kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2014年03月25日

「人」が「人」であることのために (2) 〜『放射能とナショナリズム』から考える試み

前項の続き。

2014年03月21日 「人」が「人」であることのために/「地名」にスティグマを与えないために
http://nofrills.seesaa.net/article/392205823.html

3月20日の紀伊国屋書店新宿南口店でのトークイベントで、『放射能とナショナリズム』の著者の小菅信子さんは「原爆に救われることは、原爆に殺されるのと同じく、非人道的なことなんです」と語った。この本の第二章に書かれている「原爆に救われたと感じている連合軍の人々」のことである。

「非人道的」なことだ。しかしそれは同時に「人間的」なことでもあると私は思う。

Stay human. 「人間たれ」。それは時としてとても難しいことなのかもしれないが、外野が「こんな局面で、そんな、『人間らしく』なんて」と思うようなところでも人間が人間であることはやめられないものなのかもしれない。

小菅さんが2008年にまとめられた『歴史和解と泰緬鉄道』に収められているジャック・チョーカーさんの手記に詳しくあるが、東南アジアの日本軍の捕虜収容所で、想像を絶するほど過酷な環境に置かれて非人間的な扱いにさらされていた英軍の捕虜が、創意工夫を凝らして医術を施し、喚き散らし怒鳴りつけてばかりの収容所の日本軍の軍人や軍属(朝鮮人)をカリカチュアライズしてはおちょくる(変なあだ名をつけてみたり、点呼で相手には日本語に聞こえるようなばかばかしい英語を使ってみたりする)のも、英国とはまったく違う東南アジアの色彩豊かな自然に目を奪われているのも、限界ギリギリのところでの「人間」のありようのひとつだ。

4022599499歴史和解と泰緬鉄道 英国人捕虜が描いた収容所の真実 (朝日選書)
ジャック・チョーカー 小菅信子 朴 裕河 根本 敬 根本 尚美
朝日新聞出版 2008-12-10

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1999年9月。ジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤは、チェチェンのグローズヌイから、戦火を逃れて隣国イングーシに向かう人々と一緒にいた。頭上にロシア軍のヘリが飛んでいて、急降下したりしてくる。彼らが地面に伏せていると機銃掃射があって、誰かが大声で泣き出す。何があったのかと首をもたげようとしたのだろう、ジャーナリストに対し、隣にいた背広にネクタイの男性が「動くんじゃない」と諌める。耐え難い沈黙を破り、話を始めたその男は農地整理関係の役人で、ヴァハという名前だ。今朝、いつもと同じように出勤するふりをして、隣国への脱出ルートに来た。

4140808918チェチェン やめられない戦争
アンナ・ポリトコフスカヤ 三浦 みどり
NHK出版 2004-08-25

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……「ヘリコプターが襲ってくると、私は紙挟みを手に取って紙を取り出し、何か書いているふりをするんだ。これは効き目があると思うよ」
……「パイロットが見れば、俺はテロリストじゃなくて仕事をしているんだってわかるだろう?」……
「でも、奴らが逆に考えたら? ヘリコプターの認証番号を書き取っているんだって」。少し前の方に付している女が声をかける。……
「奴らにそう思われたら、一巻の終わりだな」と後ろからの声。……

――アンナ・ポリトコフスカヤ(三浦みどり訳)『チェチェンやめられない戦争』、日本放送出版協会、2004年、p. 44

そんなやり取りの末、ぜひその「秘技・紙挟みと書類」を実演してくれ、みたいな展開になる。まだヘリは去っていない。攻撃は続いている。
「見せてくれよ。見せて」
「よし、俺もやってみよう」
「ロシア人の分の紙挟みがなくなっちゃうな」
「チェチェン人は戦争だってのに、いったい全体、何だって誰も彼もが紙挟みを持って歩くんだ?ってプーチンは考えるだろうな。銃を持ってなけりゃいけないのに、って」
「そうなると連邦の奴らにも紙挟みが支給されて、チェチェン中が紙挟みだらけになっちゃうわけだ」
「ヴァハ、何色の紙挟みがいいんだ?」
 ヘリコプターは疲れを知らず旋回を繰り返している。……機銃掃射はほんの一時もやむことなく、絶え間なく投下される爆弾が炸裂する。……
 それでもみな冗談を交わしている。

―― Ibid., pp. 44-45

この「紙挟み」のエピソードは、アンナ・ポリトコフスカヤのすさまじい報告の本の第一章の最初の部分に置かれている(その前に導入部と基本的な説明があるので、この本の本編が始まるのは42ページからだ)。

