from a series of (originally) twelve volumes entitled The Fundamentals: A Testimony To The Truth. Among this publication's 94 essays, 27 of them objected to higher criticism of the Bible, by far the largest number addressing any one topic. The essays were written by 64 British and American conservative Protestant theologians between 1910 and 1915. Using a $250,000 grant from Lyman Stewart, the head of the Union Oil Company of California, about three million sets of these books were distributed to English-speaking Protestant church workers throughout the world.
ちなみに、上記文中に出てくるJohn Nelson Darbyは、アングロ・アイリッシュ(アイルランドの不在地主)の家の人で、近現代のDispensationalismの始祖とされる。
http://en.wikipedia.org/wiki/John_Nelson_Darby
「イスラム原理主義」の「原理主義」はこの「キリスト教原理主義」から転用されたもの。
「キリスト教原理主義」の一例として、北アイルランドのフリー・プレスビテリアン・チャーチがある。20世紀半ばに、イアン・ペイズリーによって設立されたこの新興の教会は、聖書はそのま事実だと信じ、進化論は否定し、婚姻を絶対的な何かと位置づけ、同性愛を排斥し……といったことのほかに、「個人と神との関係」というプロテスタントにとって最も重要な価値観が「カトリック」に対する敵視という形で現れている。最も有名なのは、イアン・ペイズリーが、「(カトリック教会の)教皇はアンチ・クライストだ!」と言い放ったことだろう。
で、英国ってのは宗教的バックグラウンドがかなり複雑で――概して「宗教には無頓着」なアングリカンが多いブリテン島にもいろいろとファンダメさんなプロテスタントの宗教組織はあるし、もちろんカトリック教会もあるし、ブレア労働党のbabes(女性議員)のひとりのルース・ケリーにいたっては、Opus Deiのメンバーだ――、そういう「英国」のコンテクストの上に成立しているドーキンスの本をそのまま米国に入れちゃうと、ヒッチェンスと同列っすか、というのもかなりツボったというか、後頭部にずきんと来る話だった。
なお、余談だが、ドーキンスの『神は幻想である』への批判として、macskaさんの記事に書かれているような点は、英メディアなどでもよく見るものである。具体的にどういうものかは、ウィキペディアでもだいたいは確認できる。
http://en.wikipedia.org/wiki/The_God_Delusion#Critical_reception
またこのコンテクストで重要なのは、ドーキンスがどう書いているかということよりも、それが「米国社会」でどう受け止められているか、ということだろう。どう「誤読」されているか、どう「深読み」されているか、どう「利用」されているかも含めて。
で、「誤読」とか「深読み」の可能性は、社会的な、政治的な、文化的なことについて発言する場合、事前に完全に排除しておくのは不可能といってよい。そして、その「誤読」なり「深読み」なり「利用」なりが、元のテクストをその人なりに誠実に読んだ人によって為されているものかどうかは、その書き手を信頼するしかない。軽めの読み物などでは読みもしないで言いたいことを言ってる「エセ書評」もあるだろうし、誰かが何か政治的な目的で述べることは、都合のよいところを切り出しただけだったりするが。(そういえば、マイケル・ムーアが、The WhoのWon't Get Fooled Againについて、歌詞をちゃんと読んでいたらできないような「楽曲の利用許諾」を、The Whoに求めたりしていた。あれはひどかった。)
なお、macskaさんはatheismについて「本来の定義は……『神が存在するという信仰を持たない』こと」だと指摘しつつ、日本語の「無宗教」という語では atheismの持つ「熱気」を伝わらないとして、「無神論」という語を使われている。この点についてのこういう地道な明確化の作業は、実はとても重要なことだと私は思う。
