kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=-=


2014年10月26日

「ブルドーザーのブレードは煉瓦まで粉々にしたとチン氏は話した」……ニール・シーハン『ハノイ&サイゴン物語』を読んだ

ヴェトナム戦争について、本当に何も知らない状態なので、書店・古書店・図書館で手に届くところにある本を読んでいる。そのメモをつけておこうと思う。

4087731707ハノイ&サイゴン物語
ニール シーハン Neil Sheehan
集英社 1993-04

by G-Tools


この本の著者、ニール・シーハンはいわゆる「ペンタゴン・ペーパーズ」のスクープ記事をNYTで書き、ピュリッツァー賞を受け、『輝ける嘘 A Bright Shining Lie』で知られるジャーナリスト(と書かれている)。本書見返しによると、1936年生まれでハーバード大を卒業した後、「選抜徴兵により、在韓米軍の主計兵としてソウルで任務につき、その後情報部へ転属して東京に移る。東京で除隊後はUPI通信社に入社、サイゴン特派員となる。その後ニューヨーク・タイムズ社に移籍」……。

私が今更、(恥ずかしながら今までほとんど知らなかった)ヴェトナム戦争について、あまり断片的ではない知識を入れようとしているのは、9月に東京写真美術館で見た岡村昭彦の写真展がきっかけである。ヘルメットに花を飾ってフザけてみせる南ベトナム政府軍の若い兵士、村人へのウォーター・ボーディング(水責め拷問)のあとで地面にこぼれた水に群がるアヒルの子供たち……「悲惨」なだけではないあれらの写真は、「砲撃によって瓦礫になった町の中の猫」のようなものとつながってしまった。

4568104807岡村昭彦の写真 生きること死ぬことのすべて all about life and death
岡村昭彦
美術出版社 2014-07-30

by G-Tools


ちなみに、『ハノイ&サイゴン物語』の筆者の「シーハン Sheehan」はアイリッシュの名字だが、岡村昭彦が60年代後半には拠点をアイルランドに移したのは、ヴェトナム戦争を始めたのがジョン・F・ケネディだったことがきっかけだったという。つまり、「差別されてきた側であるアイルランド人」が、なぜ「差別・被差別」の構造をがっつり維持している南ヴェトナム(当時。ごく少数のカトリックが政治・経済を牛耳っていて、仏教は弾圧され旗を掲げることもできなかった)に肩入れしたのかという疑問。

(それは後に、北アイルランド紛争にもつながっていく。北アイルランドでは「プロテスタント」が政治を独占していて、「カトリック」は差別され、「アイリッシュ・トリコロール」の旗は「旗およびエンブレム法」で規制され、掲げることもできなかったし、弾圧に負けないという姿勢を示そうと掲げていてもイアン・ペイズリーとRUCがそれを取り外しに乗り込んできた。)

『ハノイ&サイゴン物語』は、そのシーハンが60年代に記者として接したヴェトナムという土地を、20年ほどあとに再訪したときにあちこちを訪れてまとめたもの。冒頭、8ページに「1960年代に戦争特派員として3年間ヴェトナムに滞在した私は、この国に平和がもどったらいつか再びこの地を訪れようと思っていたが、1989年夏、ついにその日がやって来た」とある。

1989年夏、「ベルリンの壁の崩壊」の直前、社会主義国のヴェトナムは「ドイモイ」と呼ばれる「改革」の進んでいた時期だ(「ドイモイ」は日本語圏の新聞やテレビの報道でもカタカナ語として出てきていた。余談だが、2000年代に「要解説一般ニュース用語一覧」的なものにこれが入っててびっくりしたことがある。「じゃ、『ペレストロイカ、グラスノスチ』や『ジャパン・アズ・ナンバーワン』も必要ですか」でNoといえる俺になったけれど)。

