kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2015年04月05日

花の終わりを記録(メモ)する。

4月3日、すごい風が吹いた日、街のそこかしこにあるソメイヨシノの木の周囲には、ちぎれた枝が落ちていた。

Broken


東京、既に雨やら風やらで散っていた桜の花は、今年はあの風で終わった。

Burial

The dead (countless)


A portrait (stone cold crazy)


そこらへんの写真をFlickrにアップした。
https://www.flickr.com/photos/nofrills/archives/date-posted/2015/04/04/



すごい風が吹く数日前だったが、道端に落ちていた桜の小枝を拾った。4〜5輪が1つのクラスタを形成しているソメイヨシノのクラスタがいくつかついていて、ほとんどがつぼみだった。蹴飛ばされたり踏まれたりしていたのだろう、けっこうぼろぼろになっていたし、25度にもなりそうな高温の中、水分も切れててしおしおになっていた。

が、家に持ち帰って、そのへんに転がっていたジャムの空き瓶に水を入れて挿してやると、何時間もしないうちに生命を取り戻した。くたーっとなってヘアピンカーブ状態だった花柄は持ち上がり、つぶれていたつぼみはふっくらとした形になり、開花していた花は、踏まれたりした花びらはそのままだったが、全体に水を得てしゃきっとしていた。ジャムの空き瓶の中の水には無数の小さな気泡ができていて、この植物の小さな枝が呼吸したことをはっきり示していた。

以来、数日間、この小枝はデスクのペン立ての横にある。





ソメイヨシノの花の色、つぼみのときは色濃い桜色が、開花するにつれてどう変化するのかを手元で見ているのは楽しい。木の上で風や雨や日光にさらされている花をズームレンズで引っ張って見ても、こういう変化はたぶん確認できないのではないかというくらいに微妙な変化だった。私のカメラと私の腕では記録はしきれないが。



水を替えたときに、うっかりつぼみを水の中に入れてしまっていたら、翌日には「水中花」のようになっていた。この枝と同じときに拾った、枝のついていない、花柄のひとまとまり(クラスター)もこの同じ瓶の水に入れていたのだが、そちらは既に開いていた花が水の中でほどけていっただけだった。



もうこの瓶のこの小枝も、花びらを散らし始めている。さっき、机の上で瓶を移動させるために持ち上げたら、その衝撃で花びらがはらはらと零れ落ちてきた。踏まれても蹴飛ばされても生きていた強さというかしぶとさは、花の終わるときには気配すらない。ソメイヨシノはまず実を結ばない。



でも日本古来の「桜」って、これ(ソメイヨシノ)じゃなくてヤマザクラ(下記)なので。



※この記事は

2015年04月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 22:00 | TrackBack(0) | flickr | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