というか、日本では、agnosticを「無神論の」とするという変な「翻訳」が少なくない。agnosticは「無神論」じゃなく「不可知論」だというに……。最近読んだので覚えているのは、キリアン・マーフィーのインタビュー。彼は「不可知論者」だと語っているのに、I am agnostic. が「僕は無神論者だ」と訳出されていて、せっかくのインタビューがグダグダになっていた(日本語で読む限りは)。(念のため書き添えておくと、私はキリスト教徒ではなく、キリスト教を「否定」する立場でもない。)
そういえば、昔、「ポリティカル・コンパス」がはやり出したときに、米国版の設問のままでやってみて、atheistと判定されて爆笑したことがあったな……「宗教とは人間が発明したものである」とか、「神の存在は証明されている」とかいった設問に、「仏教徒にどう答えろというのだろう」と思いながら本心で答えていっただけなのだが。(尺度的にあまりに一面的なあれが「政治的立場」の基準となっているのは、いいアメリカン・ジョークだと思った。なお、日本語版の「ポリティカル・コンパス」はそういうところは修正されている。)
macskaさんのはてなダイアリに、私のはてなブックマークのコメント欄へのレスをいただいている。
http://d.hatena.ne.jp/macska/20080426/p2
2008年04月26日 nofrills 【ブックマープの整理上のタグを省略】 USのfundamental atheism(原理主義的無神論)について。「用語」だったのかということと(UKメディアだけ読んでるとそこがわからなかった)、宗教の否定=非宗教ではなく反宗教(宗教を信じる奴は馬鹿、的な)という現れ方。要再読
「原理主義的無神論」は「用語」というか単に比喩的な言い方でしょう。もともと「キリスト教原理主義」は自称ですが、イスラム教では「原理主義」という言い方はしないようですし… それから、もちろん「非宗教」の意味で atheist の人だって大勢いると思いますよ。ただ、そういう人はおそらく無神論者の集会に出たり本を書いたりする動機を持たないので、結果的に目立つのは「新しい無神論者」たちなのです。
まず、「用語」と書いたのは、単にブクマコメが100字しか書けないからというのが実際的な要因ですが(上記のコメントで100字ちょうどです)、そしてそれは「比喩的な言い方」といってもよいのかもしれませんが、それが単なる「比喩」ではなくなっているのは事実だと思います――ネット上で英文で「いわゆる『原理主義的無神論』がどうのこうの」という記述を見ますが(二重引用符で示される「いわゆる」、ないしso-calledなど)、「いわゆる」がついた時点で、「比喩」というより、もっと明確な方向性のある「用語」のようなものになる。また、ただでさえ「原理主義 fundamentalism/fundamentalist」という語のインパクトは強い。それをあえて二重引用符内で使うことの意図について、「比喩的な言い方をしたかったから」と解釈して済ましてしまうのでは、翻訳をやってる者としてはちょっと怠惰かな、と。また、こういった類のいわば「インパクトの強い文言」を用いて「印象」に働きかけるエクリチュールもいろいろとあります。UKのメディアを(全部ではないにしろ)見ていて、私はそう感じています。その観点から、記事を再読するためにブックマークし、私が関心を持ったところをメモしました。
「キリスト教原理主義」、「イスラム教原理主義」については、このエントリの本文中に書いたとおりです。
キリスト教のファンダメンタリズムについては、「自称」というのはやや微妙な(=解釈の揺れが大きすぎる)表現かもしれません。個人的には、ネットなどではキリスト教のfundamentalismのことは「ファンダメンタリズム(原理主義)」と書くか、特に北アイルランドの文脈では(何度も入力するのはめんどうなので、個人的な場では)「ファンダメさん」などと書いています(「ベルファスト・テレグラフ」がここでは「ベルテレさん」だったりするのと同様に「〜さん」を使っています)。それはそれでどうよ、というのは自分でもあるんですが、ただ「原理主義」とするよりもしっくり来ますし、対象も明確化される(余計なイメージがない)のではないかと思っています。(で、キリスト教の用語ではfundamentalismは「根本主義」が本来ですので、キリスト教の文脈での話ではなるべく「根本〜」を使うようにしていたりもします。)
