kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年07月07日

「ベストセラー」の論証(不)可能性について、あるいは『大人の国イギリス(以下略)』がバカ売れしたことは「歴史の捏造」ではないという事実

20年以上前になる。「英国本ブーム」というのがあった。

火付け役は林望さんという上品な風貌の書誌学者さんで、ご自身がケンブリッジに滞在したときの体験や見聞を、軽妙かつ上品に綴ったエッセイがバカ売れしたのだ。それまでのステレオタイプを覆すような『イギリスはおいしい』という書名のインパクトも手伝って大ヒットした。新聞でも雑誌でもどこでも、「リンボウ先生」(林望さんの愛称)の顔写真とインタビューや短文を見かけた。『イギリスはおいしい』に続き、『イギリスは愉快だ』という続編も出た。版元は平凡社で、1991年3月と11月に出ている。どういう本なのか知りたい方は、ある個人サイトさんに読書記録が掲示されているのがコンパクトで、余計なノイズがなくてわかりやすいと思う。(というのもこの本、文章は洒脱だし、著者の観察眼は鋭いし、単に「おもしろい」のだが、「調べもせずに適当なことを書いている」状態だったり、今の表現でいうと「話を盛りすぎ」のところがあったりもして、批判が多いのだ。私自身もこの本の批判はかなりしたし、そういう批判はもちろんされるべきだが、そういう批判は、人をそれを読んだだけで本を読んだ気にしてしまうのが困り物である。)

1991年の『イギリスはおいしい』は、「ベストセラー」で、数年後には文庫化もされた……はずだった。しかし「日本著者販促センター」さんがウェブで公開している「1991年 ベストセラー30(平成3年)」には載っていない。では、この本は「ベストセラー」ではなかったのか?

いや、違う。たまたまこのリスト(「総合」で、年間30点のみ)には入っていないだけだ。

このリストに入っているのは、非常に話題になった女優の写真集(複数)、当時ものすごく売れていたマンガ家のエッセイ(複数)、新聞や電車でめちゃくちゃ宣伝しまくっていた「読み出したら止まらない」系の「海外ミステリー」の作家の小説(複数)、新興宗教の信者が大量に買って布教のためにばら撒いていたと個人的に記憶している本(複数)、タレントのエッセイ本(複数)……ほか、テレビ番組の企画の本、テレビによく出ていた霊がなんちゃらという人の本、週刊誌連載で大きな話題となった「社会派」の小説、某国女性工作員として世界的ニュースになった人の手記、などなど。専門性がある程度高そうなホーキング博士の本もある。

では、『イギリスはおいしい』がベストセラーだったという事実はないのだろうか。

あるんだな、これが。

東京堂書店さんのサイトにあるイベント案内のページより:
http://www.tokyodoshoten.co.jp/blog/?p=5796

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本の帯では「名著『イギリスはおいしい』」と表されているが、イベント案内では「今なお読み継がれるベストセラー『イギリスはおいしい』」。東京堂書店さんがそう記述しているのだ。根拠がないことではない。

さて、林望さんの『イギリスはおいしい』で起きた「英国本ブーム」で、うちら「英国好き」は読むものがどっと増えた。林さんのようなアカデミックでどちらかというとお上品な世界(でも「若者がけっこうな長距離を移動するときにしっかりしたカバンの代わりにスーパーのレジ袋を使っている」ような日常だが)とは別の面を詳細に伝えてくれる本も何点も出た。雑誌も「イギリス」を特集する。そのころ、ちょうど「日本における英国年」もあった(「ゆけゆけUK」というキャッチフレーズは覚えているのだが、何年だったかは正確には思い出せないし、今ネットで検索しても見当たらない。「ネットで検索して見当たらない」ものは「ないもの」とされるのが、今の世のおっかないところである)。「英国好き」の友人たちの間では(「英国好き」といっても流派がいろいろあるのだが、私は音楽系で、王室とかお紅茶とかローラ・アシュレイとかではなかった)「買うべき本」も「おもしろい本」も「ダメな本」も「許せないレベルの本」も口コミで広まった。2000年に現地取材を行なってまとめた拙著もそういう流れに位置している。

今、さくっと見られる「ベストセラーのリスト」には載っていないが、たいそう売れた本があって、その後、雨後のたけのこのように同じカテゴリの本が次々と出る(業界的には「そういう系統で、何かないですか」という動きが出る)。そういうことが事実あったのだ。