本全体で198ページの『ハノイ&サイゴン物語 (After the war was over)』は、見開きにインドシナの地図(ヴェトナム、ラオス、タイ、カンボジア)がついていて、前半(82ページまで)がハノイ、後半(83ページから)がサイゴン(ホーチミン)という構成だ。60年代当時は、ハノイの側(北ベトナム)はアメリカ人にとっては「向こう側」で(そのことについてのシーハンの描写は、今の北朝鮮を思わせる)、彼らが足を踏み入れることのできる「ベトナム」といえばサイゴンの側(南ベトナム)だった。

この南ベトナムが、「アメリカが支援する独裁政権がやりたい放題」という体制で、何もなくても差別されていた少数民族などはえらい目に合わされているのだが、それを保持し「共産主義の伸張に対する防波堤とするため」に、アメリカはここを戦場とした。(それを「アメリカは」と言ってる間は見えてこないものが、「ジョン・F・ケネディは」、「アイリッシュの大統領が」と言い換えることで見えるようになる。岡村明彦の写真展でぐりぐりと見せ付けられたのはそれだった。)

本書前半の「ハノイ」のパートで、ニール・シーハンは初めて足を踏み入れた「北」で、ボー・グエン・ザップ将軍(最近、90代で亡くなったことがニュースになっていた方だが、私はそのときまで名前すら聞いたことがなかった。あるいは聞いてはいても記憶に残っていなかったのかもしれない)と会って話をするなどしながら、「歴史」について説明している。

1954年(注: フランスからの独立)から1975年にかけての統一以前の南ヴェトナムは、アメリカの援助に頼った非自立国家だった。……

1975年4月の北ヴェトナムの勝利により、アメリカの南ヴェトナムに対する援助は一夜にして打ち切られた。南ヴェトナムは、援助なしで国を営んでいくことを余儀なくされたのである。だが、南ヴェトナムの農村部の大部分は戦禍で荒れ果て、人びとは再び土地を開墾して村を一から再建しなければならなかった。……

援助の打ち切りによる経済のひずみは、たちまち拡大した。アメリカという敵の存在が消えたことにより、中国、ヴェトナム間の歴史的な対立が再燃、両国政府はポル・ポト率いるカンボジアのクメール・ルージュに対する中国側の援助をめぐって激しく対立し、1978年春、中国政府は突然、対ヴェトナム援助を全面停止するという挙に出た。……

(上掲書、pp. 21-22)

このあと、1978年暮れにはベトナムはカンボジア(ポル・ポト政権)に侵攻、それへの報復措置として中国がベトナムに侵攻し、中国が対ベトナム経済制裁を主導、これにアメリカや西側諸国(日本を含む)が同調して対ベトナム援助を停止し、世界銀行、アジア開発銀行、国際通貨基金などが借款を凍結し、ヴェトナムはひどい苦境に追いやられる。しかし当時の指導者レ・ズアンらは「東南アジアにおける社会主義の先鋒」となるという「積年の夢であった社会主義国家の建設を目指し」、国際的な圧力(外圧)のことはあまり気にしていなかったようだ。
1978年には集団農場方式が南部ヴェトナムの農地にもおよび、資本主義は事実上、この国から消滅した。当局は、1930年代にスターリンによって創出された古典的な経済モデルに倣ってハノイに国家計画委員会を設置し、厳格な中央集権体制の下にすべての産業が国営化された。

(p. 23)

こうして確立された社会主義体制がどんなものだったかが25ページまでで説明される。そして26ページからは、シーハンが89年に訪れたときに見たような「ドイ・モイ体制」の始まりが解説されている。いわく、レ・ズアンが86年に他界し、続いて書記長になったのは、「社会主義国家建設の闇雲な推進に異を唱えたことが原因で」政治局を追われていたグエン・バン・リン。彼のもとでヴェトナムは「改革」に着手する。ソ連や東欧より少し早かった。そしてシーハンがハノイを訪問した89年には驚異的な(600パーセントとか700パーセントとかいう)インフレは収まり、25パーセントにまで下がっていて、コメの生産量も伸びて「この年ヴェトナムは1930年代以来の大量輸出ができるのである」(p. 28)。

