kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年08月12日

「彼ら」が育った街、ウォルサムストウ(2)

さっきのガーディアンのはなーんかイマイチだったんで、あれよりはずっとレポートとして充実しているBBCの記事。

足元で「テロリズム行為の容疑者」が、何人もまとまって発生したコミュニティ、というか住宅街の受け止め方というものを。あと、記事の後に、例によってIRAについてちょっと。(記事に出てくるもんでね。)


Terror fears in Walthamstow
http://news.bbc.co.uk/1/hi/uk/4784919.stm

ロンドン東部、ウォルサムストウの中心部では写真展が開催されている。「1000の顔」と題したその写真展は、この地域に多様な人々が共存していることを打ち出したものだ。しかし金曜日にメディアのカメラがフォーカスをあわせたのはこの写真展ではない。世界の注目が寄せられているのは、ここから1マイル離れた地点だ。

対テロ警察によって相当数の家宅が捜索を受け、いまもまだ警察が警備している。それらの家を囲むのは、心配と危惧を抱えたイスラム教徒のコミュニティである。

地域にあるイスラム系の「ダルサラーム書店」*1の店主、ジア・ウラハは、こんなことがあってまったくショックだと言う。そして、自分は、暴力に走りたくなる若者には、信仰を理解している人のところへ行って話すように言って聞かせている、と言う。「誰がこんなことをしようなどと考えるのか、まったくわからない。私たちの社会を害し、私たちのコミュニティを害し、私たちの国を害する行為に正当な理由があるなどと考えることができる人間がいるということが、とてもじゃないが理解できないですよ。」

客で混雑した書店のレジの近くに、ウラハはイスラムの学者が書いたパンフレットを積み上げている。いくつか核心に迫る問いに答えたものだ----爆弾や「大惨事を引き起こすこと」は正当化できるものなのか?

26ページのそのパンフレットは、アラビア語でびっしりと、難解なイスラムのことばが書かれているものだが、メッセージははっきりしている。すなわち、そういった行為はイスラムにおいては一切正当化されない「恥ずべき行為」である、と。

「この本を置いて2年になりますが、何百部と売れてますよ」とウラハは言う。「1000部行ってるかもしれません。老若男女、ありとあらゆる人が買っていきます。」

「問題は、信仰を理解していない場合、きちんと読んでいない場合に、最終的に、ある種の要素を選んでしまう、ということです。こういうふうにして、(過激なものに関わりを持つ)若者は迷っていってしまう。ああいう人たちは、真実を理解しなければなりません。」

ある人物は、自分は真実を知っている、と言う。逮捕されたうちのひとり、ワヒード・ザマンについて自分が見たままの真実を知っている、と。彼はワヒード・ザマンの友人である。

ワヒード・ザマンはロンドン・メトロポリタン大学の学生だ。その友人で24歳のハニフ(実名では怖いので仮名を希望した)は、このようなことが起きて心底驚いていると話す。

ハニフとワヒードはウォルサムストウでともに大きくなり、同じ学校に通った。いっしょにサッカーやクリケットをした----クリケットは全然ダメだったけど、とハニフは言う。アジア系、白人系、黒人系に友達を持っていたワヒードは、いつも「社交的で周囲に溶け込んでいるような人間」だったという。

この地域の若い男性の多くと同じように、ワヒードはモスクには通っていたが、同時に地域で開かれるタブリジ・ジャマアト(Tablighi Jamaat*2)の集会にも出席していた。

タブリジは英国のイスラム教で影響力のある一派で、若い人々の間で伝道師的な活動を組織している。社会面では保守的で、西洋的生活の過剰と見なすものごとについては、賛同者の気持ちを向けさせないようにしようとしている。例えばポップミュージックにはおおいに難色を示す。

しかしハニフによれば、ワヒードが保守的だなんていうことはありえない、とのことだ。逮捕の前の晩、ワヒードはハニフに携帯電話で、明日一緒にメシ食いに行かないか、というメールを送ってきた。

「あの人たちは誤解したんだと思う。ワヒードは大学で学生のソサイアティをやっていたから、選ばれたんだと思う。」

「釈放されたら、大騒ぎするよ、あいつなら。俺らとは違うから----弁が立つし、頭もいいし、だからきっと声を上げる。」

なぜハニフは友人がこの計画に関わっていないと思えるのか?

