kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年01月30日

ちょうど35年―― 1972年1月30日、デリー。

I was in Chamberlain Street behind a crowd of youths who were throwing stones. I looked across the waste ground and saw a Saracen tearing across Rossville Street. I was running back towards the flats when I heard a rifle report from William Street direction and a bullet chipped the wall above my head. Someone shouted at reporters who were running with us 'That's not a rubber bullet - report that you *****!" As I came into the courtyard of the flats I saw Fr. Daly kneel over the body of a fallen youth. there was another man with him assisting. I ran to their aid - and as I was kneeling with them at the spot, the Army fired over our heads. The bullets hit the back wall of the courtyard. When I arrived at the youth's side there was no evidence of any weapon, gun, nail-bomb, or stone.

We carried the youth up either High Street or Harvey Street to Waterloo Street. We spread out the coats and Mrs. McCloskey spread eiderdown which we laid him on. He was dead at this time. His name was Jackie Duddy.

Wm McChrystal

そのとき私はチェンバレン・ストリートにいました。若い子たちが投石をしていましたがその後ろです。空き地のほうに目をやると、軍用車両がロスヴィル・ストリートをものすごい勢いでやってくるのが見えました。団地の方に逃げ出したのですが、そのとき、ウィリアム・ストリートの方角からライフルの音が聞こえ、銃弾が壁の、私の頭の上のところに当たりました。私たちと一緒に走って逃げていた報道陣に向かって誰かが「こりゃゴム弾じゃないぞ! 記者さんたち、報道頼むよ!」と叫びました。

団地の庭に入っていくと、若い子が1人倒れていて、デイリィ神父さんが膝をついてその子の上にかがみ込んでいました。神父さんを手伝っている人が1人いました。私も助けに走りました。男の子が倒れているところで私も膝をついたそのとき、英軍は私たちの頭のすぐ上に撃ってきました。銃弾は団地の庭の壁に当たりました。私が男の子のところにたどり着いたときには、何ら武器は見当たりませんでした。拳銃もネイルボムも、石ですらもありませんでした。

私たちはその男の子をハイ・ストリートかハーヴェイ・ストリートからウォータールー・ストリートへと運びました。私たちはコートを脱いで広げ、マクロスキーの奥さんが羽根布団を広げ、私たちは男の子をそこに寝かせました。そのときにはもう息はありませんでした。ジャッキー・ダディという子でした。

ウィリアム・マクリスタル

-- 1972年1月30日、デリーでの事件の目撃者証言、Bloody Sunday Trustのサイトから

毎年のことだが1月30日である。

今からちょうど35年前の1月30日、北アイルランドのデリー(ロンドンデリー)では、非武装のデモ隊が英軍(1st Battalion of the Parachute Regiment)の発砲を受け、13人が死亡という事件が発生した(後にさらに1人が、おそらくこのときの負傷が原因で死亡)。Bloody Sunday(血の日曜日)事件である。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_%281972%29
http://cain.ulst.ac.uk/events/bsunday/bs.htm

この事件を境に、元からかなり陰惨だった北アイルランド紛争はますますひどくなった。IRAは「一部の人々がプロパガンダに乗せられているだけ」とは言えなくなるまでに参加者(義勇兵)を集めた。多くの人々が「武力で戦うほかに方法はない」と感じたのだ。これにより、「非暴力主義」のナショナリストではなく、武装闘争主義のリパブリカンが北アイルランドの政治情勢のキーを握るようになった。プロテスタント側の「カトリックの連中」への警戒心はいっそう高まって、北アイルランドという小さな地域のセクタリアンな分断は加速した。

BBCのウェブサイトのOn This Day(今日は何の日)のページで、1月30日のトップに来ているのがこの事件である。
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/30/