その後、「ドイモイ」が勢いよく進むヴェトナムの様子をシーハンは見て歩く。ヴェトナム戦争のころに米軍が戦略上重要視していたハイフォンという港に足を運ぶが、そこで予期していたような「勇ましい気風のヴェトナム版マルセイユ」とはまったく違った寂しい光景(ハイフォンは海に面しておらず、水路で海とつながった内陸の町だった!ってところで爆笑)を目にする。そこで彼がインタビューしたのは「赤い資本主義者」。日本に輸出する冷凍えびの工場を経営する女性実業家だ。ベトナム戦争時の機雷は、既に撤去されていた。

このように、「ハノイ」の側では「あの戦争」のことはあまり出てこない。出てくるのは、シーハンが会って話をする人々の「経歴」の中だ。中には第二次大戦での抗日抵抗運動を経験している人もいる(ボー・グエン・ザップ将軍もそのひとりだが)。第二次大戦、インドシナ戦争(対仏独立)、そしてヴェトナム戦争。同時に進行していた社会主義化、そして「ドイモイ」による脱社会主義化。シーハンはそういった「大きな物語」を大方説明したところで、その間に存在する「社会の実相」へと筆を進める。「ドイモイ」が成功していた時期でも、医療は深刻な状況にある(まるで経済制裁下のイラクの報告を読んでいるようだ。人工透析のフィルターがない、など)。薬さえ手に入れば助かる子供が、町にその薬がないので助けられない。その中で「医療の自由化」という資本主義の導入を「よかった、これで問題は解決する」というふうに位置づけているあたりは「アメリカ人」だなあと思うが、ここで報告されていることはなかなかにショッキングだ。

だが、そういった「医療現場の悲惨な実態」よりさらに興味深いのが、当時どのような「うわさ」がアメリカ人の間にあったかを書きとめた下記のくだりだ。
ヴェトナム戦争で行方不明になった米兵の捜索に関して1987年に結ばれたアメリカとの協定により、ヴェトナムは国際援助という形でいわゆるNGO――非政府組織から人道的な援助を受けるようになった(アメリカでは、ヴェトナム戦争で消息を絶ったままいまなおヴェトナム当局にとらわれているというアメリカ兵たちのことがよく話題になるが、私はヴェトナム滞在中に、そのような事実を示す証拠にはまったく出会っていない。ヴェトナムは同じ戦争で数十万人の行方不明者を出し、その人数があまりにも多すぎるために、正確な数字はわかっていないが、南北のヴェトナム人犠牲者の総数は、戦闘員、非戦闘員を合わせて300万人にのぼると推定されている)。

(p. 53)

ここからあと、シーハンの文章は、アメリカ人にとっての「あの戦争」により直接的に踏み込んでいくようになる。医療現場の窮乏を取材している最中のことだ。

……翌日、私はタン(注: 現地の通訳者さん)にバクマイ病院に連れて行ってくれるよう頼んだ。バクマイ病院は、1972年のクリスマスにリチャード・ニクソン大統領が明示がB-52による爆撃で、ヴェトナムで最も有名になった病院である。が、爆撃はもう既に昔の話となり、著名な人物がこの病院を訪れることもなくなっていた。

副院長のチャン・ド・チン教授は、58歳の気さくな人物である。病院が爆撃を受けた1972年12月22日の午前2時、教授は地階のベッドの中で目を覚ましていた。……午後9時、まず小型の戦略爆撃機がハノイ上空に飛来して予備爆撃を開始、夜半過ぎになって大型の爆撃機が襲来し、本格的な爆撃となった。

心臓科に同時に落ちた7発の爆弾の炸裂で床が地階に落下、チン教授の周囲にいた人びとのうち11名が亡くなった。その大半は地階に収容されている患者の介護に当たっていた医師、医学生、看護婦などだった。中庭をはさんで向かい側にある皮膚科はさらに激しい爆撃に遭い、17名が死亡した。

爆撃の直後、大勢の著名な人物が病院を見舞いに訪れた。当時の国家安全保障問題担当大統領特別補佐官ヘンリー・キッシンジャーも、1973年1月のパリ協定の調印の帰りにハノイに立ち寄り、爆撃の跡を視察している。……