冗談を交わしてから10行後、45ページで、ヴァハは死んでしまう。紙挟みはヘリから彼を守ってくれたのかもしれないが、地雷からは守ってくれなかった。ヴァハが特に理由もなく行列から離れてみたら、そこは地雷原だったのだ。脚は跡形もなくなり、右腕と左腕も引きちぎれてしまったヴァハを見て、「小柄な15歳くらいの少年兵」は泣いてしまう。昨日、ヘリの機銃掃射のもとに身を伏せながら「紙挟み」ジョークを交わした《旅の仲間》たちは、ばらばらになったヴァハを専用の袋に入れて、イングーシまで運んでいくかどうかを相談する。

ポリトコフスカヤの筆は、ヴァハが死んでしまう2日前に戻る。ヴァハの家族は先にイングーシに逃れた。今、それを追っていくヴァハは、同行グループの「6歳くらいの男の子」と仲よくなる。この集団の中にいる「13,14歳の少年たち」は「興奮して、嬉しげに議論している、今使われた武器はどの種類だろうか、と。知識をひけらかす以外、いったい彼らに何ができるというのか。少年たちのこれまでの人生のほとんどが近代兵器の研究で過ごされてきたのだ。チェチェンの戦争はすでに10年も続いている」(Ibid., p. 48)。

ヴァハと仲良くなった男の子は、「耳が聞こえないっていいなあ……」とつぶやいていた。「耳が聞こえない人は何も聞こえない。だから怖がらない」(Ibid., p. 49)。

 ヴァハはその子をそっと自分の方に引き寄せて抱きしめ……
「名前は?」。ヴァハは静かに涙を流している。
「シャルプジン」。おとなの男が泣いているのに驚いて少年が答える。
「シャルプジン、今は口もきけない、眼も見えない、耳も聞こえないのが良いのかもしれんな」。少年に見つめられてヴァハの涙は乾いた。「だが、俺たちはそうじゃない。それでもやっぱり、生き延びないとな」

―― Ibid., p. 49


ロシア軍が攻撃に使っている耳をつんざくような音を立てるグラッドミサイル(という体験)について、ポリトコフスカヤはこう書いている。(ちなみにこのグラッドミサイルは、今も、シリアで、アサド政権側によって、自国民の上に使われている。「米国の介入反対」のみを叫び、「アルカイダの脅威」ですべてを語ることを望んで「非武装の反体制運動」を無視するどころか「アルカイダの側」と事実無根の決めつけを行なった人々は知らないか、知っててもどうでもいいことなのだろうが。ちなみに最近は反政権側も誇らしげにグラッド発射の写真をウェブにアップしたりもしている。武器庫を襲撃して奪うなどしているのだろう)

(グラッド・ミサイルは)今回の戦争で、人びとの聴覚も命も乱暴に踏みにじっているもっとも恐ろしい兵器だ。……とはいえ、その音を聞いたということは、死神はすぐ横をすり抜けていって、ほかの誰かを捕まえたということだ。それに気づいて人は笑ったりする。グラッドは、人間を他人の不幸を喜ぶ非人間的な獣のようにしてしまうのだ。

―― Ibid., pp. 48-49


小菅信子『放射能とナショナリズム』(彩流社、2014年)では、日本の「唯一の被爆国」というアイデンティティについての深く広い思考の取り組みにおいて、広島と長崎に投下された原子爆弾が実際に「人間を他人の不幸を喜ぶ非人間的な獣のようにしてしまう」ものであったことが取り上げられている。

「唯一の被爆国」というナラティヴにおいて、基本的に、話は善悪二元論である。爆弾を投下した側が加害者であり「悪」。投下された側は被害者であり「善」。(実は私個人はその見方を取り切れていないのだが、それは別の話である。)

しかしその「投下された側」に、「投下した側」に属する人たちが、「戦争捕虜」という形で存在していた。

「投下された側」を地理的に広島・長崎に限定すれば、実際にそこに抑留されていた連合軍の捕虜たちが。「投下された側」をより広く「日本(の管理下)」とすれば、東南アジアの収容所に抑留されていた連合軍捕虜や連合国の人々が。

そういった人たちが、自分たちは原爆によって救われたと感じている。原爆が投下されなかったら、自分たちは死んでいただろうと(仮定法で)思っている。

その事実に、筆者は私たちを案内してくれる。

……(長崎の)爆心地から約1.7キロの地点にあった俘虜収容所(福岡俘虜収容所第十四分所)……にはオランダ人を中心にオーストラリア人やイギリス人も抑留されていた。原爆が落とされた時、収容所には169人の捕虜がおり、その大部分は丘陵の斜面で防空壕を掘らされていた。

 原爆投下後、燃える長崎の市街地を見下ろし、ある捕虜は、「これが美しい光景だと感じたことを否定できない。私は、ほとんど4年近い囚われの奴隷生活の後、やっと解放されたと感じた」。