1972: Army kills 13 in civil rights protest
http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/january/30/newsid_2452000/2452145.stm
※当時のニュース映像あり(要RealPlayer)。デモ行進の様子、上空を飛ぶヘリ、投石にデモ隊と軍隊の対峙、ウォーターキャノン、倒れた人を引き起こそうとする人、銃声(最初の方のはゴム弾かプラスチック弾)。一番上に引用したマクリスタルさんの証言にある、白いハンカチを掲げてデイリィ神父が先導するジャッキー・ダディの搬送の場面(これは壁画にもなっている)、さらに銃撃、身柄拘束、救急車、路上の死体(布がかけられている)、銃声、逃げる人々。その後、デイリィ神父へのインタビュー(取材陣は公民権デモを取材するために現場に来ていた)。英軍の部隊の司令官へのインタビュー(「撃たれたので反撃した」、「不良連中(Hooligan element)が暴れるので秩序回復のために必要な措置だと判断した」)。

YouTubeにポストされているThe Ulster Troublesというシリーズから(このシリーズはほんとにすごい):
http://www.youtube.com/watch?v=9yxlVlAPzo4

※9分半ちょっと。最初の部分から1972年1月30日のデリー。上のBBCニュースの映像の編集前という感じ。ただ圧倒される。ハンカチで覆面をしているように見えるのはCSガス除けのマスク。

同じくYouTubeにポストされているIrish Historyというシリーズから。これは映像そのものというより状況の解説として:
http://www.youtube.com/watch?v=cJ9Sfp-_Xps

※7分半くらい。最初のほうは1971年8月からの「インターンメント」について(400人あまりが一斉拘留され、拷問を受けた)をはじめ、英軍がカトリックを標的としてどのようなことを行なってきたかの説明。3:36くらいにU2の曲がちょこっと入って、そこからブラディ・サンデーとその影響(IRAの人員拡充)。そのあと紛争がセクタリアンな色彩を強めていったことが説明され、5:53くらいからはプロテスタント側の動きで、アルスター・ヴァンガードのウィリアム・クレイグの演説(オレンジマンがいっぱい!)。そのあとは自治停止・直轄統治と、ロイヤリストのゼネストの説明。

このウェブログでも何度か書いてきたことだが、この事件が発生した直後の英国政府の調査では、「連中が撃ってきたので、軍は自衛のために反撃した」という現場にいた軍司令官らの主張が真実であると認められた。

撃ち殺された人たちの誰も武装していなかったのに、現場にいた人たちは「いきなり撃ってきた。デモ隊からの発砲やネイルボムは一切なかった」と証言しているのに、いいかげんなものだ。英軍に殺されたある少年は、倒れたときには武器の類は何も持っていなかったのに、警察の検視ではなぜか爆弾を懐に入れていたという。

非武装の一般市民を英軍エリートのパラ部隊が撃つはずがない、という思い込みと、デリーはリパブリカンの拠点で「法と秩序」が存在しない、という思い込みが絶妙なハーモニーを奏でて頭の中でとろければ、「デモ隊の中から銃撃があったので反撃した」というでっち上げの説得力は増す。現場で発砲していた兵士たちは本当にそう思っていたのかもしれない。実際に、混乱の中でIRAヒットマンが飛び出したということもあったのかもしれない。(幹部は常に安全なところにいるのだが。)

「撃たれたので反撃した」という作り事を維持するために、英国側は嘘を重ねた。現場にはネイルボムの残骸などなかったのに、「連中はネイルボムを投げてきた」と説明したりするから大変なことになるんだ。

そもそも英軍は「IRAのメンバーや未成年の不良集団(Young Hooligans)を逮捕する」ために出動していたはずだ。それが、「あちらからの銃撃があったので反撃した」という路線で、ゴム弾プラスチック弾ではなく実弾を使った。殺された人たちの多くは頭部や胸など上半身を撃たれている。撃たれて倒れていたところを至近距離からまた撃たれて死んだ人もいる。背後から撃たれて死んだ人もいる。

事件直後に下された英軍と英国政府の「結論」が公的に覆される可能性がまだ生きていることが示されたのは、1998年、ブレア政権下で新たに調査(Inquiry)が開始されることになってからだ。このインクワイアリでは兵士610人、一般市民729人、報道関係者30人、政府関係者や政治家、軍上層部ら20人、北アイルランド警察の警察官53人に聞き取り調査が行なわれた。
http://www.bloody-sunday-inquiry.org/
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/northern_ireland/2000/bloody_sunday_inquiry/

