kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2005年12月27日

17世紀イングランド、元祖キリスト教原理主義(←キャッチコピー)

London Underground Tube Diary経由、ミンスミート・パイの歴史
1657 - Oliver Cromwell (1599-1658), the self-proclaimed Lord Protector of England from 1649 until 1658, detested Christmas as a pagan holiday (one not sanctioned by the Bible, that promoted gluttony and drunkenness). Oliver Cromwell's Puritan Council abolished Christmas on December 22, 1657. In London, soldiers were ordered to go round the streets and take, by force if necessary, food being cooked for a Christmas celebration. The smell of a goose being cooked could bring trouble. Cromwell considered pies as a guilty, forbidden pleasure. The traditional mincemeat pie was banned. King Charles II (1630-1685) restored Christmas when he ascended the throne in 1660.

1657年――1649年から1658年まで、自身をイングランド護民官としていたオリヴァー・クロムウェル(1599-1658)は、クリスマスをキリスト教以前の異教の祭日として忌み嫌い(クリスマスは聖書に書かれていないし、それを口実として暴飲暴食がはびこる)、1657年12月22日、クロムウェルのピューリタン・カウンシルはクリスマスを廃止しました。ロンドンでは兵士が街の見回りを命令され、クリスマスのお祝いのための料理は、必要な場合には武力を用いて、没収していました。がちょうを調理するにおいが問題を引き起こすこともありました。クロムウェルはパイのことを、罪深い、禁止された悦楽であると考え、伝統的なミンスミート・パイは禁止されました。1660年にチャールズ2世が(王政復古で)即位すると、クリスマスは再び元のように認められました。


クロムウェルの時代って「タリバンのような統治」がなされていたわけですね。遊び禁止、みたいな。

クロムウェルの時代、教皇を一番上とするカトリックの信仰が定着していた(上に土着宗教も混交していた)アイルランドでは強制移住&皆殺しみたいなことが行なわれていたし、その口実が「堕落したキリスト教は敵だ」だったわけですが。

ちなみにこのエントリの表題の「元祖キリスト教原理主義」ってのはキャッチコピーですが、まったくの的外れではありません。

日本語で「キリスト教原理主義」と呼んでいるものは英語ではFundamentalist Christianityで、19世紀の北米で始まったものです。対極にあったのはPapacy(法王=Popeを教会の一番上とする、つまりカトリック)

Fundamentalistという呼称は、その信仰を突き詰めようとした人たちが読んでいたものの名前、The Fundamentalsに由来します。(→オンライン版:私は読んでも理解できません。単に、クリスチャンではないので。)

The term fundamentalist, in the context of this article, derives from a series of (originally) twelve volumes entitled The Fundamentals: A Testimony To The Truth. Among this publication's 94 essays, 27 of them objected to higher criticism of the Bible, by far the largest number addressing any one topic. The essays were written by 64 British and American conservative Protestant theologians between 1910 and 1915. Using a $250,000 grant from Lyman Stewart, the head of the Union Oil Company of California, about three million sets of these books were distributed to English-speaking Protestant church workers throughout the world.
--http://en.wikipedia.org/wiki/Christian_fundamentalists


つまり、「ファンダメンタル」という連続刊行印刷物から「ファンダメンタリスト」という宗派の名前ができて、その「ファンダメンタル」という印刷物でなされていた主張が、「聖書は絶対的に正しい」「今のキリスト教は堕落している」的なものであり(つまり「聖書は絶対的に正しい」「今のキリスト教は堕落している」ってのは事実じゃなくて主張)、そういう“過激”な主張が、何を間違ったのか(<おっと失礼)、21世紀初頭の米国でものすごい力を持っている。orz

そもそも「聖書」はラテン語から英語に翻訳された時点ですったもんだがあってメルヴィン・ブラッグの『英語の冒険』の第7〜9章に詳しい)、英訳された「聖書」がほんとに「神の言葉」なのかどうかを考えたりしないんだろうか……と思ったら、Wikipedia見てたら「King James Versionだけ」なんて考えがあるのね。

そもそも聖書の英訳はプロテスタンティズムのあらわれなので、それを考えるとファンダメンタリストが英訳聖書を絶対視することには疑問はないのかも。

イスラム教では聖典(クルアーン)をアラビア語以外に翻訳したものはクルアーンそのものとは違っているという認識で、翻訳されたものは「だいたいこういう内容のことが書いてあると解説する書」扱いになってると思います。

なお、キリスト教のファンダメンタリストのことは日本語では「根本主義」といいます。「キリスト教原理主義」という用語は、他との対比で発生したもののようです。

※この記事は

2005年12月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