kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2015年07月06日

承前: 映画Hungerについての日本語ウィキペディアのエントリーに大幅に手を入れました。

前項の件、つまり映画Hungerについての日本語版ウィキペディアの件、今の限界までやりました。誰かの書いたものを修正するというのは神経をすり減らす作業で、精神的にくたくたです。〆て作業時間約3時間。どなたか、北アイルランド紛争を「政治」として語ることができてしっかりした知識がおありの方、検証をお願いします。

Was (※内容がデタラメです):


Now (※検証してくださる方、主要なソースはこちらです):


あと、1セクション足しました。この映画はこういう解説がないと「わからない」ようなので。



例えば第一次ハンスト後に「平服」を着てもよいとされたが、それが「自分の服」ではなく「刑務所支給の服」だということでサンズが暴れたところなど、映像をまじめに見てれば彼が「これじゃない」感に包まれているということがわかるはずなんですが、英語圏なら「そういえばあの場面はなんだろう」と思ったときにウェブ検索すれば資料がどかどか出てくるものの、日本語圏は非常に残念なので、こういう「説明」が必要なようです。

つか、本を読みましょう。鈴木良平先生のと堀越智先生のを(公共図書館にあります)。

IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズムIRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム
鈴木 良平

アイルランド独立運動史―シン・フェイン、IRA、農地紛争 北アイルランド紛争の歴史 マイケル・コリンズ 特別編 [DVD] ブラディ・サンデー  スペシャル・エディション [DVD] 物語アイルランドの歴史―欧州連合に賭ける“妖精の国” (中公新書)

by G-Tools

北アイルランド紛争の歴史北アイルランド紛争の歴史
堀越 智

アイルランド独立運動史―シン・フェイン、IRA、農地紛争 IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム 北アイルランド現代史―紛争から和平へ 暴力と和解のあいだ 北アイルランド紛争を生きる人びと マイケル・コリンズ 特別編 [DVD]

by G-Tools


以下、作業についてのあれこれ。ウィキペディアがどんだけめんどくさいか。特に、英語版と日本語版を行ったりきたりするのは、めっちゃ手間がかかります。誰もやりたくないだろうと思います。私もやりたくない。




このブログ・エントリ↑↑を書いたあと、ウィキペディアの「履歴表示」で、問題の記述(デタラメな「あらすじ」)がいつからあるのかを調べてみたところ、何と、項目が立てられたときからのものだと判明。(以下、ツイート内の htn.to のURLは←このURLです。)




最初は「ブランケット・プロテストの説明がむちゃくちゃ」という点や、「同情的な看守がIRAに殺されたので、サンズはこれではいけないと思い、非暴力闘争にめざめたのでした。まる。。。じゃねーよ」という点で「デタラメだから修正しなければ」と思ったんですが、いざ、テクストと向かい合うと、そのレベルじゃなかった……。




「1977年に…剥奪する方針」という読みもできるし、きっとそのつもりなのでしょうが、「方針」を「制定」はしないし、1977年ってのは出てこないと思うんですよ(キャラハン内閣成立の76年ですよね)。




ジェリー・アダムズがIRAのほにゃららであるということを言うときに、必ず言及されますよね、1972年のホワイトロー(保守党のテッド・ヒース政権の北アイルランド担当大臣)主催の極秘会談。



これがそれなんですよ。
In July 1972, William Whitelaw, the British government's Secretary of State for Northern Ireland, granted Special Category Status (SCS) to all prisoners convicted of Troubles-related offences. This had been one of the conditions set by the Provisional IRA when they negotiated a meeting with the British Government to discuss a truce, another being the release of Gerry Adams from internment.

https://en.wikipedia.org/wiki/Special_Category_Status

※英語版ウィキペディアには細かく「ソース」がついてますから、誰でも即座に検証可能です。

ほんで、テッド・ヒース政権での交渉(ホワイトローとIRAとは接触していた)で「リパブリカンの囚人は政治犯待遇」という「特別カテゴリー」が設けられたのだが、その後、1974年の総選挙で政権が労働党(ハロルド・ウィルソン)に交代すると、「政治犯じゃなくて普通の刑法犯」という方針(criminalisationの方針)になり、1976年に(辞任したウィルソンのあとに党首に選ばれ労働党を率い、首相となった)ジェイムズ・キャラハンの内閣でそれが固まった。

