kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2007年01月14日

ガスティ・スペンス

8日に亡くなったデイヴィッド・アーヴァイン(PUP党首)にとって「メンター」的存在で、葬儀参列者として名前が挙がっていた「ガスティ(ガッツィー)・スペンス」ことオーガスタス・スペンスは、現在73歳になる。今から30〜40年ほど前、彼はロイヤリスト武装組織UVF(Ulster Volunteer Force)の指導者だった。

以下、CAINのサイトなどを参考に。
http://cain.ulst.ac.uk/othelem/people/biography/speople.htm#spence

スペンスは1933年生まれ。学歴をつけぬまま単純労働の仕事に就き、1957年に英陸軍に入る。1961年に健康状態が原因で除隊となり、1965年にUVFが復活したときにUVFに入り、パラミリタリー活動に手をそめる。(UVFは1910年代に始まり、20世紀半ばには一時途絶えていた。ちなみにオーガスタスの父親はオリジナルのUVFのメンバーであった。)

1966年にカトリックのバーテンダーを殺害したとの容疑で逮捕・起訴され、本人は容疑を否認していたが有罪判決を受けて終身刑を宣告され、メイズ(ロング・ケッシュ)刑務所に送られる。メイズではUVFの司令官となったが、1977年に考え方が劇的に変化し、和解を呼びかけ、政治目的での暴力を「非生産的である」として完全に否定するようになる。1978年にムショ内司令官を辞め、1984年12月に仮釈放。

その後、UVFは脱けたが、PUP(UVFの政治ウィング)を通じての関係は保ち、ベルファスト西部、シャンキル近辺でのプロテスタントのワーキングクラスのコミュニティで、コミュニティ・ポリティックスを育てる活動に専心する。ユニオニストの既存政党はワーキングクラスはあんまり気にしていなかったので(基本的に、ミドルクラスのための政党だから)、彼はそれも批判した。

1994年10月にロイヤリスト側武装勢力の包括的停戦が宣言されたときに、彼のロイヤリズム内での地位は確立された(停戦宣言を読み上げたのがスペンスである)。これ以降、彼はさらに「和平プロセス」を推し進め、1998年のグッドフライデー合意(ベルファスト合意)を断固として支持した。

つまり、「パラミリタリー活動」(言い換えれば「テロ活動」)の中心にいた人で、その経験に基づいて「和平(peace)」というものを考え、その実現に向けて行動してきた人物。といっても実際に表で行動してきたのは彼の下の世代――1950年代生まれのデイヴィッド・アーヴァインらの世代だが。

一筋縄でいかないというか、簡単に「わかった気」になるのがためらわれるスタンスの人物だが(それはジェリー・アダムズ、マーティン・マッギネスらシン・フェインの幹部についても言えることだ)、「北アイルランド紛争」と「和平」を考える上で外せない存在である。



デイヴィッド・アーヴァインの早すぎる突然の死は、73歳のガスティ・スペンスに大きなショックを与えている。個人的にも(アーヴァインは「愛弟子」だった)、政治状況を考えた上でも。

英デイリー・ミラーの独占インタビュー記事から。
SPENCE: I'VE LOST A SON
By Jilly Beattie
11 January 2007
http://www.mirror.co.uk/news/tm_headline=spence--i-ve-lost-a-son...

概要:
かつて、シャンキル地区とロング・ケッシュ(メイズ)刑務所でのUVFのコマンダーだったガスティ・スペンスは、デイヴィッド・アーヴァインの死を「息子を亡くした」と語る。21歳で爆弾事件(未遂)で投獄されたアーヴァインは、スペンスの獄中での愛弟子だった。

「この国は指導者を亡くした。私は友人であり息子である人物を亡くした。どうしようもないほど悲しい。」

アーヴァインの死によって北アイルランドが今後どうなっていくのかをスペンスは案じている。

スペンスは表舞台には出てこなくなっている。彼の自宅、Co DownのGroomsportの質素なバンガローで、使い込んで黒ずんだパイプをせわしなくふかしながら、彼は他界したアーヴァインの写真を見つめている。その明るい小さな瞳は眼鏡の分厚いレンズの向こうでほとんど見えないほどになる。

