kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年11月19日

今更何ゆえに、このような「やらせ」が「アート」という口実で行われるのか、まったく理解できない。

かの「実在の人物のふりをした架空の人物のブログが、ありもしない『政権による逮捕』という形で終了することになって、嘘がすべて暴かれた」事件から3年数ヶ月も経過しているのに、今更、また、こんなことが起きるとは思ってなかったっすよ。デマ元というか制作者は「アート」を口実にしているようだけれど(言うことが不安定なのでイマイチわからない)。

「シリアの少年の勇敢な行動」のビデオは、完全な創作(やらせ)。その経緯を振り返る。
http://matome.naver.jp/odai/2141635872769739301

「実際の映像」のように見え、そのように扱われてバイラルした映像が、実は完全な「作り物」…つい人に伝えたくなる「美談」には要注意。


「スナイパーの銃弾をかいくぐりながら、取り残されている無力な者を救出するヒーロー」という物語は、見る者すべてに感動を与える。「わあ、すごい」という気持ちは、ひどいニュースを見るだけしかできず、無力感にさいなまれている「私」に《癒し》を与えてくれる。その《癒し》を「みんなとシェア」したい。

こうしてその《物語》はネット上でバイラルする。

問題は、その《物語》が「実話」であるふりをしているとき、特に「今、リアルタイムで起きている国際ニュースの一部」であるふりをしているとき、そしてそれが元々からして「情報の信頼性」という点で難しい問題を内包しているトピックである場合。

そういうことを、上記「まとめ」に書いたので、ご一読いただければと思う。

なお、私自身は当該の映像がバイラルしてたときにはその映像の存在すら知らなかった。知ったのは、それが「嘘(フェイク)」だと暴くBBCの記事でだった。

流行りだしたのは11月10日ごろのことで、当方、8日のエニスキレン爆弾事件の記念日、9日(日)のリメンブランス・サンデーから11日の休戦記念日まで、レッド・ポピーのニュースにかかりきりの状態で、Twitterもろくに見てなかったせいもあるが、私が観測してる範囲では誰もほとんど話題にしていなかったと思う。

なお、ツッコミを食らった制作者は「明らかにフェイクの映像なのに真に受けるほうが悪い」などと開き直っている。非常に悪質だ。「釣られるほうがバカ」論。そういえば何年も前に、ウィキペディアに虚偽情報を書き込んで「メディアが釣られた、プギャー」ってやってたアホの大学生がいたなと思ったら、さほど昔じゃなかったね、2009年。



※この記事は

2014年11月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