ちょうどその時期、元々古い軍施設だったロングケッシュ(メイズ)は、軍施設時代のカマボコ(ニッセンハット)ではなく、鉄筋コンクリートの新しい刑務所棟を建てた。それが形状から「Hブロック」と呼ばれた。カマボコ時代は、刑務所当局からのいやがらせなどはあったけれどもかなり自由に行動できていたが(「刑務所」というより「収容所」の性格もあった)、Hブロックはガチ本物の刑務所で、中に入れられれば「犯罪者」扱いされる。リパブリカンで武装闘争をしている人たちは「これは戦争だ」と思ってるし、「自分たちは戦争捕虜にはなるが、犯罪者にはならない」と思ってるので、そんなの我慢ならない。

それが、1981年のボビー・サンズのハンストへとつながっていく「抵抗」の始まり。

……っていうところから始めなきゃならないんですか、と、こちとらもう (@▽@;) ですがな。元のテクストがなければ「あらすじ」でそんな突っ込んだ話はする必要があるとは思わなかったはず(映画で言及されてないし)。しかし元のテクストに中途半端に、しかも間違って、思い切りはしょった形で書かれてる……。
















……こういったことの検討から、最終的に「あらすじ」のほかに「当時の状況」というセクションを設けることにした。

本当はこんなところに長々と書かず、the 1981 Irish hunger strikeに対応する日本語のウィキペディアのエントリーを立ててそっちにリンクするのが筋なのだが、それ、正直、仕事でもないのにできる作業じゃないですから。。。ウィキペディアなんかどんなに苦労して書いたって、「どうせウィキペディアでしょ」程度にしか見られないし。

なので当座しのぎのようなことだが、ここにセクションを設けて書いておくことにした。が、ウィキペディアンの偉い人が「だめ」と思ったら消されちゃうだろう。

まだ推敲が足りていないし、ウィキペディアで一番めんどくさい「リンク」の作業が適当だが、現状、こういう感じ。

当時の状況

1960年代末に始まった北アイルランド紛争は、70年代を通じて激化していた。北アイルランドは1920年に成立して以来、英国内で自治を行なってきたが、1972年1月30日の血の日曜日事件後に自治は停止され、英国政府の直轄統治とされていた。当時のテッド・ヒース政権 (保守党) のもと紛争状態の解決が模索され、英国政府とIRA暫定派側との交渉の結果、北アイルランド紛争における武装組織の活動に関して逮捕・起訴され有罪となった者には、「特別カテゴリー」 (en:Special Category Status) が認められていた。これは、ロングケッシュ刑務所などに入れられていたリパブリカンの囚人を事実上の戦争捕虜として扱う措置で、囚人たちは刑務所の支給する囚人服を着用する必要はなく、刑務所の労務も行なう必要はなく、同じ組織に属する者たちが一緒に収監されて交流もでき、刑務所外からの訪問や食べ物の小包の差し入れなども、通常の刑法犯とは異なる扱いを受けていた。

1974年、英国の総選挙で労働党のハロルド・ウィルソンが政権を獲得した (2期目) 後、形状から「Hブロック」と呼ばれる新しい棟がメイズ刑務所内に建設されるのに伴い、この「特別カテゴリー」は段階的に廃止されることとなった。そして1976年、ウィルソンの辞任で新たに労働党トップとなったジェームズ・キャラハンの政権が発足してから、実際に「特別カテゴリー」の適用を受けず、囚人服を着用させられる囚人が出た。彼、キーラン・ニュージェント (en:Kieran Nugent) は「囚人服を着せられるなら、裸に毛布をかぶっていた方がましだ」とこれを拒否した。これが既に収監されていた囚人たちの間にも広まったのが、「ブランケット・プロテスト」 (en:Blanket protest) である。

その後も英国政府の態度は軟化することはなく、またメイズ刑務所での看守による囚人への暴行がやむこともなく、囚人たちは次なる抵抗として「ダーティ・プロテスト」 (en:Dirty protest) に打って出た。1978年3月から始まったこの獄中抗議行動は、シャワーやトイレに行くと看守に暴行されることから始まった。囚人たちは房内にシャワーを設置するよう要求したがこれが認められず、抗議行動は次第にエスカレートしていった。房内の壁は囚人たちの排泄物が塗りたくられ、衛生状態は最悪だった。