――小菅信子『放射能とナショナリズム』、彩流社、2014年、pp. 108-109


「原爆が落とされなかったら、もっと多くが死んでいただろう」という「部外者」(政策立案者など)の語りは、最初に接したときはびっくりした(というより英語でupsetしたと言ったほうが正確)ものの、自分にとってはもはや「はいはい、またですか」と流せるようなものになってしまっている(いちいち取り合うと自分が傷つくのでスルーする。すべてを性別でしか判断しないことに何ら疑問を抱いていない人による悪意のないカジュアルなセクハラみたいなものだ)。はいはい、イラク戦争の開戦のときもディベートで「このまま放置しておくとサダムは大変な殺戮を」云々言ってましたね、ジャック・ストローなどが。それにリビアに対する軍事介入(という名前をつけられていなかった軍事介入)でも、同じことが「R2P (responsibility to protect)」という美しい概念によってお化粧されて行われましたね。etc etc

しかし、「当事者」が「私は」という主語で、「私は原爆投下によって救われた」と語っているのは、upsetという感覚とはほど遠い感覚をおぼえさせる。これは、うまく言葉にできない(言葉にすることで、誤って伝わってしまうことが怖い)。

ただ、黙って、その言葉に耳を傾けることしかできない。

ここで私に信仰があれば、「神」に救ってもらうこともできるだろう。「神様が、あなたが生きることを望まれたのです」と。しかし信仰心のない私が使うこの言葉は、まつ毛に塗りたくるマスカラと同じくらいに役に立つ明らかな偽物である。それが本物でないことを、言葉の主である私が知っている。

「私は原爆投下によって救われた」という言葉は苦痛をもたらす。それを口にしている人自身が、そのことによって苦痛を覚えている。

ほとんど知見のない分野なので的外れなことを書いてしまうかもしれないが、「サバイバーズ・ギルト (surviver's guilt)」が多少近いかもしれない。「生き残ってしまった者の罪悪感」。特に事故や災害で誰が死んでもおかしくなかった状況で、「友人が/家族が/隣人が/同僚が/上司が死んでしまったのに、なぜ私は生きているのか」という問い。多くは親しい間柄の誰かの死について生じる感情の葛藤だが、「よく行く店の人が」といった薄いつながりでもこの葛藤が生じることもある。突発的な災害などの場合は、見知らぬ他人でも「その時その場に隣にいた」といった関係でも、「あの人」が死んでしまったことで自分を責めることもある。

つまり「本人に悪いところはないのに自責の念を抱く」状態で、そういった状態には手当てが必要だ。「あなたは悪くない。あなたにはどうすることもできなかった」。

しかし、「原爆投下によって救われた」ということは、それ自体があまりに「非人間的」(冷酷、という意味で)であるがゆえ、「あなたは悪くない」と迎えられるというより、「なぜそんなひどいことを言えるのか」と断罪されてしまう(かもしれない)。それよりむしろ重大なのは、他者からの評価というより、それが「ひどいこと」であることを、本人が知っているということだろう。

あの悲惨な光景を生じさせたものによって、自分は「救われた」と感じているということ。そのことが生じさせる良心の呵責。

それを解消するために、例えば「連中はあのような目にあって当然だったんだ」という合理化が行われるだろう。戦場で敵を「サル」呼ばわりして非人間化するように。(最近は「サル」呼ばわり以上に、「テロリスト」呼ばわりがなされるが。)そうすることができず、解消されぬままになっている痛みも、もちろん、ある。

そのような、実は何が「加害」で何が「被害」なのかが見かけのようにすっきりしたものではなく、誰が「加害者」で誰が「被害者」であるかが容易に転換しうる構造の中で、「唯一の被爆国」のナショナルな神話化が進められてきたことが、「放射能」をめぐる2011年3月11日以降の態度の底にあるのではないか――『放射能とナショナリズム』はそこを考察する取り組みである。

決して読みやすい本ではない。「話がコロコロ変わっている」ように見えるかもしれない。けれども、字句を丹念に、ゆるがせにせずに読むことによって、あれとこれとをつなぐ糸が必ず見えてくる。

そういう点、「アートシアター系の映画」のような1冊だ。主体的な読みが必要だし、記述の密度が濃く、たぶん、読むたびに見えるものが変わるだろう。

3月20日の紀伊国屋書店新宿南口店でのトークイベントで、著者の小菅信子さんは「原爆に救われることは、原爆に殺されるのと同じく、非人道的なことなんです」と語った。

「人道」というのはキリスト教社会の概念で、神が何かをするのではなく、人が何かをする、という考え方(humanism: 人間中心主義。私はこの考え方について、大学の恩師によって何度も引用された渡辺一夫の著作に多くを学んだ)に根差している。つまり、「神のおぼしめし」ではなく「人の意思」。

