kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年01月30日

1月30日。私が自分の中で、弔鐘を鳴らす日。

毎年のことで、1月30日である。毎年何かしら書いているが、今年も、1972年のあの日にデリーで起きていた出来事を、その時刻(日本との時差は9時間あるので、日本では日付が変わったあとになる)にTwitterで流すよう、botを設定してある。(その前に、30日の午後10時台に「解説」的なものをいくつか流すよう設定した。)それらのツイートは、あとでこのエントリに貼り込むことにしよう。

1972年のデリーでのブラディ・サンデー(血の日曜日)のときだけ、こういうことをしていると、この事件だけを「特別扱い」しているのではないかという気もしてくる。少なくとも、Twitterで私のアカウントを見てくださっている方々にはそう見えるだろう。そして、この事件だけを「特別扱い」することは好ましいことではない。しかし、私が個人的に「北アイルランド紛争」に接した初めてのきっかけが、勉強机の脇に置いたラジオから流れてきたあの曲だったということを、私は個人的に、何度でも確認したい。英語なんか聞き取れるわけもなかったけど、それは伝わってきたのだ。



1972年1月30日、デリーで英軍が非武装のデモ隊に発砲し、13人を撃ち殺した(さらに1人が後日、この日の負傷により亡くなった)。ほどなくして、英軍は「連中は武装しており、軍は攻撃を受けたので反撃した」との虚偽を《真実》として発表し、マスメディアはそれを《事実》として単に垂れ流した。撃ち殺された人たちのご家族・ご友人は、彼らが非武装だったことを知っていた。しかし、「英軍は背中を向けている(逃げようとしている)非武装の一般市民(民間人)に発砲し、撃ち殺した」ということが《事実》であると認められるまで、デリーの人たちは、38年半も待たねばならなかった。

2010年6月15日。1998年に開始が決定され、2000年から4年の歳月をかけて、当時のデモ参加者や英軍兵士を中心に膨大な数の人々の証言を聞き取ったサヴィル卿を長とするインクワイアリ(公聴会)の最終報告書が、予定より何年も遅れて、ようやく公表されたときの、BBC News (Northern Ireland) のウェブページ (via その日の拙ブログ)。



このことについては、毎年この日に、何かしら書いている。

2012年:




2013年(この年は、私は書けない書けないとうんうんうなっている):



2014年。この年も事件再現リアルタイムのツイートをしているのだが、その部分は省略:






2015年。イスイス団関連、特に後藤健二さんと、ヨルダンのカサスベ中尉に関するニュースと同時進行。この日のTLより(ブラディ・サンデーの再現ツイートもしているが、そこは省略):













※このタイミングで、Paper.liにフィヌケン・センターが偶然に入ったのには、びっくりした。





























……書き足します。

※この記事は

2016年01月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:40 | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