「ワヒードが関わっていたら、俺、気づいてたはずだ。親友ってのは、両親にも言わないことを互いに話すものだし。それに、あいつが過激なほうに行っていたんなら、なんらかの過激主義に関わっていたのなら、俺も連れていこうとしてたはずだよ。」

このようなショックを受けているのはハニフだけではない。この地域に住んでいるデレク・ステュワードは教師でクリケットの指導者で、ワヒードが小学生だったころのことを覚えている。「あの子は非常に優秀でした」とステュワードは言う。「極めて能力が高く----クリケットはどうもいまひとつでしたが。今回のこのようなことが伝えられて、実に滅入っています。あの子は本当によい子ですから。教職をつとめて48年になりますが、私にとってよい生徒といえばあの子なんですよ。」

「このエリアは多文化のエリアで、私たちはみな仲良くやっています。本当のところで人種差別主義とか原理主義と呼ぶであろうものは、体験したことがありません。コミュニティで対立する党派を作ろうという動きもありません。ここはそういうエリアではないんです。」

クイーンズ・ロードのMasjid-e-Umerモスクの周囲では、空気は一層重苦しい。このモスクの真正面にある家は警察の捜索を受けた家で、地域の人々が礼拝に訪れるなか、いまもまだ警官が残って警備している。何があったのかを語ってくれる人はほとんどいない。モスクのイマーム、ショアイブ師は、逮捕された人々は、有罪が証明されるまでは無罪であるとモスクは信じているということを強調した声明を読み上げた。

苛立たしげな顔をした年長者たちは、怒っているとまではいかないにせよ、記者たちが近くに寄ってもほとんど何も口にしなかった。しかし金曜の礼拝に訪れた若者たちについてはそうではなかった。

多くが即座に不満を表明した。逮捕があったことや(エリアが)標的にされたことだけでなく、彼らが原因と考えることについての不満だ。つまり、外交政策である。不満について質問を受けると、イラクのことがすぐに口にのぼった。

地域の現場の問題は、貧困や教育や失業であるかもしれない。しかし人々を怒らせたのは、米国の中東政策において英国が担っていると認識されている役割である。

この不満は、(今年の)地方選挙のときについに表面に現れた。元労働党所属のジョージ・ギャロウェイ議員によって立ち上げられたRespect党が立てた候補者2人合わせて1000票を獲得した*3。この地域の多くのムスリムに誰に投票したかを尋ねれば、Respectと答えるだろう。

ある若い、上品な物腰の男性は、「ムスリムはどこにいてもこういう目に遭っている。なぜこのようなことが起きるのかと考えると、なぜ英国はムスリムの地で戦っているのかを自問せざるを得ない」と言う。「こういったことについて声を上げる者は誰もいない。私の両親は恐れていて何も言わない。逮捕されてこの国から放り出されると思っている。私たちは英国人で、ここは私の国だ。私はここで育った。そろそろ私たちが声を上げるべき時だ。」

礼拝を終えたアリという名の、もうひとりの若い男性は、物事は実は見かけとは異なるのではないかと言う。周囲は賛同してうなづいた。

「どの社会にも常に過激派はいる。IRAとか」と彼は言った。「だがこれは違う。人々が逮捕され連行され、それから釈放される。疑惑が事実無根だから。僕は彼らのことを知っている。だから、彼らがやったとされることを聞いても、信じない。僕たちは、人生とか家族とか勉強とかの成長痛に何とか対処しようとしているだけだ。」