1979年5月、保守党のマーガレット・サッチャーが政権を取った。1980年1月、囚人たちは「5つの要求」[1]として知られる声明を出した。内容は、「囚人服を着ない権利」、「刑務所作業を行なわない権利」、「他の囚人たちと自由に交流し、教育・娯楽のための活動を組織する権利」、「1週間に1度の面会・手紙・小包の権利」、「抗議行動を通じて失われた刑期短縮の完全回復」である。同年10月、この5点を要求して、ブレンダン・ヒューズ (en:Brendan Hughes) ら7人が一斉にハンスト入りした。これは「第一次ハンスト」(en:1981 Irish hunger strike#First hunger strike)、または「1980年のハンスト」と呼ばれる。同年12月、英国政府からの提案をまとめた文書が作成されたのを受けてこのハンストは打ち切られた。そのときには、「5つの要求」が受け入れられたかに見えたからである。

しかし実際にはそうではなかった。1981年3月、同じ要求を掲げた新たなハンストが、ボビー・サンズ英語: Bobby Sands)をリーダーとして決行された。

本作は、この時期に実際に起きたことを描いた映画である。







「第一次ハンスト」(1980年)のリーダーはブレンダン・ヒューズで、7人が一斉に絶食したんだけど、それはあくまで「交渉」、「譲歩」を実現させるためであって死ぬためではなく、ハンスト参加者の1人が体力的に本当にやばいことになっていく中でのぎりぎりの戦いだったということは、ヒューズ(2008年没)をはじめ、このハンストの参加者が語っているものがある。が、このブレンダン・ヒューズという人が、晩年、ジェリー・アダムズと対立し、アダムズが望まないこと(アダムズにとっていろいろと不利なこと)を語り残していったこともあって「歴史」から消されつつあるのが現状で、ああ北アイルランドこわいこわい。
https://en.wikipedia.org/wiki/1981_Irish_hunger_strike#First_hunger_strike

ほんと、マジでこわいですよ。




で、その「第一次ハンスト」が目標を達成できなかったことから、ボビー・サンズが指揮をとって計画された「第二次ハンスト」(つまり1981年3月1日からの)は、「一気に全員が絶食開始」ではなく、「さみだれ式にひとり、またひとりと絶食する」ことにして、抗議行動の持続性を持たせようとしたわけです。ハンストという形式の抗議行動において最大の阻害要因は「塀の外の家族の介入」で、英国政府が歩み寄る前に家族が介入して絶食を中断させてしまうと、何も達成できない。そこでハンガーストライカーA氏の家族が介入してA氏がハンストを離脱しても、そのあとにすぐにB氏が入れるようにしたりとかも。

なので1981年のハンストは、死んだ10人と死んでない参加者13人の合計23人の体制での大規模抗議行動となり、「塀の外」は「彼らを死なせるな」という声がものすごい盛り上がった。
https://en.wikipedia.org/wiki/1981_Irish_hunger_strike#Other_participants_in_the_hunger_strike

ボビー・サンズの「議員当選」はそういう文脈での出来事。この映画には出てこないから(サンズについて語る作品では必ず「議員当選」のくだりは出てくるのだけど、この映画は本当に独特)ウィキペディアには書いてないけど。

というわけで、映画本編については次のように書いた。主要なソースは英語版のテクスト。冒頭の1段落(色を薄く表示させてある)は私のテクストではなく、元々項目の冒頭に(不自然にも)置かれていたものを移動させた(が、「要出典」だ)。

あらすじ

タイトルの「ハンガー」は「ハンガー・ストライキ」を指しているが、当時のイギリス政府の強硬方針によって政治犯の認定を廃止されたリパブリカン収容者たちが自身のプライドと人権を取り戻そうとする「渇望」をも示す[要出典]。

1981年3月からのリパブリカンのハンスト (en: 1981 Irish hunger strike) を主題とし、このハンストのリーダー、ボビー・サンズ (マイケル・ファスベンダー) を主人公に、看守、新入りの囚人、新人の機動隊員という複数の視点も加えて事態を描写していく本作は、ほとんど台詞がない。

