kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2007年08月16日

「北アイルランドのカトリックでナショナリストで黒人である」という経験

16日の、BBC Radio 4での "It's My Story: Where Do You Really Come From?" という番組についての紹介記事。プレゼンターは北アイルランドの黒人ジャーナリストだ。(番組は、放送後1週間は上記サイトから聞くことができる。)

Growing up black in Belfast
Last Updated: Wednesday, 15 August 2007, 15:14 GMT 16:14 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6947938.stm

記事についている筆者の写真で、筆者のティム・ブラニガンは、リパブリカンの壁画を背にしている。彼はリパブリカンだ(「活動家」であったのかどうかは定かではないが、少なくとも「シンパ」ではある)。そして彼の肌は黒い。

北アイルランド紛争において、リパブリカンの側は「反植民地主義」、「反人種差別」を掲げていた。背景にはアイリッシュ・カトリックが政治的・法的に差別されてきた歴史があるのだが、彼らは「人種差別」という問題を自分たちにとってだけの問題ととらえてはいなかった。と、ここまでならあえて改めて書くまでもない。

この記事が興味深いのは、その「反人種差別」のコミュニティの中で、ひとりだけ肌の色が違っていた現在41歳のひとりの男性が、そのことをどう語るか、また自身のアイデンティティをどうとらえているか、という点にある。

以下、記事の概要。

※私の個人的な感覚もしくは能力のせいかもしれませんが、原文は代名詞の使い方、叙述の順番など、少し癖のある英文で、「誰が何を」ということがはっきり読み取れていなさそうなところがあります。よって豪快に誤読しているところがあるかもしれません。その場合、ご指摘はコメント欄で。また、この件について興味がおありの方は本稿は参考程度にし、ご自身で必ず原文をご参照ください。


1966年5月10日、ベルファストでひとりの男の子が産声を上げた。しかし周囲には、この子は「死産」であったと伝えられた。母親はカトリックで、未婚だった。

だがこの子が「死産」とされたのは、「不義の子」だったためだけではない。白い肌の母親から生まれた黒い肌の子だったからだ。

男の子の名はティム・ブラニガン(Tim Brannigan)。母親は白人で、当時ベルファストで医学を学んでいた「ハンサムな」ガーナ人と出会って恋に落ちた。母親の友人たちが彼のことを「ニガー」と呼んだとき、母親は友人たちに二本指を突き立ててみせた。

これはおそらく1965年のことだろう。「北アイルランド紛争」が激しくなる前、Provisional IRAがIRAから分派する4年前のこと、つまりProvisional Sinn FeinがSinn Feinから分派する4年前のことだ。カトリックの公民権運動が本格的に始まる前でもある。母親の友人たちがこのガーナ人を「ニガー」と呼び、母親がそのことに不快感をあらわにしていたという記述だけで、「ホワイト・ニガー*註」と呼ばれていたアイリッシュ・カトリックの間にも、黒人への「差別」があったこと、それがほんとはいけないことだという認識がありつつ、何となく許容されてもいた、ということがはっきりとわかる。

母親の家族は敬虔なカトリック信者で、妊娠がわかったときも中絶は選択肢ではなかった。そして彼が生まれて1年後に、母親は子供を家に連れて行く――死産だった子供の代わりに引き取った子として。(彼自身も子供のころに「養子だ」と聞かされていたようだ。)

彼が母親の家に引き取られたとき(1967年)には北アイルランド全体ではまだ「紛争」は本格化はしておらず、「住民同士が対立して居住区域が分かれている」という段階だったのかもしれないが、「黒人」のティムがリパブリカンの地域で育った時期は、ちょうど「北アイルランド紛争」の真っ只中ということになった。

1969年8月、ティムが3歳のとき、デリーの「ボグサイドの戦い」に対処するために英軍が北アイルランドに派遣された(警察の支援のため)。これ以後「北アイルランド紛争」は、「プロテスタント住民とカトリック住民の衝突」という構図を超えて拡大・本格化するのだが、「カトリック」であるばかりでなく「黒人」でもある彼は、幼少期から、英軍のパトロール隊によって人種差別的な扱いを受けることになった。(なお、北アイルランドに入った英軍によるアイリッシュ・カトリックへの人種差別的な態度については、数多くの報告がなされている。)

One of my earliest memories of the "Brits" was a foot patrol of Scottish soldiers shouting terrible racist insults at me with considerable ferocity as I stood in the back garden of my home.