チン教授の話では、そのときキッシンジャーは、B-52の爆撃は病院から半マイルあまり離れたところにある……小さな飛行場を目的としたものであったと述べ、遺憾の意を示した。

遺体の発掘作業には2週間が費やされた。……

病院の再建には11年かかり、爆撃11周年を迎える1983年12月22日の夜に、その再建を祝う花火が打ち上げられた。

(pp. 54-56)


イラクから、現在、こんなニュースが流れてきているときに、こんな「誤爆」の事例について読んでいるのだ。



シーハンは、バクマイ病院の運営の厳しさを詳細に報告している。「誤爆」のあとに創設された米国の人道支援団体が細動除去器やエコー心電計などを支援したが、その団体は既に解散し、70年代に供与された機器は老朽化、正常に作動しなくなったそれらの機器を買い換える余裕もない。病室は満員を超えており、1つのベッドに何人もが寝かされている。

1972年のクリスマスの爆撃に対してヘンリー・キッシンジャーは遺憾であると謝意を表明し、いかにも不可抗力の出来事であったという態度を取ったが、ニクソン大統領も彼も、爆撃でこのような事態が発生しうることは十分に知っていたはずである。

ニクソンは局面を打開するため、B-52 をハノイに向かわせたのだ。北ヴェトナムの戦意を喪失させ、南ヴェトナムでの大規模な反攻を諦めさせて、ニクソン政権が支援を行っているグエン・バン・チューの親米政権を存続させるのが狙いだった。

大統領とキッシンジャーは、大型爆撃機でハノイおよびその周辺地域の軍事目標を爆撃すれば、一般市民に被害がおよぶことは事実上避けられないことを、軍上層部から告げられていたはずである。だからこそ前大統領リンドン・ジョンソンは、B-52の編隊によるハノイ爆撃を避け続けたのだ。

……

1972年のクリスマスの翌日の夜――病院誤爆から4日後の夜、B-52のパイロットのひとりが再び目標を誤り、ハノイ駅のすぐ南の、カムティエン通りに軒を並べる3軒の民家を破壊した。確かな記録がないために犠牲者の正確な人数は分からなかったが、死亡者はバクマイ病院での犠牲者の数を上回るものと見られていた。

死者の追悼のために、民家は今でも破壊された当時のままに残されている。家の残骸の前には鉄柵でできた門があり、そこには47・49・51の番地だけが記され、門の後ろにはこのうちの1軒で家族とともに亡くなったひとりである若い母親が、子供を腕に抱いた像があった。

(p. 57-58)


この夏のガザの爆撃のあと。




単独で見るより、もっときついのいっときましょうか。強烈な民族主義者だったジョン・ケネディ(JFKの父親)は、これがなかったら、アメリカにはいなかっただろうし、つまりベトナム戦争をおっぱじめたJFKは合衆国大統領にはなっていなかった。



このあと、シーハンは軍事博物館、歴史博物館を訪れ、そしてアメリカ人にとっての「あの戦争」のあとのヴェトナムをめぐる「国際情勢」(メイン・プレイヤーは中国。そのことをアメリカがいかに「認めていなかったか」もシーハンは報告しており、そこも興味深い)へと記述が進む。当時(まさに『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時期だが)、日本がヴェトナムでどう見られていたかが書かれたくだりは興味深い(70ページ)。

そして、この「アメリカが爆弾を落とした社会主義国を取材するアメリカ人」は、現地の人から示される「敵意のなさ」に驚かされる。彼がその理由を尋ねると「アメリカ人一般が悪いのではない」といった答えが返ってくるというのだが、それだけでは説明がつかない。そこでキーとなっているのが「中国との関係」だ。その見地からみれば「戦争」は「あれで終わった」わけではない。シーハンは戦没者墓地に眠っている「19歳、20歳、21歳の若者たちは、サイゴンのアメリカ大使館の屋上からアメリカの最後のヘリコプターが飛び立った日から、およそ4年後に死亡している」ことに注目している。