「政治的殺人、政治的爆破事件、政治的暴力などというものは存在しません。存在するのは犯罪としての殺人、犯罪としての爆破事件、犯罪としての暴力です。わが政府はこの点では一切の妥協はいたしません。政治囚として扱うことなど、ありえません」という冒頭に流れるマーガレット・サッチャーの演説は、サンズのハンスト開始の数日後にラジオで行なわれたものである[2]

素裸に毛布のメイズ刑務所の囚人たちは「5つの要求」を掲げて獄中で抗議行動を行なっていた。「ダーティ・プロテスト」のため房内の衛生状態は最悪で、時おり高圧洗浄機で壁の清掃がされたり、囚人たちは押さえつけられて無理やり髪を切られ、伸びたひげを刈られたりしている。

刑務所の看守のレイモンド・ローハン(作中では名前は出てこない)は囚人を殴りつける毎日を過ごしている。刑務所職員はIRAに狙われているので、車の下に爆発物が仕掛けられていないかどうかのチェックも欠かさず行なっている。

新たにデイヴィ・ギレンという若者が収監される。囚人服の着用を拒否した彼は、その場で「ブランケット・プロテスト」、「ダーティ・プロテスト」の参加者となった。彼と同じ房のジェリーは、房内の壁に排泄物を塗りたくっている。二人は意気投合するが、房内はハエやウジばかりで最悪の衛生環境だ。ある日面会に訪れたジェリーのガールフレンドがひそかに身体に隠して持ち込んだラジオが、外界との接点だ。

ボビー・サンズが看守によって房から引きずり出されていく。無理やり押さえつけられ、乱暴に髪を切られたサンズは看守のローハンにつばを吐きかける。ローハンはサンズの顔を殴りつける。そしてサンズをバスタブに放り込んで、デッキブラシで身体をこする。サンズがうめき声を上げる。中庭で一服するローハンの血のにじんだこぶしに、雪が降りかかる。

やがて、囚人たちに刑務所から「囚人服ではない普通の服」が支給される(上述した1980年のハンストの結末)。「自分の服」を着る権利は認められておらず、怒った囚人たちが暴れだす。

刑務所当局は機動隊の出動を要請する。現場に急行した中に、現場は初めてのような若い人員がいる。機動隊の一員として楯を警棒で叩いて打ち鳴らすという威嚇をし、同僚たちが暴力を振るう中、彼は怯えている。

暴動の後、囚人たちはさらにひどい目にあわされる。ゴム手袋をした看守たちは囚人たちの身体の穴という穴に指を突っ込んで検査をする。ラジオなどを隠し持っている者がいないかどうかをチェックするためだ。抵抗する者は容赦なくぶちのめされる。

ある日、看守のローハンはケアホームにいる母親を訪問する。そして、そこに突然やってきた男に後頭部を撃たれ、ものの見分けもおぼつかない様子の母親のひざの上に、ローハンは崩れ落ちる。

ボビー・サンズはドミニク・モーラン神父の訪問を受ける。面会室で2人が議論を戦わせるシーンは、本作で唯一セリフらしいセリフのある場面である。このときには既にサンズはハンスト決行の意志を固めており、何とかそれを思いとどまらせようとする神父の言葉は届かない。

こうして1981年3月1日 (1976年に労働党政権が「特別カテゴリー」を段階的に廃止すると発表した日付) に、サンズは絶食を開始する。

66日後、やせ衰え、身体のあちこちに床ずれのできたサンズは、息を引き取る。彼が子供のころに参加したクロスカントリーの大会の回想の場面で、本作で唯一の音楽が流れる。


……とまあ、これで約3時間。推敲やリンクの確認のようなこともあるから、3時間では済まないだろう。

なぜそんなに時間がかかるのかというと、「ウィキペディアだから」だ。あの独特の「記法」や「テンプレート」に、誰もが習熟しているわけではない。しかも、ヘルプが膨大でとても見づらい。「記法」はエディターに埋め込まれているボタンが使えるが、「テンプレート」はそうではない。私はいちいち「ウィキペディア 英語 リンク テンプレート」などのキーワードでウェブ検索して参照している。覚えてしまえばよいのだろうが、数が多い上に複雑だし、そうしょっちゅう使うものではないし、習熟したところで、申し訳ないけど何の得にもならないのだから覚えようとするモチベーションがない。