最後に「IRAとかの過激派はどの社会にもいる」という前置きで、「しかしとりあえず逮捕・連行しては釈放というのはおかしい」という意見が出ていますが、うーん、「とりあえず逮捕・連行しては釈放というのはおかしい」のはもっともなのですが、英国(<もちろん北アイルランドを含む)でそれが一番ひどかったのがIRAに対してなんですよね。。。

若い人だから知らないんだと思うし、ひじょ〜〜〜に複雑な気分になりますが、WikipediaでOperation Demetrius, or Internmentの項を参照。もちろん私もリアルタイムで知ってるわけではないのですが(知ったのはほんの2〜3年前かな)、アイリッシュを見たら拘束・連行するというようなことが、北アイルランドでは常態化していた次期がありました。その作戦が「デメトリウス作戦」。『ホテル・ルワンダ』のテリー・ジョージ監督も1971年に逮捕・投獄されていますが(INLAでの活動の疑いで)、このオペレーション・デメトリウスでのことかもしれません。(拘束の正確な日付が書かれたソースが見当たらないので、実際にどうなのか、わかりませんが。)

1971年8月から75年12月まで行なわれていたこの「作戦」で拘束された人数は1,981人、うち1,874人がアイリッシュ・ナショナリスト(IRAおよびINLAメンバーなど)、107人がユニオニスト(UVF、UDAメンバーなど)。つまり「カトリック」が1,874人、「プロテスタント」が107人。参考までに、両者ともそれぞれそれもんの組織を有し、それもんの活動(IRAの言うところの「武装闘争」に相当するもの)をしていました。プロテスタント側にそれもんの組織があった(というか今でもある)ことすらほとんど語られないのですが、プロテスタント側(ユニオニスト)はイングランドで「テロ」行為を行なわなかったというだけです。映画『プルートで朝食を』で、キティの住んでいた村で自動車爆弾が爆発しますが、あれは誰によるものか明示されていません。うっかりしてると「IRAの爆弾」と解釈しそうですが、おそらくそうではない。(「誰の爆弾であったにせよ、あれがキティを動かしたことに変わりはない」というのがニール・ジョーダンの意図であるため、明示されていないのだと思います。)

「デメトリウス作戦」のとき治安当局が何をしたかというと、とりあえず(=嫌疑不十分でもなんでも)つかまえて放り込んで、「5つのテクニック」と呼ばれる「苛烈な尋問手段」を用いて、拘束した人から情報を引き出そうとした。その「苛烈な尋問手段」には、頭から袋をかぶせる(感覚遮断)、睡眠を剥奪する、などが含まれます。これはイラクのアブ・グレイブの「虐待」と同じですけど、どう考えても「拷問」で、ただ、「拷問」というものはそれが存在するだけで法的にマズいことになるので、当局がそう呼ばず、そう呼ばせなかっただけ。いまも、英国内のベルマーシュとかパディントン・グリーンで何らかの「苛烈な尋問手段」がとられているんではないかという危惧はあります。

つか、ど真ん中でこの映画だわね、こういう場合は。
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1974年、ロンドンでIRAのテロによる爆破事件が起き、その犯人としてアイルランド人の不良青年ジェリー(ダニエル=デイ・ルイス)や、その父親ジュゼッペらがいわれなき罪に問われ、投獄されてしまった。……略……事件の解決と世間への体面を気にするあまり、その後明らかになった真相をもひた隠し、彼らを犯人に仕立てた警察や、それをう呑みにして彼らを激しく非難するイギリス大衆のアイルランド人差別といった、人間の醜態が赤裸々に暴露されていく……(的田也寸志)


もちろん、そういう目に遭っていたからって、IRAの爆弾は「正しい爆弾」「正義の爆弾」だったというものじゃありませんけど、事実としてそういうことがあったってことは前提にしておかないと、「これはIRAとは違う」論がどんどんふくらんでいってしまう。これはあらゆる点でまずいと私は思います。