ベトナムでは戦死者は「殉死者」として扱われる。その母親の会の会員である老婦人を訪ねるシークエンスで「ハノイ」編は終わる。シーハンは、1911年に生まれたその女性のこれまでの経験を語るために6ページ以上を費やしている。18歳で軍医と結婚した彼女は8人の子を産み育てた。第二次大戦中はフランス軍の一員として欧州に行き、ドイツ軍のフランス侵攻で航路が閉鎖される前にベトナムに戻ってきた夫は、第二次大戦終結後はホー・チ・ミンの独立運動に参加。1946年に対仏独立戦争が激化する中、妻子を疎開させて本人は傷病兵のためにハノイに戻り、それっきり消息がつかめなくなった。工兵部隊に入った長男はフランスとの戦争での不発弾処理をしていて死亡。その弟はディエンビエンフーの戦いを生き延びたあとに戦死。病死と戦死で子供は4人になっており、彼女は電話交換手として働き、内職をこなして一家の生活を支えた。そうして暮らしているときに開始されたのが、1965年、「ローリング・サンダー作戦」(ジョンソン大統領の「北爆」)。戦闘年齢の男子は徴兵された。彼女は、ベトナムの何度もの戦争で、夫と3人の息子を失った。

その息子たちのひとりで、最後に戦死(殉死)した子は南ベトナムのサイゴン近くのゴム農園での激戦で死亡し、遺体も戻ってきていない。その兄が、南ベトナムの政権の崩壊の直後に現地に赴いたが、あまりの激戦に遺体が見つかる可能性はまったくなかった。「このような激しい戦闘状況、あるいは記録の混乱や欠如といった事情から、何十万というヴェトナム人家族が行方不明者をかかえて苦しんでいる」(81ページ)。女性はベトナム統一後の1976年、1968年の戦いで息子の部隊がいた「ヴェトコン」の拠点の見学ツアーに招待され、息子たちのいた場所の記された地図をもらったという。「その地図を見たときは、涙が止まりませんでした」(82ページ)。

このシークエンスで締めくくられる「ハノイ」編に続いて始まるのが「サイゴン」編。ここは筆者が若き日に海外特派員として過ごした場所への「再訪」となる。その日々と、この本の執筆の間に流れた時間にどれほど多くのことが起きたことか。何より、筆者は「ペンタゴン・ペーパーズ」のスクープ記事を書いている。

以下はメモっておきたいところの抜粋だけ。

これを、「シリア、コバニの攻防戦」のようなリアルタイムの「米軍の介入」のニュース、「イラク国軍、モスルの武装組織に対して空爆」、「イラク国軍、ティクリートの病院を爆撃」、「イラク国軍、ファルージャの病院をまた爆撃、たる爆弾も投下」といったニュース、「シリアのアサド政権軍の爆撃で今日もまた15人死亡(うち子供が8人)」といったニュース、「ウクライナ東部でまた民間人死亡」といったニュースと同時に、私は東京で読んでいた。既に夏のガザ攻撃は、「遠い」出来事になっている。住民の残る市街地を近代的な軍隊が包囲して焦土作戦を実行しているのが、「ライヴ・ツイートされてきた」あの異常な日(「はいはい、またですか」的に、それが「異常」であるということすら通じなかったこの平和ボケ文化圏のくそっぷりを思い知らされた日)は、もう「遠い」。「戦争などというものは1945年8月15日で過去のものになったと思ってました」などと、いったいどうやったら言えるのだろう。





超大国による悪の極みを実行されたのが、ベンスクの村とその住民だ。

1967年1月、ベンスクはサイゴン北方のゴム農園地帯にある、"鉄の三角地帯" として知られる共産ゲリラ基地の破壊を目論む、米軍焦土作戦の目標のひとつとなった。ほぼ全住民が駆り集められ、ヘリコプター、トラック、そして河川上陸用舟艇で強制的に連行された後、村の住居や家族の墓はブルドーザーでならされてしまった。

