kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年03月08日

UDAとアイアン・メイデンとキング・ビリーとベルファストの壁

ベルファストにあるUDA/UFFの壁画のなかでも最も「有名」なものが消されることになった。といっても、今の壁画を塗りつぶして、上にキング・ビリー(ウイリアム3世:オレンジ公ウイリアム)の肖像を描くことになったというのだから、何というかその、あんまり違わないというか、今日はお豆腐がないから厚揚げにしましょうみたいな話というか。

UDA says 'OK' to King William
By Paddy O'Flaherty
BBC News
Last Updated: Friday, 7 March 2008, 12:20 GMT
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/7282868.stm

この壁画の場所はTavanagh Streetで、描かれたのは10年前(ということは、各武装組織が停戦してグッドフライデー合意の署名が目前に迫っていたころなのだが)。この通りの名前で検索すると、1989年に撮影された、88年のミルタウン墓地襲撃事件のマイケル・ストーンを讃える壁画(←リンク先、Professor F. C. McGrathのNorthern Ireland: History, Culture & Conflictの一部)が出てきたりするが、要するに、ばりっばりのUDA/UFF地域である。

で、今回「消される」ことになった壁画は、BBC記事に貼られている画像の下にある Enlarge Image をクリックすると全体像が見えるのだが、元ネタは誰がどう見てもエディで、つまりアイアン・メイデンのジャケである。(正面から撮影された写真は、CAINにあるDr Jonathan McCormick のMural Directoryにあります。)

Trooper

壁画の元がなぜアイアン・メイデンなのかは、The Trooperというタイトルが関係しているのだろうと何となく推測できるほかには私はまったく知らないのだが(というより、私は80年代のメタルにはなじみがないので、アイアン・メイデンについてほとんど何も知らないに等しい)、ロイヤリストといえばヘビメタ(「メタル」というより「ヘビメタ」)というイメージがあったことは、どこかで見たパロディ文書で知ってはいる。(一方のリパブリカンのステレオタイプは、ウルフ・トーンズだったように記憶している。)

で、アイアン・メイデンのジャケのエディはユニオンフラッグを持っているが、UDA/UFFの壁画のエディ(らしきもの)は、これはAK47ですかね、よくわかんないけど武器を持っている。なぜユニオンフラッグごと写していないのかはわからない。オリジナルが右手にサーベル、左手に旗なんだから、右手にカラシニコフ、左手に旗でもよさそうなのだが。・・・んなことはどうでもいい。

ともあれ、BBCの記事によると、10年前に描かれたこのミュラルは、今回、この地域の「イメージ一新 reimaging」計画の総予算£3mのうち、£18,000を使って、キング・ビリーのものに描きかえられる。このための当局(たぶん、the Greater Village Regeneration Trust)とUDAとの交渉は5年前から始まっており……えええーー、ちょっと待てよ、「今のはちょっとあまりにアレだから、キング・ビリーにしましょ」って結論までに5年もかかったのかよ。どうせ、「ストーモントのロングギャラリーでマレード・ファレル追悼か、SAS顕彰か」みたいな tit-for-tat、つまり「リパブリカンの壁画は消されないのにどうして俺らのだけ」みたいなのがあったのだろうけれど、5年間話し合った結論がキング・ビリー!

the Greater Village Regeneration Trustのチーフであるポーラ・ブラッドショウさんは、「これまでずっと返事はノーだったのですが、この12ヶ月で信頼が構築され、アーツ・カウンシルから費用をいただいたことでUDAとの交渉が実現し、今回はイエスという返事をもらえたのです」と言っている。うーん、背後にあるのは意地とカネか。

というわけで、結局、今の「ものすごく攻撃的にセクタリアン」な壁画が、公のカネを使って、「セクタリアン」なものに描きかえられる、と。(カトリックはキング・ビリーを「自分たちの一部」とは感じない。)

費用は社会開発庁(the Department of Social Development)のもので、アーツ・カウンシルが配分を行なうが、そのカウンシルのトップのRoisín McDonoughは、今のアイアン・メイデン壁画について "divisive and offensive" なものだと述べているのだけれど、リニューアルした後がキング・ビリーってことで、少なくともoffensiveではなくなる、ということだろうか。divisiveであることは変わらないと思うのだが。でも彼女は、この描きかえを「転換のプロセスにおける大きな一歩 a huge first step in a very positive transformation process」だと述べている。