それを書いておかないといけないような気がすることが、昨日、2015年7月6日にあった。


はてブのページを見てみたら、id:rosechildさんのブログのエントリが上がっていた。そのブックマークコメントの中に「こういうのも一種の『歴史の捏造』だよなあ」という極めて不穏当な一言を見かけて、私は気になったのだ。

はてなブックマーク: 80〜90年代にそんなベストセラーはなかった
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/rosechild/20150704/1436009608


そしてブログを見てみると、「別のブログで『かくかくしかじかの本がベストセラーになっていた』という記述を見かけたが、そのような事実は確認できない」と指摘しているエントリーだった。

ということは、はてブのコメントで「一種の『歴史の捏造』」と言われているのは、「ベストセラーでもないものをベストセラーだと語ること」を言うのだろう。

だが、待て。

元のブログで「ベストセラー」と言われている本を書いた著者のひとりで「英国で貴族と結婚した日本人女性」の著作は、実際に「ベストセラー」だった。神田神保町の大型書店でも、新宿の老舗書店でも、池袋の文化系書店でも(当時はまだジュンク堂はなかった)、うちの駅前の学習参考書とマンガと雑誌がメインの小さな書店でも、どこでも平積み台に位置を得ていた。

でもその「棚」は、それなりの面積のある書店のなかの一角で、そこに寄り付かない人は見ていないから、それが「平積みされていた」ことは知らないといわれたらそれまでだ。私も、その棚の写真を撮っていたわけでもなく示せる証拠はないが、実際にそうだったのだ。その本のおかげで多少なりとも頭の痛い思いをさせられた私は、うらめしや〜という顔をしてその棚を眺めていたに違いない。

その本について、「ベストセラー」であることを示すデータが見つかりませんよ、だからそれは「ベストセラー」ではないのです、と言う人はいるかもしれない。実際、ネットでさくっと検索できるものとして、先ほども参照した日本著者販促センターさんの1992年のベストセラー30点のリストを見ても、その本の名前も、著者の名前もない。

だが、その本は「ベストセラー」だったのだ。こうなると「何を『ベストセラー』と呼ぶか」という問題になるが。実際、「1点1点の本の部数」よりも「後が続いたこと」のインパクトは、この方の場合、大きかったと思う。次から次へとシリーズが出るし「便乗本」も出るから、「最初の一冊」は常に棚にあった。最近の「ケンカン本」ブームで、常に『ケンカン流』が棚にあるのを見ればどういうことかわかるだろう(※「ケンカン」は私の環境では変換されないのでカタカナ。変換されるようにもしたくない。韓国に興味のない私の辞書には要らない言葉だ)。





この "1冊どかんと売れたタイプの「ベストセラー」ではない" はわたしの思い違いかもしれない。実際、『大人の国……』は「どかんと売れた」タイプのようだ。



当時、在英のジャーナリストで日本語メディアの編集長として仕事をしながら「英国本」を何冊か書いていた林信吾さんに、当時「バカ売れしていた(いいかげんな)英国本」を批判した『イギリス・シンドローム』という本(1998年)がある。その内容は:
内容(「MARC」データベースより)

林望さん、マークス寿子さん、ちょっと待って…。次々と出版されるイギリス礼賛本に、これは一種のマインドコントロールなのでは…と思い始めた著者が、イギリス礼賛の姿を借りた日本批判と誤れる英国崇拝をズバリ斬る。


「ものすごく売れてる本」でなければ、こんなふうに名指しで批判はしなかろう。(なお、この本の内容は、Amazonのレビューを見ればだいたいわかると思うが、そもそも林さん、マークスさんの本を読んでない人には「???」な内容かもしれないし、何より「あの時代」の本である。今読む意義があるかどうかというと、たぶんほとんどないと思うが、Kindle版が安く読めるので、興味がある方はどうぞ。紙の本を探すより早いです)

……と言い張っても数字的なことがなければ「勝手に言ってろタコ」かもしれない。でも、数字的なものには私はアクセスできないし、このまま黙っていよう……としたのだが、ふと思いついて古書店検索をしてみた。