記録を読むには、CAINのまとめページが使いやすい。
http://cain.ulst.ac.uk/events/bsunday/inquiryhearings.htm

このインクワイアリの聞き取り調査は2004年に終了し、2005年の夏にも最終報告書が出るはずだった。しかしあまりに資料の量が多く、証言もあちこち食い違っているため(30年も経っているのだ!)作業がはかどらないようで、2007年の1月、事件から35年を迎えた現在でも、「報告書がいつ出せるかはわかりません」という状態のままだ。(ただ、資料はインクワイアリのサイトで誰でも閲覧できるようになっている。)

デリーという町は、特に1969年の「ボグサイドの戦い」以降、いわば「連中の根城」としてマークされていた町だ。市の中心部はプロテスタントのミドルクラスの商業が栄えており、周辺部の「ゲットー」のカトリックの連中が暴動を起こすのは商業にとって不利益、との訴えが、北アイルランド自治政府に寄せれていたらしい。

それから「公民権運動」。1971年8月に導入された「インターンメント」(今で言えばグアンタナモ式の、逮捕令状なしの身柄拘束と裁判なしの拘留)はカトリックだけを対象としたポリシーで、プロテスタント(というかユニオニスト)独占の北アイルランド自治政府のもとでほかにも法的な差別を受けていたカトリックは「インターンメント反対」などを訴える公民権(civil right)運動の中心となった。

年代を見ればわかると思うが、アメリカの黒人の公民権運動が全世界的に強いインパクトを与えていた時代のことだ。北アイルランドのカトリックは自らを「アメリカの黒人たち」に重ね合わせていた。(実際には、プロテスタントでもワーキングクラスの底辺のほうはひどい生活を送っていたというが、それでもカトリックであるかないかは職業選択など多くの場面で決定的な違いを生じさせていた。)

北アイルランド自治政府(ユニオニスト政府)は、このような公民権デモ・集会を一切禁止していた。(映画『麦の穂をゆらす風』の冒頭で、1920年のコークで「アイルランド人の集会」が禁止されていたことが描かれていたのを思い出す。この「自治政府」ってやつは、実態から見るに、南アのアパルトヘイト政府によく似ている。)

1972年1月30日のデモ行進ももちろん許可は下りていなかった。このため英語では illegal と表現されるが、これは「不法な」というより「無許可の」といった意味だ。ふたを開けてみればこのデモ行進には何千という単位で人々が集まった。主催者のNI Civil Rights Associationは参加者らに「ピープルパワーを示すために集まろう、だからこそ武装禁止、暴れるな」と強調していた。スローガンも「インターメント反対」系だけにして、IRA系のものは使うなということになっていた。

参加者は活動家ばかりというわけでもなく、地域のお祭りのような気分で参加した人たちも多かったという。中には「かっこいい人が来てるかも」という動機で出かけていった女の子たちもいた。

というわけで日曜日の午後、教会でのミサと昼食が終わったあとに集まり、カトリック地域の団地の広場から出発したデモ隊は、穏やかな雰囲気のなか人数を増やしながら市の中心部の方向へと進んでいった。彼らはデリーの旧市街の壁のすぐ外にあるギルドホール(市役所)に向かうはずだった。

しかし、軍はデリーのIRAを一網打尽にする作戦を立案し、予想されるデモ行進のルートのあちこちをバリケードと兵士で寸断していた。(軍は「公民権運動デモがあれば必ずIRAが現れて英軍相手に仕掛けてくる」と計算していた。)

デモの主催者はコースを変更したが、英軍の封鎖にキレたデモ参加者の一部が、いつもの調子で「Brits Out」の投石などを始めた。英軍はいつものごとくウォーターキャノン(上の方にある白黒映像ではわからないが紫の染料入り)やCSガス、プラスチック弾・ゴム弾で応じた。デモ参加者の多くがあちこちに散らばって退散した。たぶん、ここまでは「よくあること」だったのだろう。だが、その後が違っていた。

デモ行進が始まってだいたい1時間半後、午後4時過ぎに英軍がバリケードを超えてデモ隊の側に突入を開始した。なるべくたくさんのデモ参加者を逮捕せよという命令があった。そして、その作戦中に英軍による発砲があった。