そこに「人を救うのは人である」という言葉が存在する。

『放射能とナショナリズム』は、実際に、津波の被害にあった場所で人が何をしているかを、筆者の直接の体験として綴ったセクションで始まる。

筆者の小菅さんと同じように「被災地」に入った「目撃者」には、小菅さんと同じような災害ボランティアの人たちのほかに、見ること・伝えることのプロもいた。ジャーナリストやカメラマンといった取材者だ。

紀伊国屋でのトークは、こうして被災地に入っていた写真家のひとり、島田聡さんと、島田さんが常務理事をつとめる「日本写真家協会」がまとめた写真集、『生きる』を聴衆の間で回覧しながら、進められた。

4103005521生きる: 東日本大震災から一年
伊集院 静 日本写真家協会
新潮社 2012-02-29

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「とにかく被災地へ行き、記録をしたいという写真家が大勢いた。何十年も故郷に帰っていなかった写真家が、故郷に戻って記録をした」と島田さんは語った。私も覚えている。2011年2月、大勢の写真家が「革命」中のエジプトに入っていて、私はTwitterで彼らをフォローし、現地の、本当に現場からのツイートを私が日本語にしたもの(「博物館前に棒を持った男たちが集まっているので避けて」など)が彼らの元にも届いていた。ホスニ・ムバラクが退陣して1カ月後、彼らの多くが東北へ行っていた。

『生きる』というタイトルが表すのは、震災の後、被災の後で人は何をしているかということである。マスメディアには出ない、「ニュース写真」とは別の、人の生きるさまをとらえた写真。写真集のページを繰るごとに出てくる、協会所属の写真家がとらえた「大災害のあと」の光景には、常にそこに「人」がいる。その「人」たちは「復興」で何を回復するのか、しているのか。

写真集に掲載された写真は写真家自身がプリントし、額装してチャリティ展覧会が開かれている。展覧会ではこれらの写真は販売され、売り上げは被災地へ寄付されている(額装の代金は差し引かざるを得ないが、写真家自身へは無報酬)。

トークのとき、小菅さんは、自宅周囲にはまだブルーシートで覆われて、取り壊し作業中のハウスがあります、と述べた。この2月の関東甲信の大雪のときに小菅さんとご家族は大変な思いをなさった。ご自身が出張で東京にいる間に信じがたいような大雪が降り、お住まいのある山梨県と東京との行き来ができなくなって何日も都内で足止めを食ってしまい、ご自宅のご家族は食料の配給を受けていたということを短く語った。

誰もが、思いがけないときに「被災者」になりうる。

「被害者」になる可能性なら、多くの人もがうっすらと心に留めていると思う。交通事故に遭うかもしれない。乗った電車が脱線するかもしれない。そんなときの「万一の補償」として保険に加入している人もたくさんいる。しかし「被災者」は。

小菅さんは『生きる』の写真集から、90ページに掲載されている「すやすやと眠る幼い子」の写真を示した。島田さんの撮影である。

どのような状況で撮影したのかという質問に、島田さんは「津波に流された野田村(岩手県)で、避難所ではなく、仮設の保育所での撮影です」と答えた。

いわく、島田さんは普段から、仕事で、保育園の子供たちを撮影していた。野田村は小さな村で何もかもが流されたが、人的被害は少なかったという。人びとは高台に逃げ、そこにあった児童館が保育園として使われていた。

撮影されている赤ちゃんは2歳になっていないくらい。まだ歩けるか歩けないかくらいだったという。

その子供が、そこでこうして眠っているということは、その子を高台に運んだ誰かがいることだ。人を救うのは人である、ということ。

小菅さんは「3年経って、このお子さんも大きくなっているでしょう」と言った。

記録するということについて、小菅さんは「人がひとりひとり、自分で記録すれば、歴史に残る」と語った。たくさんの資料を見て、論文という形にまとめ、それぞれの資料について「出典を記す」のが歴史家の仕事の重要な部分である。そうして論文に取り込まれた誰かの記録は、50年後、100年後に必ず誰かが訪ねる。こうして「歴史」は「未来」に受け継がれていく。それは未来への伝言となる。

シリアで、爆撃された住宅街を、大人に抱えられている子供の写真があった。それを見た誰かが「この子が、生きていてよかったと思えるようにしなくては」ということを書いていた。その視点は私にはなかった。







いったん、ここで区切る。

※前回と同じく、本稿には、コピペによる剽窃をトラックすることを目的として、本筋に影響しないところでとてもマヌケな間違いを入れてあります。

※この記事は

2014年03月25日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 14:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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