古書店のデータには「何年初版、何刷」ということが書かれているはずだ。その刷数が多ければ、仮に「ベストセラーリストに入るような部数はなかった」にしても、少なくとも「爆発的に売れた」、「売れ筋だった」ということはある程度客観的に、誰もが納得するような形で示せるだろう。(刷数の見方がわからないといわれたら、私にはどうすることもできないが……)

古書検索はよく利用している「スーパー源氏」を使う。
http://sgenji.jp/

そこに件の書名を入れる……『大人の国イギリスと子どもの国日本』。11点見つかった。

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詳しく見てみる。

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「1992年12月第13刷」、「初版 21刷(1993年)」、「1997年9月第25刷」、「1992年9月。第5刷」という数値が得られた。

これは、どのような基準で見るにせよ、十分に「(短期間で)バカ売れした本」と呼べる数値である。

それを「ベストセラー」と呼ぶか呼ばないかは、「アイスミルク」を「アイスクリーム」と呼ぶかどうかに類することだろう。私は呼ぶよ、という人がいることは全然問題ない範囲だと思う。(私自身は、文脈によっては「ベストセラー」とは呼ばないだろうが、普通に日常会話なら「ベストセラー」と呼ぶと思う。)ベストセラーにはなるべく多くあってほしい書店や編集ならこれを「ベストセラー扱い」しないのは逆に問題だろう。

むしろ、この本を「ベストセラー」と扱うことを「歴史の捏造」と呼ぶことのほうが問題がある。ウィキペディア的な意味で「検証可能」なものでなければ100パーセント「でっちあげ」、「作り話」、「捏造」である……というわけではないのだ。(そういうところに入り込んでくるから、疑似科学やトンデモは怖いんだよ。)

うちらの日常の言語では、少なくとも、「ベストセラーのリストに載っているものだけをベストセラーと呼ぶ」わけではない。

そもそも、ある出版物が「ベストセラー」なのかどうかを客観的に、誰もが納得するようなデータを添えて論じる(主張する)ことは可能か。

実は厳密には無理である。なぜなら、「ベストセラー」は明確な定義があるものではない(極めて恣意的に定義されている)からだ。

「ベストセラーのリスト」には何種類もある。何年何月のものか、どういう期間のものか、どの業者のものか、ジャンルなどの条件はどうなっているのか……など。「○○賞受賞」は詐称すれば一発で見破られるが、「ベストセラー入り」は仮に詐称されていたところで「あなたのごらんになったリストには入っていないのですが、別のリストには入っています」ということがありうる以上、「ベストセラーであるか、ないか」を問うのではなく「どのようなベストセラーか(いつ、どこで、どのジャンルのものか)」を厳密化するよう求めるくらいのことしかできない。(実際こういう曖昧な「ベストセラー」は、「バイブル商法」などで使われていたと思う。)

何らかの「ベストセラー一覧」に載っていれば文句なく「ベストセラーである」ということは確かにいえるが、それだけだ(「一覧」に載っていないからといって「ベストセラー」ではないと言うことはできない)……ということは業界に関係のある人の間では「言わずもがな」だろうが、一応、ソースを示しておく。

「ベストセラー 定義」のウェブ検索で見つかった(またもや)「日本著者販促センター」さんのサイトより:
http://www.1book.co.jp/000144.html
ベストセラーって何万部からでしょうか?

実は、これには出版業界で決まった定義はありません。本のジャンルによって違いますし書店によっても違います。

例えば、人文書では1万部売れたらベストセラーと言われ、文芸書だと10万部前後……

つまり、出版社や書店さんがここまで売れたらベストセラーという基準をつくっているということになります。


むろん、誰にも反論の余地のない(この場合「誰にも」とは「100人いたら100人全員が」を必ずしも意味しない。「100人中99人」くらいのことで「誰にも〜ない」と言うことは、日常の言語の中にはある)「ベストセラー」は存在する。毎年年末に出てくる「今年の年間ベストセラー」のようなものはそうだろう。

だが、「年間」に残らない「月間」、「週間」の「ベストセラー」もある(さすがに、データとして長期的に残るものでは「日」までは数えないと思うが、書店店頭などの現場では「昨日のベストセラー」もあるだろう)。取次大手の日販のサイトでは、年間ベストセラーのほか、月間週間のリストがあり、それぞれデフォルトでは「総合」の一覧が表示されると思うが、ほかに「単行本フィクション」、「単行本ノンフィクション他」、「単行本実用書」、「新書ノンフィクション」……のように、「ジャンル別」(「ジャンル」というのが日販さんが使っている用語かどうかはちょっとわからないが)のリストもある。