「英国人」についての私の最初の記憶のひとつは、スコットランドの兵士たちについてのものだ。自宅の裏庭に立っていた私に向かって、徒歩でのパトロールに当たっていた兵士たちがひどく差別的な侮辱のことばを、猛烈な勢いで投げかけていった。

このときティムは6歳だったそうだ。ということは1972年か。パトロール隊にいた金髪の女性兵士が彼らを制止し、ごめんなさいねと謝るしぐさをしていったことが今も忘れられないという。

彼の暮らしていた西ベルファストのコミュニティでは、黒人といえば英軍兵士しかいなかった。そして、ティムは肌の色ゆえに英軍から罵声を浴びせられたが、彼のコミュニティの人たち(アイリッシュ)もまた、黒人の英軍兵士のことを「ニガー」とか「クーン」と呼んであざけっていた。

黒人であり「アイリッシュ」である彼は、英軍からは、黒人として、また「アイリッシュ」として、二重に差別されて扱われた。英軍兵士に「本当にアイルランドの人間ならアイルランド訛りでしゃべれるよな」と言われ、実際にしゃべってみせるとバカ受けした。というか、英軍兵士は、「おもしれぇからしゃべらせよぅぜ」的に彼にしゃべることを強要したのだ。ニガーがアイルランド訛りでしゃべるのは、白人のダニエル・カールが山形弁をしゃべるのと同じように「おもしろい」ものだったのだろうが、ダニエル・カールが「テレビタレント」としてウケているのと、ティムがアイルランド訛りでウケているのとは別の次元の話である。

ティーンエイジャーのころ(つまり1980年ごろ)には英軍兵士から何度も身体的暴力を受け、当時付き合っていた彼女は「ニガー好き(nigger lover)」と嘲笑された。

母親は、息子が「黒人だからあんななんだ」と言われないように気を配っていた。3歳のころには庭でおしっこなんかしちゃいけませんと家に引っ張り込み、10代のころにはナイト・クラブでのバイトをやめさせた――トイレ掃除をやらされれば、白人の客から変なふうに笑われるからだ。カトリックのコミュニティの彼が仕事をしていたのだから、カトリックのコミュニティのクラブだろうと思うが、「解放闘争」に心底コミットしている人たちは別として、一般では「珍しいもの」としての包み隠しのない視線があったのかもしれない。

高校を出たティムは、ベルファストを去ってリヴァプール・ポリテクニックで政治学を学ぶことにした。リヴァプールには黒人も多く、Liverpoor FCには黒人プレイヤーもいた。(1987年に契約したこのジョン・バーンズが、Liverpool FC初の黒人プレイヤーだそうだ。)しかし実際にリヴァプールに住んでみると、黒人は居住している区域から外に出ることはめったになく、ほとんど「目に見えない存在」だった。

彼がリヴァプールで学生をしていた1988年3月、ジブラルタルでSASがIRAメンバー3人を射殺し、彼ら3人の葬儀をロイヤリストのガンマン、マイケル・ストーンが襲撃した。この時期を、ティムは、one of its more surreally violent phases(北アイルランド紛争でも最も現実離れし暴力的なフェーズのひとつ)と呼んでいる。そしてそのような中、自身のアイリッシュネスを強調するようになった、という。記事には、"I, meanwhile, began to emphasise my Irishness as the war at home went through one of its more surreally violent phases ..." とあり、これはちょっとわかりづらい記述なのだが、the war at home といった用語から、彼が「リパブリカニズム」および「武装闘争」に多少なりとも傾斜していたことがうかがえる。