そうだ、これはConflict Transformationなんだ。Conflict Resolutionではなく。

アーツ・カウンシルのRoisín McDonoughは(ゲール語系の名前から判断して「プロテスタント」とは考えづらいのだが)、「キング・ビリーの肖像になるというのは、triumphalismではありません。キング・ビリーはこの地域の人たちにとっては offensive ではなく、人々のオレンジの文化的伝統の一部で正当なものです」と語り、「最も重要なのは、これで北アイルランドで最もおどろおどろしい壁画が消えるということです」と述べている。

「文化的」ななんちゃらがどう、という話になれば、あの壁画の元がアイアン・メイデンだということはどうなるのだろう。あの地域の人たちがみんなそろってアイアン・メイデンのファンだったら? とかくだらないことを考えてるなあ、私も。

さて、このような「ロイヤリストのコミュニティ」における「紛争後」ということでは、2008年2月に、一橋大学21世紀COEプログラム「ヨーロッパの革新的研究拠点:衝突と和解」で尹慧瑛さん(『暴力と和解のあいだ 北アイルランド紛争を生きる人びと』の著者さん)が発表されている文章は必読だ。

尹慧瑛、「暴力と和解のあいだ-あるコミュニティ活動家のライフ・ヒストリーを通して- 」
http://cner.law.hit-u.ac.jp/discussionpapers-ja/cnerpaperreference.2008-02-03.9984585664/view
※PDFで全文がDLできるようになっている。

1949年に東ベルファストの「プロテスタント」の労働者階級のコミュニティに生まれたマイケル・ホールさんという方が、「紛争」の中でどのような人生を歩んできたかについてが中心の文章だ。本文部分は10ページ。とても内容が濃い。(また、「プロテスタント」の側で左翼的な立場で活動してきた人についての文章で日本語で手軽に読めるものは、尹さんのお仕事を除いてはほとんどないのではないかと思う。)

ホールさんの家はオレンジ・オーダーでBスペシャルズという家だったけれども、親が子供に「カトリックとは異なる、プロテスタントらしさ」を教え込んだりはしてこなかったそうだが、家の外で彼は「それ」に直面する。そして60年代末、クイーンズ大学でPD(ピープルズ・デモクラシー:デリーのブラッディ・サンデーのときのデモなども参照)に参加し、基本的には「社会主義者」だったのだが「国家」前提のあり方ではどうも、というわけでアナキズム(リバタリアン社会主義)のほうに行き、「暴徒」として「鎮圧」されたりもし、そして「残忍な暴力とセクタリアニズムが蔓延すうなかで、この状況を打ち破るために何ができるかを考え」(上記PDF, 5ページ)、ポスターやパンフレットで人々に呼びかけようと奮闘し、そして武装組織に妨害され、自分の「ナイーヴ」さを思い知らされ、1974年に北アイルランドを離れてオランダに移住、やがてトルコ、アフガニスタン、ネパール、スリランカ、日本、オーストラリアなどを巡り、ベルファストに戻ったあとはクイーンズ大学でソーシャルワークの学位をとって児童虐待防止協会でソーシャルワーカーとして仕事を始め、その後、コミュニティワークに取り掛かった、という。

そしてコミュニティワークをしていく中で、
 ロイヤリストたち、とりわけUDAの指導者たちと意見を交わす過程で、ホールはプロテスタント労働者階級において、より多くの緊張と矛盾があることを改めて認識することになった。殺人者や偏狭頑迷な者もいれば、新しい社会の実現と、カトリックという隣人との共存を心から願う人格者もいる。極右的な政治思想を持つ者がいる一方で、ベルファストにおける労働運動の長い伝統を受け継いできた者もいる。彼らこそ、困惑し、裏切られ、怒り、憎しみの感情にとらわれた人びとであったと同時に、理想主義者で進歩主義者でもあたのだ、とホールは感じたのだ。
 最も逆説的なのは、こうした緊張と矛盾が、公の場ではほとんど覆い隠されてきただけでなく、プロテスタント・コミュニティの内部においても、まったくないかのように振るまわれてきたことである。……

op cit., p. 8


この「緊張を矛盾」を「ドラマ」として見せてくれたのが、2月のNI映画祭で見た『眠れる野獣』なのだが、長くなるのでその話は次のエントリに。
http://www.niff.jp/how%20beast.htm

※この記事は

2008年03月08日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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