kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2005年04月13日

「ロンドンのリシン事件」をコンテクストに位置づける 1

2003年1月の「ロンドンのリシン」事件(関連記事)について、コンテクストに位置づける試みをします。

当時自分が書いていたものを参照しながら進めます。(リンクをはってあります。クリックして読んでみてください。)
→(2006年8月、転記時記す)
それらをまとめたのが:
http://nofrills.seesaa.net/article/22706734.html

2003年1月、ロンドンの北部、ウッドグリーンという特に特徴もないような住宅街(知り合いが住んでたので行ったことあるんだけど)のフラットで、「リシン」という激毒物が発見された、として、何人もが逮捕された。逮捕された中に、アルジェリア国籍の人がいたことははっきり覚えている。当時私が書いたものはここにある

このときはたまたま、ロンドンで住んでたことのある通りから徒歩5分のところで「銃を持った男が2週間にわたって立てこもり」という事件が進行中で(これは一般的な事件:「テロ」ではなく)気もそぞろだったのだけれども、今となってみれば、この「リシン@ウッドグリーン」事件のタイミングは興味深い。

改めて、ちょっとまとめてみよう。

2002年9月、英国政府は「イラクの大量破壊兵器は45分で使用可能」とする文書を公開(→当時書いたもの:リンク先ページの25番)。米国のパウエル国務長官(当時)が絶賛したものだ。また、これをめぐってドクター・ケリーが死に、アンドリュー・ギリガンはBBCをクビになるということになったのだが、それはここでは深追いしない。(長くなるから。)

そして2002年11月、ロンドンで「地下鉄テロ計画が」というサンデー・タイムズの報道(→当時書いたもの:22番)。この新聞は「警察が逮捕した北アフリカ人が地下鉄で毒ガスを散布する計画だった」と報じたのだが、これが政府も即座に否定するほどの「誤報」だった。しかし私は覚えているぞ、あの日の英国の報道が、ウェブで見ている限り、crazeだったことを。

2002年12月、ブレアが軍隊に向けたクリスマス・メッセージで「諸君、準備を」というようなことを言う(→当時書いたもの:50番)。クリスマス・イヴにはブレアの官邸に中東出身の子どもたちからのメッセージが届けられたが、27日、米英軍はイラクの飛行禁止空域を空爆(→当時書いたもの:70番)。

2003年1月6日、北ロンドンのウッドグリーンのフラットの一室で「リシン」を発見、ロンドン市内のイスラム過激派とつながりがあるとされるアルジェリア人らを次々と逮捕。

1月20日、フィンズベリー・パーク・モスクに警察の強制捜査、数名逮捕(→当時書いたもの)。なお、このモスクの指導者は過激なイスラム主義では超有名人だが、2004年に米国の逮捕状で逮捕されている。

この後2003年2月は国連安保理での「新決議案」採択をめぐるかけひき、フランスへのヘイト作戦などが展開され、3月20日にイラクに対しShock and Aweの爆撃でOperation Iraqi Freedomが開始された。

しかし、この2月上旬の段階で、決定的な役割を果たした英国政府の「イラクの大量破壊兵器の証拠」の書類は、1991年の湾岸戦争のころのことをテーマとした、大学院生の論文のパクリだったことが発覚していた(→当時書いたもの)。

それでも「戦争」は行なわれ、「戦争」が「終結」したあとになってから、「あの資料は間違っていましたので撤回します」ということになり、最終的には「イラクの大量破壊兵器はなかった」という結論がアナウンスされた――「戦争」の後で。

……というのが、2003年1月を挟んだ半年の間の流れなのだけれども、話の焦点を「イラク」「大量破壊兵器」から少しずらして、「テロ」に合わせる。それも、「英国で発生する可能性のあるテロ」に。さらに、その「テロ」から、北アイルランド関連(英国の国内問題)を除外する。(ここまでの記述で既に除外してある。)