「デイヴィッド・アーヴァイン。私たちのデイヴ。あんなに若いのに、あんなふうに死ぬなんて。これからどうすればいいんだ? 誰が真実を語るんだ? 彼がロング・ケッシュの門をくぐった瞬間にわかったんだよ。彼は頭がいい。才能がある。それまでに会った中で最も切れる頭脳がある。」

「彼には常に全体像が見えていた。刑務所の中からでも。出所して自分の周りの世界を変えていこうとし始めたときにはなおさらだった。暴力と決別し、政治を自分の方法とした。彼のようにやってのけた者はだれもいない。」

「自分がしてきたことについての後悔が、ほかの若い連中にはこういうふうじゃいけないという気持ちを抱かせた。彼はそういうことに取り組んでいた。なのに突然死んでしまって。自分の個人的な世界は変えたし、自分の痛みは癒したが、北アイルランドを変え、北アイルランドの痛みを癒す作業はまだ途中だった。残念なことに、その作業が完成されるのを彼が自分の目で見ることはもうありえない。」

「私はもう年寄りだ。私から見れば、デイヴは若者だった。与えるものがうんとたくさんあった。こんなに早く召されるとは、アンフェアじゃないか。こんなに急に、さよならを言うこともろくにできずに。」

PUPのビリー・ハッチンソンとの会話について、スペンスは「ハッチィには、もっと笑顔を、もっとオープンに、そう仏頂面しなさんなと言い聞かせてきたんだが【注:こういうお顔】、ハッチィはハッチィだからな。デイヴはまったく違っていた。彼はだれとも打ち解けた、王様とでも貧乏人とでも。自分のことがわかっていたからな。自分に満足していたから。」

「デイヴィッドの残した業績は、そうそう多くの人が残せるもんじゃない。あとは誰かがそれを引きついで進めていってくれることを祈るのみだ。」

アーヴァインが急病に倒れたとの知らせを日曜日に受けたあと、スペンスは悲しみに打ちひしがれてしまわないよう耐えてきた。葬儀で弔辞を述べるなどしたら倒れてしまうから、依頼されないことを望む、と言い、「いつも彼が私の棺をかついでくれ、私の葬式で弔辞を述べてくれるものと思っていた。だが、誰かが順番を間違えたんだな、彼が先に逝ってしまった。」


ベルテレさん。
Decades after they met in jail, Gusty Spence remembers his protegé
Friday, January 12, 2007
By Brian Rowan
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/article2145942.ece

概要:
デイヴィッド・アーヴァインがロング・ケッシュに入ったとき、ガスティ・スペンスは「なぜここに来た?」と尋ねた。それはスペンスがすべての受刑者に尋ねていたことだった。

爆弾事件がどうのとか、判決がどうのといったことを聞きたくてする質問ではない。

なぜUVFに加わったのか?

なぜアルスターの戦争に関わるようになったのか?

次はどうする?

スペンスの語ったところでは、アーヴァインは押し殺した声でこうつぶやいたという――「傲慢なおっさんだな」。

こうして、2人の関係は始まった。

スペンスはアーヴァインの政治的なメンターとなった。2人は同じことを考え、同じことを語った。

「だが、表に出てこないデイヴィッド・アーヴァインというのがいたんだよ。人々は公の顔しか見ないが。デイヴィッドは物事について苦悩していた。だから公でない彼の顔はちょっと違っていた。私が思い出すのは、公の顔ではなく、プライベートな顔だ。」

刑務所の政治でアーヴァインは「第一線」に立っていた、とスペンスは語る。「つらい刑期だったというわけではない」というが、それは、アーヴァインは刑期としての5年の時間を、「常に理由を考え、調べて」過ごしたという意味だ、とスペンスは言う。

「才能はすぐに現れた」とスペンスは言う。つまり、アーヴァインの政治的な潜在能力はすぐにわかった、ということだ。

「私たちにとっての政治とは、可能なことについての技術だった。和解に至ることができない理由などないと考えていた。」

実際、スペンスはそれこそが唯一の終結だと、ほかに道はないのだと説いていた。

「大量殺戮とか集団移住といった話は除外していた。となれば残るは集団の和解だ。」【注:北アイルランドではカトリック側もプロテスタント側も「いやなら出て行け」という行動をとった。実際、他方からの攻撃・襲撃やいやがらせで別の土地に引っ越していった人たちも多い。現在アイルランド共和国の大統領のメアリ・マカリースは、子供のころにベルファストのカトリック住宅街から南に逃れた家族の娘である。】