ゲリラとともに隠れて残った者たちに対しては、"ナイトホーク" という特別ヘリ・チームが昼は機銃掃射、夜には捜索が行われた。機関銃手はサーチライトを用意し、軽率にも姿を現した者を発見して光の中に追いこんだ。アメリカ軍は地上でも戦闘を行い、爆弾、砲弾で破壊した上、ナパーム弾、黄燐弾で焼き尽くし、さらに枯れ葉剤の散布によって草木を全滅させた。

ファン・バン・チンは、アメリカ兵がやってきた日を覚えている。彼はベンスクの党書記であり、村のゲリラの指揮官でもあった。攻撃があるとの情報は受けていたが、彼は村に残って役場近くの竹薮にある隠れ場所から、できるかぎりの抵抗をしようと決めたのだ。そして、現在のベンスクを訪れた私はその役場でチン氏に会った。

1967年、ジョナサン・シェルが『ニューヨーカー』誌に寄せたその惨状に関する記事によって、戦争のさなかにベンスクの名は広く知られるところとなり、ウェストモーランド将軍の "サーチ・アンド・デストロイ(捜索討滅)作戦" によって南ヴェトナムに新たに生まれた後背地の別名となった。

(pp. 138-139)


この基地は、サイゴンに近いという理由から大きな脅威と見られていた。アメリカによる戦争中には、基地を掃討しようとする最初の試みが60年代初めに行われた。住民は有刺鉄線で囲んで強化した "戦略村" に集められた。時にグロテスクといえるほど底抜けの楽天的状態にあったサイゴンのアメリカ派遣軍は、この初めての強制移住を "サンライズ計画" と名づけた。だがヴェトコン・ゲリラはすぐに力をつけ、囲い地を襲って農民を解放し、元の住居を再建させた。

次には政府軍が爆撃と砲撃を加え、農民を追い出そうとしたが、その作戦も失敗した。チン氏によれば、農民たちは……水田や果実園を捨てるわけにはいかず、また……共産主義の大義への固い信念は揺るいでいなかった。一方、1965年のジョンソン政権による全面介入後、アメリカ軍の将軍たちは、住民の一斉退去と村の完全破壊が問題の解決につながると信じていた。

……

いまは白髪も混じった60代半ばのチン氏は、左目を失明し、左足も膝が動かないため不自由である。戦争も終わるころに、近くで炸裂した米軍の砲弾で負傷したのである。さらに左側の歯が全部なく、また右目は分厚いレンズの眼鏡を必要とした。しかしチン氏の声は威厳にみち、話し方も生き生きしていて、後に村役場が建ったその場所に最初のヘリコプターがいかに着陸したかを、身振り手振りを交えて語った。

ベンスクから追放された住民は、約1万人だった。村の人口はもともと約5600人だったが、爆撃で追われ友人や親類とともに近隣の村から避難してきた家族たちによって、約2倍に膨れ上がっていたのである。アメリカ軍は、ヴェトナムの同盟者であるサイゴン政府軍を連れてきた。そして村内のそれぞれの小村落の周りに非常線を張り、政府軍をつかってその中に住民を駆り集めさせた。

この地域を護るアメリカ軍歩兵部隊を輸送してきた小型攻撃ヘリにつづき、大型の貨物用ヘリが到着したが、住民の多くはそのヘリに搭載可能なすべての家財道具持参で集められた。他の住民は川のフェリー発着所まで歩かされ、停泊していた上陸用舟艇に乗せられた。逃げる者は射殺された。そしてアメリカ軍のブルドーザーが約950戸の家屋を破壊し、村を平らにならしてしまったのだ。ブルドーザーのブレードは煉瓦まで粉々にしたとチン氏は話した。……

(pp. 140-142)


ガザ。







ガザの病院。





本稿、「ベトナム」、「ヴェトナム」の表記はあえて統一していない(検索エンジン向け)。
また、引用に際しては横書きで読みやすいよう、数字は漢数字からアラビア数字に置き換えてある。

※この記事は

2014年10月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 20:30 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