いや、ほんと、どうして「北アイルランド問題」なんて項目で百科事典に載ってるんですかね……「アイルランド問題」、「北アイルランド紛争」という基本的な用語になじんでない人が項目を立てて、それの上にいろいろ積み重ねられてるから、もう本当に手がつけられなくなってる。

アイルランド問題とは何か―イギリスとの闘争、そして和平へ (丸善ライブラリー)アイルランド問題とは何か―イギリスとの闘争、そして和平へ (丸善ライブラリー)
鈴木 良平

北アイルランド紛争の歴史 IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム ブラディ・サンデー  スペシャル・エディション [DVD]

by G-Tools


それはそれとして、ウィキペディアの書き方の問題。「小見出しへのリンク」。








この調子で書いて、「あらすじ」とそこから派生させた「当時の状況」を何とか仕上げたのだが、このページ、修正すべきはそこだけではないということに気づいた。というか、最初に見たときに「ブランケット・プロテスト」のトンデモ定義と、「いい看守が殺されたので、ボビーは考えを改めました。まる」みたいな、どこをどう見たらそういう解釈が可能なんだと小一時間問い詰めたくなるあらすじに気をとられて気づいていなかったのだが、あっちもこっちもダメだ。




こんなん、プロフィールに書いてあるでしょう。ウィキペディアにだって書いてある。
https://en.wikipedia.org/wiki/Steve_McQueen_%28director%29
McQueen was born in London and is of Grenadian and Trinidadian descent.


統計的な文脈や、新聞記事などで「アフロ・カリビアン」と言うことはよくあったが、私の知る限り、ロンドンでは「アフリカン」と「カリビアン」はかなり厳密に区別されていた。「カリビアン・フード・マーケット」に「アフリカン」な何かを求めていくことはない、という感じ。住宅街でも、「あそこはカリビアンの通り、こっちはアフリカン」という区別が(実は)あった。当人が「どっちでもいい」と言わない限りは、わかっている事実に忠実に使い分けた方がよい。









ファスベンダーがアイリッシュであることについては、また改めて書きたいのだけど、チャラい女性誌が「きゃ〜、イケメン」と騒ぐときに(それ自体はいいと思う)「英国男子」扱いするのは、ほんとにやめれ。ファスベンダーは今は拠点はロンドンだが、「英国の俳優」では断じてない。「アイルランドの俳優」だ。キリアン・マーフィーもそうだし、リーアム・ニーソンもそうだ(というと「だって北アイルランドは英国ですよね」というめんどくさい話になるのだが、それは自己決定権に関わる問題である。ゴルフのロリー・マキロイに聞いてみ)。コリン・ファレルなんて、アイリッシュ以外の何者でもない(名前も、ルックスも)。






あと、Hungerのウィキペディアで一番変なところ。








4794806426異邦のふるさと「アイルランド」―国境を越えて
佐藤 亨
新評論 2005-07

by G-Tools







とりあえずこんなところでね。



おお、なんかすばらしい論文見つけた。

‘The system will break before we will’: Irish republican prisoners' blanket and no-wash protests against criminalisation
Rosa Gilbert
Dissertation submitted in partial fulfillment of the requirements for the degree of Master of Arts in Historical Research at Birkbeck, University of London 2012
http://www.academia.edu/6006199/_The_system_will_break_before_we_will_Irish_republican_prisoners_blanket_and_no-wash_protests_against_criminalisation

This paper is a study of the blanket and no-wash protests in the Maze/Long Kesh and Armagh prisons, undertaken by Irish republican prisoners from the 1st March 1976 until the end of the hunger strike in October 1981. Using Michel Foucault’s work on liberal governmentality and biopolitics, it frames the protests in terms of the power relationship between the British government and the republican prisoners, engaging with the debate over who was responsible for the protests and their escalation. In doing so it covers three key areas: the criminalisation policy, how the protests were deeply linked to this policy but also resisted it, and the use of language and imagery by both sides in framing the protests. This contributes towards the argument that the prison protests represent a microcosm of the conflict in Northern Ireland, and became the battleground through which the British government and republican movement invested their ideological positions...

※この記事は

2015年07月06日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:00 | TrackBack(0) | northern ireland/basic | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