確か、「長く審議をしたあとに多数決で物事を決するというのは、これは民主主義のスタートなんです。学校でもそう習う」と言っていた。発言主は二階国会対策委員長。
民主主義のスタートはそこじゃないだろ・・・orz んなこと学校で教えてんのかよ。(「長く審議をしたあとに」の部分への突っ込みは、国会議事堂の中で野党がやっているので省略。)
三省堂の『大辞林』の定義:
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?...
みんしゅ-しゅぎ 4 【民主主義】
〔democracy〕人民が権力を所有し行使するという政治原理。権力が社会全体の構成員に合法的に与えられている政治形態。ギリシャ都市国家に発し、近代市民革命により一般化した。現代では、人間の自由や平等を尊重する立場をも示す。
民主主義の「スタート」は、国王とか皇帝じゃなく「人民が権力を所有し行使する」という点にある。多数決は方便に過ぎない。
人民がその所有する権力によって選出した国会議員が「多数決がスタート」とかいうトンデモをぶちかましているこの国は美しいのことよ、ほんとにまったく。
と思って、何となくウィキペディア日本語版を見てみたら、これか!と卒倒!
民主主義(みんしゅしゅぎ)とは、個人の人権(自由・平等・参政権など)を重んじながら、多数による意思をもって物事を決める原則をいう。法律的な意味で用いる場合には、この意味にて用いられ、かかる法的概念における民主主義は、君主制などと対応する概念であり、連邦主義などとは並存するものである。
二階氏の見解は、「多数による意思をもって物事を決める」をのみ重視したものである。
しっかし、これ(ウィキペディア)もなんか釈然としないので、Wikipedia英語版を見てみる。
Democracy (literally "rule by the people", from the Greek demos, "people," and kratos, "rule") is a form of government for a nation state, or for an organization in which all the citizens have an equal vote or voice in shaping policy or electing government officials. While the term democracy is often used in the context of a political state, the principles are also applicable to other bodies, such as universities, labor unions, public companies, or civic organizations.
「多数による意思をもって物事を決める」に該当する記述が、この部分にはない。
さて、この「教育基本法改正案」(「改正」というのは原文ママ)が本会議でも参議院でも通ったら、うちらの子供たちは「民主主義」をどう教えられるんだろうね。
「教育基本法改正案」関連では、昨日(正確にはおととい)クローズアップ現代を見てて貧血を起こしそうになりつつ「はてなダイアリ」のほうで書いたものがある。かなり日本語が混乱しているが、そのまま貼り付ける。
http://d.hatena.ne.jp/nofrills/20061114/p2
[愛国心][教育基本法] 「四季のない国から来たスージーさん」は「四季のある日本は美しい」と言う。
クローズアップ現代で、都内の小学校での「愛国心教育」@道徳の授業のことを紹介している。
この授業では、「四季のない常夏の国から日本に来た留学生のスージーさん」が、「日本の四季」を知り、「日本は美しい」と感じた、と日本人のあきら君に伝えた、あきら君もそれをきっかけとして「日本は美しい」と思うようになったというお話が題材となっている。
……つっこみどころ多すぎ。
この授業を考えた教諭は「四季のない外国から来たスージーさん」という言い方をしていた。「四季のない外国」! うはは。どこだそれは。画面に出てきた「スージーさん」は金髪、おそらく白人だろう。名前も英米系だ。それで「常夏」ならたぶんハワイだろう。スージーさんの服もなんかハワイのムームーみたいのだ。ハワイ在住白人か。スージーには北米に親戚はいないんだろうか。この子はハワイで「アメリカ」のニュースを見ないのだろうか。「アメリカ」の映画を見ないのだろうか。ニューヨークのセントラル・パークの四季をまるで知らないのだろうか。
というかハワイには「季節」というものが、本当にないのだろうか。私がこの授業を受けてる子供だったら、まずここで大きな「?」を頭に浮かべていたぞ。(実際、国語の授業とかでもそういうところを質問して先生を困らせていたような記憶がある。)
1000000歩くらいゆずって、「常夏の国から来た留学生」が、「私は四季を知らない。でも日本に来て初めて四季を知った。すばらしい」という出来事があったとする。