「ジャンル」は「単行本か新書か文庫か」のような形式的な(棚的な)分け方だけでなく、他に、「文芸」、「人文」、「工学」、「医学」、「ビジネス」、「趣味」、「学参」、「資格」のような、大型書店のフロア分けを思わせる分類もある。

それが書店や取次の数だけ存在するのだ。

なので、「この本はベストセラーです」と言う場合、正確に話をしようとすれば、「この本は、○○書店の○○のジャンルの○○年○月の月間ベストセラーのリストに入りました」などと言うことが必要となる。

ある本が「ベストセラーではない」と言う場合は、それら無数にありそうなリストをくまなくチェックして、そのいずれにも掲載されていないことを確認せねばならないことになる。少なくとも理論上は。"「〜ではない」ということが《事実》である" と主張することは難しい(そしてそれは、"「〜である」ということは《事実》ではない" ということとは、実は完全には一致しない)。

が、そもそも巷では(日常の会話のレベルでは)、「ベストセラー」というのはそのような「厳密さ」を要求される語ではない。何となく「みんなが知ってる(知っていそうな)本」、「最近よく売れている本」(あるいは「過去によく売れた本」)、「書店店頭で平積みされている本」など、(不正確かもしれないが)流行っているという《実感》を語る語だ。

そういう曖昧な語を使うべきではないという主張はもちろんありうるし、「曖昧だ」とか「盛りすぎじゃね」と指摘することはどんどんすべきだろう。

しかし、だからといって「嘘」と扱うこと、「そのような事実はなかった」と扱うことは、できないはずだ。うちら、そんなにわかりやすい世界に住んでない。うちらの使う言語は、そんなにわかりやすいものではない。

そういう「曖昧さ」の上でなお、「誰もが認めるベストセラー」はある。こちらの「歴代ベストセラー」の一覧に載っている24冊はその代表例だ。だが、ここに載っていないものでも「誰もが認めるベストセラー」はいくらでもある。「ベストセラー」とは、個別特定の「ベストセラーのリスト」が独占・網羅しているものではない。

例えば、先日亡くなったときに新聞の訃報記事で「この本の著者」的に扱われていたことが多くの人々の膝をカックンさせた赤瀬川源平さんの『老人力』はどうか。サン・テグジュペリの『星の王子さま』や、ミヒャエル・エンデの『モモ』は。それに、あ、このリストには『ノストラダムスの大予言』が入っていない。あと、いろんな意味で私も「ブーム」に(少しは)巻き込まれたことのある『英語は絶対、勉強するな!』もないし、「これが世界一簡単なのだとしたら、英語というのはどんだけ難しいんだ」と知人に言わしめたかわいい装丁の本もない。20年以上前に私の上の世代(バイト先の課長、部長の世代)の人が「いかに自分たちがその本にはまったか」を語っていた「1970年代に若者たちの間でベストセラーとなった」と説明されている本もない。90年代後半にエヴァンゲリオンにはまっていた人たちがにやにやしながら「これ買っちゃったよ」と見せ合いっこしていた何冊もの「エヴァ関連本」(私ははまらなかったので書名は覚えていないが、いかに市場を席巻しているかが日経新聞や日経系の雑誌で特集されてたよね、当時)も入っていない。これら、いずれも、その時代に新聞を読んだり電車に乗って広告を見たり書店に足を運んだりしていた人は、知らない人はいないだろうし、これらの本が「ベストセラー」として扱われていたことを私は覚えている(ただし『星の王子さま』や『モモ』は「ロングセラー」だったかもしれない)。

でも、「ベストセラーのリスト」に入っていないのだ。ネットでお手軽に検索してさくっと見つかる程度のものには。

そして、「ネット」には全ては存在しない。(『大人の国……』の実際の数値などは、「ネットでお手軽に検索」ではないかたちのデータベースなら確認できると思う。)