また、もしもですが、ブクマのコメント欄から、私が「atheistは100パーセント、例外なく、『非宗教』ではなくて『反宗教』なのだ」と考えているように読めているとしたら、それは与えられたスペースがたった100字だからにすぎません。私のブクマコメントは、ブクマページの一番上のスペースに書いてあるとおり、基本的には「自分用のメモ」であり、自分がその文章のどこにどう関心を持ったかをメモっているだけです。(ただ、あまり好き勝手に書き散らかさないようにはしているつもりですが。)元の文章の筆者さんにお伝えしたいことがある場合には、コメントかトラバでお伝えするようにしております。
閑話休題。「非宗教」なatheistは存在するが、目立たない、という点はまったく同意します。しかし、外からメディアを介してしか見られない場合、実際に「影響力を有している」(ように見える)のは、「反宗教」のatheistの方々です。そして、1999年のコソヴォ紛争で「人道的軍事介入」というレトリックがわーっと支持されたことを知っている身としては、それが非常に恐ろしい。2003年の、「イラクの大量破壊兵器」論のような中身のないものでさえ、あれだけ「支持」されたのです。その記憶が生々しく残っている。「消極的ななんとか支持論」が、「積極的ななんとか支持論」に飲み込まれ、雪崩のように事態が動くことを警戒しておくことは、意味のないことではないと思います。
そして、non-something/un-somethingをanti-somethingに置き換えるレトリックが、これからますます人々を幻惑するようになるのではないかと私は思っています。なぜならばそれらは「とてもわかりやすい」ので。そして、次が民主党であれ共和党であれ、ブッシュの "Either you are with us, or you are with terrorists" の「わかりやすさ」は過去のものになるだろうけれども、それに代わって別の「わかりやすい何か」が出てくる/出されると思うので。(むろん、今のあれが即ちに「反宗教」に代わるとは思いませんが、atheistたちの「反宗教」を「反イスラム」にサシカエて利用することは、非常に簡単です。)
その後・・・いろいろとぐちゃっとした感じになってきているっぽい。
傍観していて、いろいろ言いたいことはあるが書きたいほどではない。むしろ、どうでもいい。言うのもかったるい。まず、互いに自分の言いたいことがかみ合ってないのと、言葉の選び方がかみ合ってないなあという気がする。
いずれにせよ、宗教と科学の関係なんてのは19世紀後半からさんざん議論されてきたことであり、論点の明確化にはback to the basicsするのが一番だと思うのだが。カーライルとかアーノルドとかスペンサーとか、それらを取り巻く言論、特に不可知論の方面、宗教の立場でオックスフォード運動、など(そういう地盤に、オクスフォード博物館のようなキメラ的ディテールにあふれた建物が可能になったわけで)。ラスキンでも何かあったな……『胡麻と百合』だったか(正確なところは忘れた)。あと、USよりUKでみたほうがわかりやすい。侵略者としての自己を肯定しなければならないUSは、いろいろと特殊な事情があってバイアスきついから。
それと、最近のものではテリー・イーグルトンの「神様」論、特に「ジーザスは革命家か」という議論。私も新聞に載ってた抜粋くらいしか読んでいないけれども、半分もついていけないけどおもしろかった。
このへんにいろいろ書いてあるっぽい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Relationship_between_religion_and_science
http://en.wikipedia.org/wiki/Mammon
























僕は宗教以外の文脈でfundamentalismの語を用いることにあまり違和感がなかったので(market fundamentalismとか)、fundamental atheismを変だと思える感性に刺激を受けました。wikipediaで宗教由来&宗教に関する利用が大半との記述を読み、まあ、そうだよな、と納得しています。
個人的には「宗教」と「首尾一貫した信念体系」の違いを何に求めるのかが重要なのだと思います。僕はあまり大きな違いを認めていないので、特に「宗教」を蔑視していませんし、ぶっちゃけatheismも宗教のようなものだと思っています。
「相対主義は主義なのか」という命題をもてあそぶことがあります。「『絶対的に正しい真理』などというものは存在しない」という命題の絶対的な正しさを認めるか否か。このお話と似ているような気がします。
畢竟、他者への寛容が大事である……と思いつつも、その「寛容性」押しつけるのは不寛容なのか、などと考え出してしまい、きりがありません(笑)。
「ポリティカル・コンパス」をあのまま日本人がやるとたいていリベラル左翼になってしまうという事実もあの国の現状を的確に指摘しているようで、これは笑っていいところなのかもうよくわかりませんよ。