1990年に彼はポリテクを卒業し、休暇のつもりでベルファストに戻った。ある晩、ひとりで留守番をしていると、誰かがドアをノックした。それはIRAのメンバー2人で、「武器を1晩預かってほしい」と言って武器を置いていった。そして、情報屋がそのことを警察にタレこんだ。

ティムは武器および爆発物の不法所持で逮捕され、有罪判決を受け、7年間の刑期を宣告された。彼が送られた刑務所はかのロング・ケッシュ(メイズ)で、そこには数百人規模でIRAの服役囚がいたが、黒人は彼ひとりだけだったという。だが刑務所のHブロックは、彼が経験した中でも最も左翼的な環境で(つまり、労働党支持者ばかりのリヴァプールという都市のポリテクニックよりも左翼的だった)、人種差別はまず問題にならなかった。

IRAが停戦し、UDAなども停戦し、「和平」が大きく進展しかけた1994年の翌年、ティムは釈放された。それから彼はメディア業界に進む。基礎研修から始めなければならず、どこまでできるか見通しは立っていなかったが、本人も驚いたことに、釈放から1年ほどでGMTVの北アイルランド支局で地域ニュースを伝えるようになっていた。彼が伝えた最初のニュースは、1996年2月のドックランズ爆弾テロ事件だった。

その後ティムは順調にジャーナリストとして活動し、数年後には、Best New Journalist of the Year(年間最優秀新人ジャーナリスト)にも選ばれた。

母親はそれまでもずっと息子に、「パパを見つけてちょうだい」と言っていた。彼女がティムの父親――ガーナ人の医学生――に出会ったときには彼には妻がおり、ティムが生まれたときには既に彼は自身の妻の元に戻り、「北アイルランド紛争」の初期に北アイルランドを離れていた。ティムがジャーナリストとして成功すると、母親の願いはますます強まった。しかし息子のほうは、生まれてから一度も父親の顔を見たことはなく、自身のことも「アイルランド人」だという意識が強く、まったくやる気がなかった。2004年、母親は癌で他界した。彼が父親探しを始めたのはその後のことだ。

「紛争」、あるいは「戦争 the war」が「IRAの武器放棄」という形でほぼ完全に終結した翌年の2006年に、BBC Radio 4の企画もあって、彼は父親を探し始めた。父親の名字はティムのミドルネームとして与えられており、また出生証明書にも父親の名の記載があった(当時は未婚の場合には父親の名を記載することは法的に認められていなかったにも関わらず)。彼は父親を探し出すことに成功し、2007年7月にガーナで会うことができた。父親とは、今後もまた会って話をすることになるだろう、と彼は書いている。

16日のBBC Radio 4での番組は、彼の父親探しと父親との再会についてのものである。



ティム・ブラニガンの文章には、いろいろなことが示されている。「紛争」前の北アイルランドのこと、「カトリックの規範」のこと、「二級市民」のこと、「人種差別」のこと、「武装闘争」へのシンパシーのこと、など。

私はこのジャーナリストのことを知らなかったので、どういう仕事をしているのかちょっと見てみたくて、名前で検索してみた。

ローズマリー・ネルソン殺害事件について@アイリッシュ・タイムズ:
London officer to restart RUC probe
http://www.irlandinit-hd.de/sub_camp/nelson.htm#London officer to restart RUC probe By Tim Brannigan

音楽関係での仕事:
U2のライヴ・レビュー:
http://www.elevation-tour.com/articledetails73.html

The Adventures (ベルファストのパンク系バンド)のインタビュー:
http://mysite.wanadoo-members.co.uk/theadventures/bio.html

デフ・レパードのインタビュー@アイリッシュ・タイムズ:
http://defleppard.snaggledworks.com/archive/interviews/irishnews.1999-10-28.txt

1997年に、彼についての短編ドキュメンタリーが制作されている。
http://ftvdb.bfi.org.uk/sift/title/580551
A tale of race and republicanism, a short film looking at the search for identity of Black Celts. Tim Brannigan was brought up by his white mother in the Falls Road area of republican West Belfast. He never met his Ghanaian father. The film is Tim's view of what it's like to grow up black in a largely white society.