17歳の子が英軍に背中を向けて走って逃げていくところを撃たれた。彼のすぐ前を走って逃げていたカトリックの神父(デイリィ神父)は、事件直後にBBCなどメディアのインタビューを受けている神父さんだ。撃たれた少年はこの事件の最初の死者となった。

彼のほかに17歳の子が5人、19歳の子が1人、20代の人が3人、30代の人が2人、40代の人が1人、撃たれてその日のうちに亡くなった。

50代の人が1人、撃たれたときの怪我が原因の病で数ヵ月後に亡くなった。

このほかに13人が負傷した。両腕を撃たれ、右腕は神経が切断されてほとんど使えなくなった男性や、倒れたところを軍用車両に轢かれたために不妊に苦しんだ女性がBBCの取材を受けている。胸に銃弾が当たったが、着ていた上着のファスナーのおかげで直撃を免れて命拾いした人もいる。



事件の当日、目の前で人が射殺されるのを、公民権デモに初めて参加していた1人の中学生の少年が目撃していた。少年の目の前で、倒れた人を助けに行った人々が銃撃された。

事件から25年後となる1997年の1月、その少年、Don Mullanが1冊の本を出した。事件直後の英国政府の調査では「証拠」として採用されずに無視されていた数百もの証言をデリーの資料庫から見つけだし、まとめたものだ。元々は彼自身の証言がまだ残されているかどうかを確認したくて、彼は資料庫に行ったのだそうだ。

1903582164Eyewitness Bloody Sunday
Don Mullan John Scally
Merlin Pub 2002-08-31

by G-Tools

この本は、その現場を実際に目撃した人々の証言と、事件直後の軍の調査の資料などを集めたものだ。背景解説やその後の進展なども丁寧に書かれている。初版を出して以降の補足なども充実している。証言を提供している目撃者の中には、デモに参加していた人もいれば、家の窓から見ていた人もおり、また銃撃現場の近くに住んでいたので現場まで助けに走ったという看護師(英軍兵士に暴言をはかれる)や医療関係者(マルタ騎士団)、たまたまデリーに在住していた元英軍兵士など、膨大な数の証言が集められている。

2002年、この本を元にした映画が作られ、サンダンスやベルリンで高く評価され、日本では最近廉価版のDVDも出ているが(劇場公開されなかったことは返すがえすも残念だ)、事件のことを知るためには、できれば、書籍のほうも読むべきである。
B000B84MYGブラディ・サンデー スペシャル・エディション
ポール・グリーングラス ジェームズ・ネスビット ティム・ピゴット=スミス
パラマウント・ホーム・エンタテインメント・ジャパン 2005-10-21

by G-Tools


映画はアイヴァン・クーパー議員(「公民権協会」リーダー)、ジェリー(ボグサイドに住む少年)、英軍パラ部隊の兵士、英軍司令部のパトリック・マクレランの4人を軸として構成されている。脇役でイーモン・マッキャン、バーナデット・デヴリン、フォード少将といった人物も登場する。

ジェリーを演じている俳優は、ブラッディ・サンデーで最初に死んだジャッキー・ダディ(撃たれて倒れ、白いハンカチを掲げた神父に運ばれた)の甥だという。

クーパー議員がプロテスタントで、父親はUVFの活動家だったこと、ジェリーがプロテスタントの女の子と付き合っていたこと、逮捕暦があったこと、英軍司令官が妙な立場に置かれたことなど、すべて事実だ。

そして、映画の中で、自分たちの部隊が銃弾を浴びせている相手は武器を持たない一般市民だということをはっきり把握していて、「アドレナリン出まくりだ」とにやにやしている同じ部隊の同僚たちに違和感を抱く兵士は(実際には「俺が見落としていたのか?」と思っていたそうだ)、事件直後の事情聴取では周りに話を合わせてしまうが(部隊の仲間たちを守るため・・・攻撃中止命令が出たあとも銃撃を続けていたとわかれば懲罰は免れない)、後になってから、自分が見たとおりのことを証言している。