どうもですー。ちなみに私の米国版ポリティカル・コンパスの結果は、勝手に楽曲にたとえれば、「アーイ・アム・アン・アナーカーイスト(中略)デーストローイ」、という点で、あまりに予想通りで笑いました。
私自身も「なんちゃって仏教徒」です。人(や犬や猫や…)が亡くなれば合掌し、何となくお祈りしますが、それは単なる習慣なのか、信仰なのかと問われたら、習慣だろうなあ、という感じです。お経も上げられないし、お数珠の扱い方も怪しい。
こんななのに、無謀にも「キリスト教における寛容」を考えようとすれば、それは挫折もしますよね、と言い訳。実際、「寛容」について考え始めるとドツボにはまって出られなくなります。
なお、fundamentalismについては、先に宗教の方を知っていたので(「キリスト教史」とかで)、「市場原理主義」とかの「原理主義」が「比喩的な表現」に見えて仕方がありません。タツヤさんと逆、といえるのかな。おもしろいものですね。
息子(12歳)の学校(いちおう英国国教会系、しかし、オールフェイスウェルカムでムスリムもシークもいる)では(と言うか、イギリス中ほとんどそうだと思いますが)、宗教学(哲学)の授業が週に一回あって、9月からずっとイスラムの勉強をしておりまっせ。かれは誰の影響か神様懐疑主義者で、信心深いアイリッシュの先生が5年間担任だったせいかもしれませんが、神様関係の議論になるとからむ、からむ。今の学校では先生も生徒も神様関係の議論をみな喜んで時間がある限り続けてくれるので、かれは楽しそうです。最近かれはアミノ酸について読んだので、これにからむ神様ばなしがいまのテーマのようです。
私自身は無宗教だと自認していますが、いまの世界を作ったなんらかの意思と言うか設計図というかの存在あるいは概念を認めないでもない。しいて言えばアニムズムというか、リサイクル主義というか、死んだら焼いて灰にしたりせずに土葬になって虫のごはんにしてちょうだい、と息子にはお願いしています。自分ちの庭に埋めてもらってもいいのかなあ。
無駄話、ご容赦。
日本で最も理解されていないことのひとつは、実は、「哲学」と「宗教学」の関連だったりします。むろん、大学の一般教養で「哲学」という科目をやっていれば別でしょうけれども。
で、コギト・エルゴ・スム以降の大きな流れとか、「王権神授説」対「主権在民や共和主義」の流れとかが、前提として共有されていないところで、「科学か宗教か」みたいな話が進んじゃったりするとカオス。
さらにイスラームの、「宗教」と「法」と「政治」の境界線がほとんど見えないようなあり方も「宗教」ということばで語るしかないので、もっとカオス。(まあ、イスラームをめぐるカオスは、日本でよりむしろ、キリスト教文化圏でものすごいことになっているのだと思いますが。日本では紋切り型はあってもシリアスな議論はほとんどないようなもので。)
なお、制度としての「宗教」と、日常生活にあるようなアニミズムやそれが洗練されてひとつの様式・習慣・習俗になったもの(節分に鰯の頭、みたいなのも含めて)は別だと思います。それと生態系も別。
というか、生態系のありかたをみて「何かの存在」を考えたのは人間であり、その意味でイリュージョンとしての「神」は「存在」するだろうし、そういう意味ではliberal artsは「神」を「否定」し尽くすことはできないと思うし、「否定」そのものが目的になっても変だと思う。
逆に、それを肯定するために何かのテクストを読みたいように読んだり、「科学的」な事実や発見を否定したり(young earth論みたいなの)というのも変。
で、本気で考えたいのなら、ドーキンス(ちょっとノイズが多い)とかじゃなく、ニーチェが「神は死んだ」と書く前の「西洋」のliberal artsの遺産(ヴォルテールなど)、宗教改革(プロテスタント成立)の前の「人文主義 Humaniste」の遺産(エラスムスなど)をこそ読むべきではないかと思うんですが、結局、ドーキンスの歯切れのよい否定で満足しちゃうこともあるのかな、と。
でも実際私は、宗教論議にはさほど興味はありません。「神は事実として存在する」と信じている人たちが、人を殺す行為を正当化するために利用しているからといって「宗教」を「否定」したところで、「宗教がなければ戦争やテロはない」なんてことはないので。
「Aであるか非/反Aであるか」の二項対立をつくり、それをそのまま「悪であるか善であるか」に置き換えるという思考で、世界を(科学的に)説明できる、あるいは説明したいと思うこと、それには少しは関心はありますが、それにコミットする能力はなかったり。
単に「理性」を肯定していればいいのに、「宗教/神」の否定というものがセットになってくるなんて、キリスト教世界は大変なのだなあ、という具合で他人事として傍観しているだけです。