で、そのとき彼女が「すばらしい」というのは、「四季」だろう。「日本」じゃなくて。彼女が英国に行っていたらやはり「四季ってすばらしい」と思うだろう。フランスでもスペインでも、ドイツでもカナダでもアメリカ合衆国でもトルコでもロシアでも中国でも韓国でも……etc etc。
なんでそれが「日本は美しい」という話になるんだ。
授業では1人の児童が何か反論をしたようだ(ここまで紹介された授業内容があまりにスゴかったのでしびれてしまい、児童の発言の部分はよく聞こえていなかった。残念)。それに対して教諭は「四季がないといつも同じ花が咲いている。四季があれば季節ごとに違う花が咲く」という自然現象を例にとり、「どちらが美しいか」を尋ねたようだ。
こりゃ、教育現場に「水からの伝言」が持ち込まれるのも道理だ、と失笑したよ。
http://www.gakushuin.ac.jp/~881791/fs/
んとね、「四季がないといつも同じ花が咲いている。四季があれば季節ごとに違う花が咲く」という自然現象を例にしたときに尋ねることができるのは、「どちらが美しいか」ということではなく、「あなたはどちらが美しいと思うか」である。「私は四季それぞれに別々の花が咲くほうが美しいと思う」という人も間違っていないし、「1年を通じて同じ花が咲いているほうが美しいと思う」という人も間違っていない。それは「思想の自由」だ。
で、「私は四季それぞれに別々の花が咲くほうが美しいと思う」という考えの人が、「1年を通じて同じ花が咲いているほうが美しいと思う」という考えの人を「間違っている」と見なすときに(vice versa)、「対立」が生じる。
で、その「対立」が非対称のとき、つまり立場的に上の者が「私は四季それぞれに別々の花が咲くほうが美しいと思う」と考えている場合、ないし、「四季それぞれに別々の花が咲くほうが美しいと思う」ことこそが「正しい」考え方だという前提がある場合には、その「対立」はただの「対立」ではなくなる。それは「統制」だ。でそれが「道徳」の授業で実際に行なわれている、と。
ってかそんなの「道徳心」の話じゃないじゃん。その価値判断は、liberal artsの領域でしょう。それとも何か、「どっちに神の摂理がある」とか、そういう話ですか、これは。「神の摂理のあるところに美がある」とかの。
四季おりおりの花が咲くフィオナこそが神の摂理、っていうんなら、そりゃ潜在的に「西欧列強」と呼ばれた国々の意識かもしれない。
ってかさ、「外国人が『日本の○○はすばらしい』と言った」ことが、なんでそんなに大きなことになるの? その同じ外国人が「日本の△△はおかしい」とか言った場合には、その内容は「愛国心教育」に利用されるか?
「外国人が『日本の○○はすばらしい』と言った」ことがきっかけで、自分ではそれまで考えたこともなかったことを考えるようになった、とかいうのは、ありうる話だと思う。ってか私自身にもあったかもしれない。
しかし、なぜそれが「外国人」でなければならないのか。「うちのおばあちゃんが」でもいいじゃないか。「隣のおじさんが」でいけない理由は? 「同級生の○○さんが」でないのはなぜか? 「考えるきっかけ」としてなら「小学校に留学生」という少し無理のある設定より、「身近な人」の方がずっと有効だろうに。
こういうところで「ウチとソト」をこすっからく利用して、同時に「国際化」とか「英語の使える日本人」とかやってたら、そりゃわけわかんなくもなるって。
というか、まさかとは思うが、あの授業を受けた子供たちが「外国には四季はないんだ」と思ってしまわないかどうか、それがとても心配だ。最近「外国では」という言い方はあまりしなくなってきていると思っていたが、ネットとか見てるとそういうわけでもなさそうだしね。
ちなみに、flickrでの私のcontactの皆さんは、世界各地からおりおりの「四季の様子」を伝えてくれている。「東京で桜が咲いたよ」という写真をアップすれば、ロンドンから「うはー、いいなー。うちの裏の桜の木はまだつぼみも固いよ」とかいうレスがつく。cherryのタグをつけてる写真を見て回れば、ワシントンのもあればロンドンのもある。それが「世界」ってもんだ。(例が英国か米国に偏ってしまっていて申し訳ない。たまたま実例がそうだったので。)
同じ番組を見ておられた、ウェブログ「きょうも歩く」さんは、私がしびれてしまって聞いていなかった「児童の反論」の部分を聞いておられる。
http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2006/11/1114_5a71.html
その子は、「スージーの国には美しいものはないのか。スージーの美観を無視するのはおかしい」と言ったのだそうだ。すばらしいことを言う子じゃないか。
すっげー当然のことを言っているその子に、教諭は「富士山には四季の移り変わりがあって、それをスージーに指摘されたあきら君の気持ちを聞いているんです」と強弁したそうな。(うはー、「国語」の時間の悪夢が!)