「ネットde真実」の落とし穴は、「ネットでだけ書かれている珍説・異説」だけではなく、「ネットで見つからない情報」にもあるんだよね。



余談。

「愚痴る上司」の世代の別の人が、「最近の若者は」と嘆くときに、「昔はサルトルがベストセラーになって、みな、わからなかったがとにかく読んでいたものだ」などと語っていたが、1945年から2003年の「ベストセラー」を一覧にしたこちらのリストを見ると、サルトルの本は1946年に『嘔吐』が入っているだけだ。そのころ、その「愚痴る上司」は生まれてなかったんではないか。

実際には、60年代後半から70年代初めにかけての「学生運動」の時代にサルトルがよく読まれていたそうで、「愚痴る上司」はそのころのことを言っていたのだ。だが、ネットで見つかることだけが真実、みたいな傾向が強まれば、「ベストセラーかどうかが確認できないから、その上司氏の述懐は捏造記憶」とかいう方向に行きそうで、私は心底怖いと思っている。



※以上は私の経験をベースにしたものであり、私以外の誰かはその人なりの経験があってその人なりに見てきた世界があるはずだ。本稿で述べたことが「唯一の真実」であると私は主張するつもりはない。「体験談」というのはそういうものだ(その人にとっての真実を言葉にしたものだ)ということは私は20年前から主張しているが、ありとあらゆるテクストが検索可能であることを前提とした「検証可能性」云々の文脈でそういった個人の「体験談」が見られる場合、「唯一の真実」扱いされる可能性もあるので、いわずもがなのことを一応書いておく。




なお、私は「英国好き」で、「海外事情」は英国以外の話題には関心がなく、マークス寿子氏の著作は知っていても、クライン孝子氏(ドイツ)のことはまったく知らなかった。(クライン氏のことを知ったのは2000年代に入ってから、「海外事情」に関心が高い人がメーリングリストに転送してきたどこかのメルマガでだったと思う。)

なので、同じ時代に同じ東京の書店を利用していた人でも「マークス寿子さんという人の本など知らない」ということはありがちだと思う。私自身、「ドイツ」の棚は見ていなかったのだ(「イギリス」の棚に隣接していたことは間違いないのだが)。

書店の棚ってのは、そういうものだ。音楽なら(少なくとも当時は)、テレビの歌番組があったし商店でも有線でヒット曲が流れていたから、興味がなくても「これが流行り」というものは知ってたりしたが(そして小室サウンドが頭をぐるぐるするのだ)、本・雑誌についてはそういうことは起こりにくいものだった。棚の前に足を運ばないと、情報が入ってこないからだ。その上で「注意を向ける」ことが必要になる。

人はどんなに視野が広いつもりでいても、一人で見られることなどごくごく限られている。インターネットはそれをものすごい勢いで拡張してきたから「何だって知ることができる」と錯覚してしまいそうになるが(今だって座って画面を見ているだけで、シリア情勢からギリシャ情勢から、どこぞの動物園のかわいい動物の話題、どこぞのカフェの特別メニューまで次々と入ってくる)、やはり、それでも、関心を持っていないものは目にうつるだけだ(例えば私はクリケットのことは見てはいるが何も注目しないし、覚えてもいない)。

だからこそ、「自分が知らない」ということを「存在しない」に直結させないように意識しておくことは、ネット以前よりも重要になっているような気がしてならない。

「ネットで見つからない」ということは「存在を誰かに納得させられるだけの根拠を持たない」だけで、「存在しない」ということにはならない。

これ、言語ではよくあることですよね。アメリカの黒人の「ゲットー・スピーク」などはまだウェブ上にテクストがあるほうで、それでもなお「検索したって意味がわかんない」ことはある。そういう「独特のしゃべり方」ではないものだって、「確かに誰かがそう言っているのだけど、『その言語でそういう言い方をするという証拠』がほかに見つからない」ということはよくある。

自分で書いた英文の言い回しが通じる(「正しい」)のかどうかが気になったときに、Google検索で完全一致がヒットするかどうかで判断するという方法があるんだけど、仮にヒットしなかったとしても、「そういう言い方は絶対にしない(存在しない)」とは言えない。ただ、「通じないかもしれないから避けたほうが無難」だけどね。

先日の sick note という英語表現だって「辞書ではその表現は確認できない」。でも実際に報道でも個人の発言でも普通に使われてた。そういうことがあるんです。

あとこれ。これは「おお」と思った。


タグ:歴史

※この記事は

2015年07月07日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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