kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年01月27日

映画『麦の穂』と2007年1月のリパブリカン運動

"Many people within society will think that it quite ironic that if this threat is true, that someone who has spent all of his adult life in struggle against British rule and tried to bring about what is our primary political objective, ie a united Ireland, is being threatened by people who regard themselves as republicans," he said.

「この脅迫が本当だとすれば、大人になってからずっと一貫して英国の統治に対する闘争を続け、我々の第一の政治的目的、すなわち統一アイルランドを現実のものとしようと尽力してきた者が、自身を『リパブリカン』と見なす人々によって脅迫されているということは、多くの人にとっては極めて皮肉なことと思われるのではないでしょうか」

シン・フェインのマーティン・マッギネスに、警察(PSNI)が、「生命が脅かされている状態にあるので注意するように」と警告をしている、というニュースにもならないようなニュース(これまで何度あったことか)。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/6301611.stm

これとは別に、ジェリー・アダムズのところにも脅迫というニュースがしばらく前にあった。(「ニュースになるのか」と私は思ったものだが。)

今回のシン・フェイン党執行部に対する脅迫は、リパブリカンの「過激派」からのものだ。シン・フェインは今まさに、英国の「法と秩序」(つまりcourt and police)を受け入れようとしている。「自分たちを抑圧してきたもの」、ずっと「敵」としてきたものを、だ。

1998年のグッドフライデー合意(GFA)のときも、こういう軋轢がリパブリカン内部であった。GFAはアイルランドの南北のボーダーを認める内容だからリパブリカンの達成すべき目標に反する、という主張だ。その点で対立をみてProvisional IRAから分派したのが、Real IRAだ。政党というか政治組織でもこのような対立はある。(GFAの前からもある。Republican Sinn Feinを名乗る組織など。)

ただ、現在は、1990年代において警察とロイヤリスト武装組織の癒着があったこと(両者が協力関係にあったこと)が警察オンブズマンのレポートという形でオフィシャルなものになった直後でもある。ほんとに暗殺とか起きなければいいのだが、とちょっとまじめに思う。

つい先日、ジェリー・アダムズがデイヴィッド・アーヴァインの葬儀でロイヤリストのハートランドに行っても無事だったのだから、と考えたいが、こういう局面での「敵」は「同じ主義主張」の側にいる。

マーティン・マッギネスは「私は人生のほとんどをリパブリカン運動に捧げてきたのに、リパブリカンに命を狙われるとは、皮肉なことだ」と言っているが(彼はシン・フェイン党の政治家だが、昔はIRAのデリー司令部やらアーミー・カウンシルやらにいた本物の「義勇兵」である)、より皮肉なのは、そのシン・フェインが映画『麦の穂をゆらす風』を一生懸命にプロモートしていることだ。

シン・フェインの機関紙やらウェブ上のショップやらでは、『麦の穂』をしきりに「必見の映画!」と宣伝してきた。挙句の果てには、シン・フェインは「あの映画を作ったケン・ローチが読んだ本」まで熱心に売っている

シン・フェインに批判的な人たちは「金儲けのチャンスだな、フッ」と冷笑的に構えているのだが、その『麦の穂』がどういう映画だったかを考えてみれば、この皮肉は容易にわかるだろう。

『麦の穂』は、流血の停止を優先し(その真の目的が何であったにせよ)、「英国王への忠誠(Oath of Allegiance)」を受け入れてアングロ・アイリッシュ条約を結んで自由国の正規軍となったIRA(マイケル・コリンズら:映画ではテディ・オドノヴァンら)と、「世界で最も強大な国から戦争という脅迫を受けて結ばされたものが公平な条約なのか?」、「本来達成しようとしていたものはこれだったのか?」として自由国の正規軍となったIRAから分派した反条約派、つまり「IRA過激派」(ローリー・オコーナーら:映画ではデミアン・オドノヴァンら)とが、「体制側」と「抵抗し、弾圧される側」として対立していくという映画だ。

昨日まではともに「英国という体制の抑圧に抵抗し、弾圧される側」であったのに、条約が締結され英軍が撤退するや、「穏健派」と「過激派」に分裂し殺しあったのは史実である。(ただし、「両派が殺しあう」と言っても、ただ両派がテロの応酬をしたわけではなく、そこにはウィンストン・チャーチルの脅しがあった。反条約派がフォーコーツを占拠したとき、チャーチルはコリンズに「お前ら自由国の正規軍がやらないのなら英軍が連中を叩き潰す」と告げた。それは英軍がアイルランドに戻ってくることを意味した。つまり、コリンズには選択の余地はなかった。)

映画では、「英国の統治に対する闘争を続け、我々の第一の政治的目的、すなわち統一アイルランドを現実のものとしようと尽力してきた者」たちが、闘争を続けようとするなか、英国に妥協した者たちに銃殺される。

そして、ケン・ローチが制作した映画『麦の穂』のシンパシーは、根本的に社会主義思想を追求していた反条約派(デミアン・オドノヴァンら)にある。(テディ・オドノヴァンがどうしてコリンズの側についたのかは、デミアンがどうして社会主義を追求したのかとは違って、個人の思考・葛藤や感情の面からは描かれない。この映画の最大の欠点はそこ。)

なのに、現在のシン・フェインは――1922年に置き換えればマイケル・コリンズの側の立場の彼らは、「アイルランドの抵抗」(revolutionary)の映画として『麦の穂』を一生懸命に売っている。

『麦の穂』でのデミアン・オドノヴァンの教会での発言は、現在のリパブリカン運動の「周縁」の言説(丁寧に探せば簡単に見つかります)に非常によく似ている。

ただ、現在のリパブリカン運動の「周縁」は、1921年〜23年の「過激派」(反条約派)とは異なり、武装闘争を行なう資源がない。(それに、武装闘争の手段をとらない人たちもいる。)

「平和/和平(peace)」とは何を意味するのかを考えるときに、『麦の穂』の論争のシーン(こぎれいなスーツにネクタイのテディと、作業服のような汚いなりをしたダンやデミアンとの論争。女性も参加していた)を思い出せば、それはただ「殺すな」とかいった話ではない、ということが痛いような感覚を伴って実感されるだろう。っていうかあたしゃ痛いよ。ものすごく。



『麦の穂をゆらす風』、東京では2月2日までらしい。有楽町のシネカノンでは上映終了し、渋谷アミューズCQNのみ。
http://cineamuse.cinecrew.co.jp/cinema/index.php?cinema_id=385

※この記事は

2007年01月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk/northern ireland | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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