この授業には、つっこみどころが煩悩の数と同じだけありそうな気がするが、それはそれとして。
しかし「四季の移り変わりを、外国人から指摘されるまで気づかない日本人」というのも、なんかすごい幻想だよね。そこまで鈍感か、おれらは。「一雨ごとに寒くなる」とか「木枯らしが吹くと冬の到来」とか、私はこの数週間のあいだにじっくり感じ入ったが。夜空に照り輝く月を見ながら。段々高くなっていくトマトと、急に安くなったブロッコリーを見ながら。
まあ、わかりますよ、「子供でも楽に理解できる教材」の大変さは。でもね、根本に無理がある。教える側がその「無理」を自覚してなくてどうするよ。子供はね、そういうのがわからないほどバカじゃない。そういう「無理」には一応付き合っている。しかしそのうちに、「無理」を押し付けられることに辟易として、「無理」を押し付ける連中に軽く軽蔑の念を抱くようになる。いや、多くは潜在的にだが。
高校生と中学生に英語を教えていたことがあるんだが、高校生はまあ、大学受験とかいう目標があって「やらざるを得ない」という状況の子がほとんどだ(中には「英語大好き、得意科目です」という子もいた)。だから教えるのも楽だ。でも中学生相手の場合は、「この子を『英語嫌い』にしちゃいけない」というのが一番の仕事だ。
私の教えてた子のひとりは、ある日教科書を指して「バッカみたい!」と笑い出した。ケニアからの留学生が中学に来ている、という無理のある設定。しかも同じクラスにアメリカからの留学生もいる。教科書に出てくる子はみな「いい子」。まったく現実離れしていて、あるとき急に「ばかばかしくてやってられない」と言葉に出して言いたくなったらしい。
その気持ち、すっごいわかる、というのが私の本音だった。でもそれは、「英語」そのものがばかばかしいんじゃない。私にできる最大限のことは、欧州を英語を使って旅行したときのおもしろおかしい英語絡みのエピソードを、ひとりの人間として、その子に話すことだった。
学生が私の名前とか顔とかはすっかり忘れ去っても、「英語を使ってひとりの日本人が体験した世界」の片鱗だけは、学生の頭のどこかに残っててほしい。
私自身、そうやって、先生方から多くを受け継いできた。
むろん「日本語を使ってひとりの日本人が体験した世界」ってのも、先生方から多くを受け継いできているのだが。
※「多くを」というのは私の主観であって、絶対量ではない。
しかしその世界が「こう体験されるべき」と設定されていて、しかもそれが「四季の移り変わりが美しい日本」などという、ルース・ベネディクトも卒倒しそうなステレオタイプであるような世の中を、うちら大人の責任で作ってしまうのは、吐き気がするほどいやだ。
子供には、もっと「世界」のことを教えよう。「世界」ってのは何も「世界地図」に限らない。毎日の通学路だって「世界」だ。毎日通ってても見てないものなんてたくさんある。(「お散歩カメラ」するとほんとにいろんなものに気づくように。)
さて、民主主義。「民主主義は多数決なのか?」は児童・生徒の討論の材料としては非常によいものだろう。いずれにせよ、その「多数決」で民主主義がどうのこうのというのの見本みたいなのが、1923年のアイルランド自由国成立(つまりアイルランド島の南北分断)であり、1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意)後の北アイルランドの政治地図である。
















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