この兵士は「Soldier 027」として知られている。97年にEyewitness Bloody Sundayの初版が出た後に、彼が事件の数年後に書いていた手記(証言)をまとめたものがアイルランドの新聞に掲載された。Don Mullunの本には、この兵士の証言が「付録7」として収められている(11ページ)。

また、ブラッディ・サンデー・インクワイアリのサイトではものすごい量の資料が公開されている(PDFがほとんど)。

例えば下記は、事件当時に英国首相だったテッド・ヒースの証言の資料。実際の証言だけを見るならCAINのサイトから見ることができるHTML@2003年1月で大丈夫だが、調査委員会に提出された資料(閣議議事録など)を見るにはPDFファイルの、KH4-1という資料を参照する必要がある。(このPDFの資料がすごい。SASについての書物を書いている人が、「武装していない人々を銃撃した」という点について、関係者に送った詳細の確認の手紙などもある。)

インクワイアリーの開設に大きな役割を果たしたBIRW(British Irish Rights Watch)のサイトの証言概要も参考になる(が、どこを見れば誰の証言があるのかが非常にわかりづらい。テッド・ヒースのはこれをはじめとしていくつか)。
http://www.birw.org/bsireports/bsione.html



少し興味深い後日談を付け加えておこう。

2004年7月に鬼籍入りしたPaul Footが、同年2月にガーディアンに書いたコラム:
The old Orange judge
Paul Foot
Wednesday February 4, 2004
http://www.guardian.co.uk/bloodysunday/article/0,,1140488,00.html

1973年8月、ブラッディ・サンデー事件の法医学的な調査を行なってきたデリー市の検視官が調査を終了した。しかし法的な結論は「死因不明」だった。検視官は「一点の曇りもなく殺意を持った殺人(murder)だ」と反駁した。

このとき、英国の国防省の法的代理人としてその場にいた新人弁護士は、検視官に「検視官にせよ陪審団にせよ、さまざまな見解を示すことは仕事ではないはずです。何しろ、最も地位の高い判事(英国政府の調査をまとめたLord Chief Justice Widgery)が20日もかけて証拠の聞き取り調査を行ない、別の結論に達しているのですよ」と釘をさした。

この新人弁護士の名前はブライアン・ハットン。1931年ベルファスト生まれ。

そうです。「イラクの大量破壊兵器」についての「証拠」は英国政府が大げさに書き換えたものだということをすっぱ抜いたBBCの報道の情報源であると特定され、2003年7月に謎の死を遂げた(「自殺」とのこと)国防省顧問の生物化学兵器専門家、デイヴィッド・ケリー博士の死を取り巻く事情についてのインクワイアリ(「ハットン・インクワイアリ」)を率いて、白々しくも、「ブレア政権は何も悪くない、悪いのはBBCとBBC記者」というwhitewashそのものの結論を出したハットン卿その人です。

なお、「イラクのWMDの証拠」についての調査は、ハットン卿のとは別に、バトラー卿のが開かれています(2004年)。
http://en.wikipedia.org/wiki/Butler_Review

「イラクのWMDの証拠」の文面を実際に読めば、誰でも「わざと大げさに仕立て上げたもの」だとわかるのに(助動詞の使い方が、無理やり作った学習教材みたいで笑える)、そこは華麗にスルーして「政府は何も悪いことはしてない」という結論を出した法律のプロフェッショナルの出発点は、北アイルランドでの英軍の犯罪(人殺し)を「犯罪ではない」と言うことにあったのです。わはは。ブラックユーモア。

ついでに言うと、ハットン卿にはこんな過去もあります。
http://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Hutton%2C_Baron_Hutton
Lord Hutton also came to public attention in 1999 during the extradition proceedings of former Chilean dictator Augusto Pinochet. Pinochet had been arrested in London on torture allegations by request of a Spanish judge. Five Law Lords, the UK's highest court, decided by a 3-2 majority that Pinochet was to be extradited to Spain. Lord Hutton led a public campaign against this decision on the grounds that Lord Hoffmann, one of the five Law Lords, had links to human rights group Amnesty International. The verdict was then overturned by a panel of seven Law Lords which included Lord Hutton


※この記事は

2007年01月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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