kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2008年02月13日

「軍用トラックから降りた兵士たちがデモ隊に向けて発砲を始めた」

マーゴ・ハーキンさんの映画を見たことで、ブラディ・サンデーについてあれこれと読んでいるのだが、今日のニュースでとてもそっくりだなあと思ったものがあるので記事クリップのメモ。

昨年9月、ビルマのラングーンでのデモで、軍隊からデモ隊に対する発砲があり、日本人ジャーナリストの長井健司さん(→カメラは返していただきましょう)を含め何人もが殺された事件について、その場にいた人の証言が新たに出たとの毎日新聞さんの報道。

<ミャンマー>僧侶が証言「1mで狙い撃ち」長井さん射殺で
2月13日2時30分配信 毎日新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080213-00000010-mai-soci
 デモ隊は約200メートル進んだ地点で治安部隊によって止められ、軍用トラックから降りた兵士たちがデモ隊に向けて発砲を始めた。撮影を続けていた男性に対し、駆け寄ってきた兵士が約1メートルの距離から発砲。続いて4人の兵士があおむけに倒れた男性の手足を持って連れ去った。男性はカメラを手に持ったままの状態だったという。

 ケーサーインザさんは約5メートル離れた場所から目撃しており「兵士は明らかに男性を狙って撃った」と明言した。その後の海外メディアの報道で男性が長井さんと知ったという。

※引用文中の太字は引用者による。

このように証言した「ケーサーインザさん」は、ヤンゴンの僧侶で、あの事件のあと、10月にタイに逃れた。記事の後のほうには、デモを行なったこと自体に後悔はないが、「あの場所でデモをしていなければ長井さんが亡くなることはなかったと思うと痛ましい気持ちだ」とのコメントもある。

1972年の報道で、デリーでデモを行なったことについてデモを組織した人たち(NICRA)を非難する生々しい言説を読んだところだからか、こういうコメントを書き留めておきたいと思う。

もう1件、メモのついでに。

たまたま、ウィキペディアのエントリからたどって2007年7月のバーナデット・デヴリンのインタビュー(インディペンデント掲載)の冒頭部分を読んでいたときに、ニュースでバラク・オバマが「変化、変化」の連呼といっても過言ではないスピーチをしていて、1969年に21歳で英国下院議員(最年少記録)となった彼女は、女性で「ホワイト・ニグロ」で、わずか21歳だったんだよなぁとか漠然と思う。「女性か黒人か」の今の米大統領候補選びより、1969年の北アイルランドのほうがある意味で「進んで」いたのかもしれないなあ、とか。

マーゴ・ハーキンは、1972年1月30日、デモ行進が「いつものように」騒然としてきたときに(デモ隊からの投石、軍からの放水やCSガスは「いつものこと」だった、と彼女は語った)、いったんデモ隊を離れて銃撃現場脇の団地(親戚の家か何か:詳細は私が勝手に失念)に行き、それから予定通りにフリー・デリー・コーナーでのデヴリンのスピーチを聞きに行こうとしていた、という。

(当時20歳とかで、デモに参加していた人たち、特に女の子たちにとって、バーナデット・デヴリンはどれだけ輝いている存在だっただろう。)


※この記事は

2008年02月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:58 | Comment(2) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
 そのビルマですが,何やら国境付近でも始まりましたよ.

カレン民族同盟の書記長が暗殺、ターク県内で
http://thaina.seesaa.net/article/84039302.html

タークと接するミャンマー領内で大規模な戦闘
http://thaina.seesaa.net/article/84117560.html
Posted by 消印所沢 at 2008年02月15日 22:39
あんまり詳しく見ることができていないのですが、AFPが15日付けで記事にしていました(下記は日本語版)。
http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2351094/2642680

BBCは14日付で。ちょっと微妙な感じがする内容です。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/asia-pacific/7244684.stm
[quote]
Analysts said it was not clear who was behind the shooting.

It might be the result of rivalry within the Karen rebel movement, Burmese expert Aung Naing Oo told the AFP news agency.

Thai police said the gunmen approached Pado Mahn Shar and addressed him in the Karen language before opening fire.

But what the KNU really feared, Aung Naing Oo said, was that the Burmese government might have ordered it.
[/quote]

BBCではその後に解説記事が来るかなと思っているんですが、まだなさそうです。
Posted by nofrills at 2008年02月16日 22:27

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