kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年11月05日

IRAのビデオ

このブログは北アイルランド関連の検索からおいでになる方が多いので、純粋にプロパガンダですけど、IRAの記録ビデオをYouTubeから貼り付けておきます。あまりに生々しい流血の現場などはほとんどありませんが、かなり強烈です。

特にPart 2はもろにプロパガンダですが、Part 1もPart 2も、なかなか見られない映像が含まれています。ナレーションは英語でアイリッシュ・アクセントですが、アクセントがそんなにきつくないので聞き取りはまあまあ楽だと思います(少なくともアルスター・アクセントよりは聞き取りやすいです)。

Part 1は1920年代から1981年のハンストまで。Part 2は80年代から2000年くらい(グッドフライデー合意後)までです。兵器・武器もはっきり写っています(私には何がどれというのはわからないのですが)。

The IRA - Part 1 of 2
http://www.youtube.com/watch?v=IyHroYPgM74


The IRA - Part 2 of 2
http://www.youtube.com/watch?v=wVzyxlPBRb8
(6:30くらいから後は資料にはならないですが、IRAの映像としては興味深いものです。)


YouTubeにはIRA関連映像はもちろん、ユニオニスト/ロイヤリストの映像も含め、北アイルランドの政治的主張に関する映像がかなりたくさんあります。LVFのBilly Wrightの映像もありますので、興味がおありの方は検索してみるとよいと思います。

Part 1の冒頭には狭い街路を進む「義勇兵」たちの姿がありますが、これを見ると2005年5月のコミュニケでサパティスタのマルコス司令官が「チョークでゲームの展開図を描きながら、私はドゥリートと議論している。なぜなら、伝統的な4−2−4のシステムではなく、1−1−1−1−1−1−1−1−1−1というめちゃくちゃなシステムを採用すべきだと、ドゥリートが言い張っているからである」と書いていることの意味が視覚的にわかるかもしれません。(個人的には、「インテル・ミラン対サパティスタ」のサッカーの試合の計画を記したマルコス司令官のこのコミュニケを爆笑しながら読んだときに、「バスク入れるなら北アイルランドも入れてほしー」と思ったものです。しかし、「目出し帽の春夏用モデルがハリウッドで大流行」とか「世界のサッカーに革命」とかは笑ったの何の。)

Part 2の3.30くらいから、ロンドンでのIRAテロ(90年代)の映像が続いています。これを見ると、「当時のロンドンはテロばっかだったんだな」的な感想を持つかもしれませんが、それは短絡です。こういう映像は、被害が最も大きなところだけをとらえています。私は90年代前半のIRAのロンドン公共交通機関攻撃(といくつかのランドマークへの攻撃)が最もひどかったころにロンドンに滞在していましたが、日常生活はまったく普通でした。

そういう視点は、たとえばパレスチナやイラクを見るときにも必要なことではないかと思います。つまり、ああいったひどいことと日常生活(それこそ「近所の八百屋に大根を買いに行く」ような日常も、「ダリ回顧展、○○美術館で開催中」のような日常も)は常に隣り合って同時に存在しています。

しかし1992年のバルティック・エクスチェンジの破壊は、いつ見てもすさまじいですね。
http://en.wikipedia.org/wiki/Baltic_Exchange
http://en.wikipedia.org/wiki/Chronology_of_Provisional_IRA_Actions#1990s

Part 2の4.59くらいからのところ、On the 9th February 1996, the IRA dramatically announced the end of cessation with a massive bomb in the centre of London. というナレーションが入っているところは、ドックランズ爆弾事件です。
http://en.wikipedia.org/wiki/South_Quay_DLR_station

Part 2の5.42くらいからの「囚人釈放」の場面では、画面の左端にセルティックのユニを着た人がいることが確認できます。

それから、このPart 1 and Part 2に含まれているような映像や各種静止映像(ポスターなど)のコラージュが:




どちらも同じ音楽が使われていますが、この音楽はSAM Songといいます。SAMとはsurface-to-air missileのこと。
http://en.wikipedia.org/wiki/SAM_Song

歌詞は
http://www.eirefirst.com/s.html


※この記事は

2006年11月05日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