残るのは、2002年11月の「『地下鉄毒ガステロ計画』報道」(by the Sunday Times)と、2003年1月の「ウッドグリーンのリシン」だ。

「『地下鉄毒ガステロ計画』報道」は、メディアが大騒ぎしたのだが、政府はあっさりと否定した。否定はしたが、ロンドンの人々に与えたインパクトはとても大きかっただろう。

これが新聞社の「誤報」だったと素直に考えられるほど、私はナイーヴではない。逆に言えば、私はシニカルなので、これは「誤報」ではないと思う。何しろ、当時のキーパーソンのひとりが、あのアレステア・キャンベルだ。

そして2003年1月の「ウッドグリーンのリシン」……「地下鉄テロ計画」報道騒動の記憶も新しいうちに、クリスマス休暇が明けて1週間くらいで、普通の住宅街で「リシン」が発見されたのだ。

これがどのくらいのインパクトを持ちえたか――私は1995年3月(地下鉄サリン事件当時)に東京にいたからその経験で想像するけれど、“私とあなた”は「こわいよねー」と話をしあう。そして“私とあなた”以外の誰かが、とんでもない悪意を抱いているのではないかと、心の底でビクビクする。ゴミ箱がふさがれても警戒が厳しくなっても、何ら疑問を抱かず「しょうがない」と納得してしまう。

(IRAだの極右だのがロンドンではよくやっていた)爆弾テロではなく、毒ガス散布テロ、しかも地下鉄で、という“情報”は、「(IRAのおかげで)テロには慣れているロンドン市民」に新たな「恐怖」を与えたはずだ。(ロンドンは大規模な地下鉄火災を経験している。30人くらい死んだキングズクロス駅の火災。)

そして実際、政治家や御用論説者などは、「あのテロ(IRAのプラスチック爆弾)とこのテロ(イスラム過激派のdirty bomb)は違うのだ」という論陣を張っていた。

上記のまとめからはカットしたが、BBCでは2003年1月には「テロリストのdirty bomb」がかなりの頻度で取り上げられていたし、何かそれを引用してこんなニューズレターも出てるし(UKベースではないようですが)、ってかこれらの「テラー・スレット」は今どうなったんだか。

ああ、今にして思えば。

もっかい、別の点から、まとめ。

2003年3月21日に、私は「論点がずれてきている」という内容の記事を書き、いつも読んでくださってた方からいくつかご教示を受けたりもして、2001年1月から2003年3月の流れを、知りうる限り・思い出せる限りでまとめた。

そのファイルには、「2002年11月ごろ」として、
この頃からか,「イラクを武装解除する必要がある」との論調。
(英国メディア,どこを見てもdisarmの文字。最初私は北アイルランドの話かと思った)
米,ロシアなどがイラクに武装解除要請。

と書いてある。(IRA関係もこのころかなり紛糾してました。)

そして2003年1月、米大統領一般教書演説で「イラクはテロ組織を支援」と非難。この頃には「アルカーイダのテロリストの訓練キャンプがイラクにある」とかいう話があったと思う。(日本のテレビでは、アフガンの訓練キャンプの映像が「資料映像」として使われたりしてた。)

11月に報道、1月に毒物発見で逮捕、同じく1月に米大統領演説……立て板に水のごときの「テロ」へのクローズアップ。

まるで映画の台本のような盛り上がり方。「“このテロ”は怖い」というムードがどんどん盛り上がる。「そのような危険をもたらす者を見逃すことはできない」という考えが、何となく広がる。

11月の報道は事実無根だった。これは確認が取れている。

では1月の毒物発見は、事実だったのか?

当時の報道は、もちろん、警察発表だけだ。あとは「起訴されました」といった逐次のニュース。

私自身としては、フィンズベリー・パーク・モスクなどロンドン市内のラディカル・イスラム主義のことを、報道される範囲で知っていたので、そういうことがあっても不思議ではないと思っていた。特にリシンは、知識さえあれば特別な設備がなくてもつくれるということだったし、少なくとも、そのウッドグリーンのフラットに、リシンはあったのだろうと思っていた。今日の今日まで。

【つづく】

■参照記事:
http://www.globalsecurity.org/org/nsn/nsn-050411.htm

※この記事は

2005年04月13日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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