2000年に「新人ジャーナリスト賞」を受けたときの記事:
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/697971.stm



*1:
white niggerというフレーズは、主に音楽を通じて黒人が「かっこよい」ものと見なされて以後(特にヒップホップ以後)は、「かっこつけて黒人っぽくしたがる白人」という意味で用いられることも多いが、特にアイルランド史においてはそのような意味ではなく、「白人の奴隷」「白人の二級市民」の意味である(シニフィエは主に「アイリッシュ・カトリック」である)ことに留意されたい。

【参考】1969年10月、「ナショナリスト寄り」と見なされたアイリッシュ・タイムズの編集長について、駐アイルランド英国大使が「ホワイト・ニガー」というフレーズを使っていたという証拠の書簡について報じる記事@2005年:
http://www.spinwatch.org/content/view/182/8/
A significant letter dated October 2 1969, was not reported. The letter's author, British Ambassador to Dublin Sir Andrew Gilchrist, reported that Major McDowell called his Editor, the late Douglas Gageby, "a renegade or white nigger" in relation to Gageby's coverage of Northern Ireland. Both McDowell and Gageby were Protestants from Belfast and both were executive directors of the paper.

The full passage from the October 2 1969 letter is as follows:
"McDowell is one of the five (Protestant) owners of the Irish Times, and he and his associates are increasingly concerned about the line the paper is taking under its present (Protestant, Belfast-born) Editor, Gageby, whom he described as a very fine journalist, an excellent man, but on northern question a renegade or white nigger. And apart from Gageby's editorial influence, there is difficulty lower down, whereby sometimes unauthorised items appear and authorised items are left out."

大使の手紙が書かれた1969年10月2日は、NIへの英軍派遣(オペレーション・バナー)が始まってから約1ヵ月半後のことだ。「ナショナリストでもユニオニストでもない、中立の勢力」として入ったはずの英軍の背後、英国の政策を動かす上層部のなかに、アイリッシュ・カトリックに対する憎悪に近い差別感情があったことがはっきりとわかる。アイリッシュ・タイムズの編集長は、「プロテスタントのくせにカトリックの味方をする見下げ果てた奴」として、「レネゲード」とか「ホワイト・ニガー」と呼ばれている。

※この記事は

2007年08月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:57 | Comment(2) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
番組は下記ページで、It's my storyのところでListenをクリック。要RealPlayer。
http://www.bbc.co.uk/radio4/progs/radioplayer_holding.shtml#i

ティム・ブラニガンの英語は非常に聞き取りやすいです(ベルファストのアクセントが、少しはあるけど、かなり薄い)。声質も聞き取りやすい。ただストリームのせいか、ちょっと音がぶつぶつ切れます。あとから聞き直したい場合には、Audacityとか使っておくのがよさそう。
http://audacity.sourceforge.net/?lang=ja

で、ティムが生まれたとき、お母さんも結婚していて、お父さん(医学生)も結婚していて、どっちにも子供がいたそうです。あと、大学に進んだときには彼はシン・フェインのメンバーだったそうです。
Posted by nofrills at 2007年08月19日 13:56
It's my storyの前日のBBC Londonで、彼のinterviewがあり、その中で彼がWhere
are you really fromという本を年末か、来年のあたまに出すというので、探して
いてこのBlogにたどり着きました。 残念ながらまだその本は、でていないようで
す。 このIt's my storyは、再放送をつい最近きいたばかりです。 BBC Londonの
interviewは、里親が里子とは異なるethnical/religional backgroundを持つ養子
に迎えることをテーマにしており(だったと記憶している)、その中でBrannigan氏
が出てきたわけです。 これから多人種国家にならざる終えない日本(と勝手に思っ
ている)にとって、このテーマは非常に興味深く、このWhere are you really
fromという質問は、これから日本で聞かれることが多くなる質問だと思っている。
Posted by fujinaka at 2007年12月24日 14:48

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