今日の状況については、政治のプロセスと和平のプロセスの2つの軌道で動いている、と彼は言う。「この2つはいつか合わなければならないし、合うことになる。そしてそれは、2つの大政党(シン・フェインとDUP)にかかっている。それは奇妙な結婚になるだろうが、奇妙な結婚っていうものはこれまでにもあったことだ。片方はやる気満々といったところだが、もう一方はなかなかその気にならない。しかし私は、最終的には両者は政治的和解というヴァージンロードに立つと思うね。」

こういったコメントに、言葉遣いに、スペンスがどれほどアーヴァインに影響を与えていたかがはっきりと見て取れる。スペンスとアーヴァインは同じことを語り、同じことを考えていた。

「気の遠くなるほど昔に、パラミリタリーの日々は終わったのだと、意見が一致していた。」

スペンスは、今はロイヤリストもリパブリカンも「自身の悪魔と対峙」しているのだと考えている。「デイヴィッドはパラミリタリーとしてはろくなものにはならなかっただろう。なぜなら、第一にあいつはあまりに人間的すぎた。第二に、パラミリタリー活動の結果を見て、政治的解決をもたらそうと決意したUVFの人間と同じ考えを抱くようになった。」

スペンスは、その解決は今、これまでにないほど近づいていると確信している。

それを可能にしたものは何かを考えると、1994年の停戦にさかのぼることになる。まずはIRAが、続いてCLMC(ロイヤリスト合同軍事司令部:UVF, UDAなどロイヤリスト武装組織の連合体)が停戦した。

その後は、今日に至る長い道だった。刑務所でデイヴィッド・アーヴァインと会ってから数十年が経過している今、ガスティ・スペンスは何を考えているのだろうか。

「デイヴィッドはもういなくなってしまったが、彼のメッセージははっきりと聞き取れる。それが底流となって、(DUPとシン・フェインの)両党を(自治)政府につれてくることになるだろう。」

往年の戦士にしてアーヴァインの政治的メンターだった彼は、いま、よりはっきりと和平を視野にとらえるようになっている。


参考書籍:
1575000474Loyalists: War and Peace in Northern Ireland
Peter Taylor
TV Books Inc 1999-05

by G-Tools


from p. 44
Spence was released from the Maze prison in 1985, having served eighteen years of his sentence, and went on to play a prominent role in the UVF's political wing, the Progressice Unionist Party (PUP). It was Spence who was chosen to deliver the ceasefire statement og the combined loyalist paramilitaries on 13 October 1994 in which he expressed 'abject and true' remorse for the victims of loyalist violence. I [= the book author] asked him if that included Mrs Mary Ward [= mother of Peter Ward, a Catholic man who was killed by the UVF]. 'The most important thing to do was to apologise to Peter Ward's mother,' he said, 'and to apologise to all the mothers.' Mry Ward told me that Spence had telephoned her. 'He said he wanted me to forgive him. I said, "Yes, I'll forgive you on one condition, that you bring peace to this country, because I don't want any other mother to go through what I have gone through." ... I said, "I know it's not going to bring Peter back, but please try and bring peace here."'


「アルスター・スコッツ」というユニオニスト系のサイトでは、ガスティ・スペンスとボビー・サンズ(IRAのハンガーストライカー)の言葉を並べて紹介している。
http://www.ulster-scots.co.uk/docs/terrorism/gustyspence.htm
Guns don't win wars; guns and bombs may kill a man but they cannot make him follow their lead, nor will they ever coerce an unyielding man to yield. Everyone, republican or otherwise, has his or her particular part to play. -- Bobby Sands IRA member and Hunger striker

All warring factions must put aside their weapons. Eventually Loyalist and Republican must sit down together for the good of the country. -- Gusty Spence founder of the modern day UVF

※この記事は

2007年01月14日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | northern ireland/people | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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