IRAのテロも、「イスラムの流血への義憤」をカタリストにしたテロも、本質の部分で違いはありません。「武力による統一アイルランド達成(英国の植民地支配からの解放)」を目ざしていたIRAは「800年にわたって虐げられてきたアイリッシュ」を掲げることで、アイルランド島では義勇兵を集め、北米では資金を集めた。これが「アフガンやイラクやパレスチナの同胞の苦しみ」によって人や資金を集めるのとどう違うのかといえば――後者はそれが世界的に知られている、という点は違うかもね、というところでしょうか。

あと、上記BBC記事の最後の若い人とは反対の立場(つまり何気なく「イスラモファシスト」とかいうひどい言葉を使うような人たちとか)からも「IRAは特別」というか、「IRAは“奴ら”とは違う」みたいな論が時々出るんですがね、これは冗談言っちゃいけねぇってシロモノで・・・。

IRAが、武装闘争だけじゃなく議会に議席を得て、という方向(Armalite and ballot box)になったのはジェリー・アダムズの考えと力が大きかったのだし、そこから1998年のベルファスト合意(グッドフライデー合意)や、昨年のIRA活動停止&武器放棄が始まった。で、ジェリー・アダムズって人は、それまでまったくの「敵」でしかなかった英国政府やユニオニストを「交渉相手」と位置づけた人で、一方の英国政府やユニオニストも、彼を「交渉相手」と見なした。そこから話が始まったわけです。(ユニオニストの一部は、今でもジェリー・アダムズのことを「テロリスト」と呼んでいるけれども。)

イスラエルの「ハマスはテロリストだから逮捕」とか「ヒズボラはテロリストだから殲滅」とかってことを、英国は、北アイルランドでは、やったりやろうとしたりしたこともあったけれども、最後はやめた。それが「和平」の実現に大きく寄与した。北アイルランドではその「和平」というか「平和」(英語ではどっちもpeace)の形式ではなく内容を問う根強い取り組みがなされているし、内容を問うことはとても重要なことだけれども、こういう機会じゃなくて別の機会にちゃんと書くべきことだからここでは書かない。(ってか前にちょこちょこ書いてはいるけれども。)

ということで、
1)義憤から、無茶苦茶な行為に出る
2)警察が、あるエスニック集団を標的として捜査などを行なうことで、ますます怒りが増大する
ってのは、「イスラム教徒によるテロ行為」に特有のことではないし、
3)そういった「テロリスト」たちは殲滅する以外に対処法はない
ってのは、power of nightmareの言辞である――ということを英国は北アイルランドでよ〜〜くわかっているはずなのに・・・という怒りは、英国やアイルランドにはあって当然だろうと思いますが(あるいは、いまはバスクもかな?)、「IRAはこんな目にはあっていないだろう」的な見方も、「IRAは自爆しないからイスラムとは違う」的な見方も(<こういうのがほんとにあるから参る)、どっちも、著しい事実誤認に基づいた浅薄な見方でしかないです。たとえそれが床屋談義でも井戸端会議でも、そんなもので「テロリズム」を語ったような気になるな、と。

それ以前に日本だとなぁ・・・、新聞とかを見る限りでは、日ごろからIRAですらほとんど記憶されてやしないし、ロッカビーなんて「ロ」の字も出ないもんね。アメリカの高官が「飛行機を用いた攻撃であるとの点からアルカイダとの共通点を指摘」とかって、おいおい、客室内に爆発物を持ち込むという手段は「攻撃」ってか「爆破」だ(米政府による言葉遣い、要注意です)、んなら連想されるのは、WTCじゃなくってロッカビー、あるいは少なくとも大韓航空機じゃないのか、というツッコミを入れてくれといわんばかりなんだけど、ツッコミもろくになさそうな雰囲気だし。。。(あ、金曜日はテレビのニュースを見ました。)

※あと、IRAについては、正確に書こうとすると話がややこしくなるんですけど、ここでは1969年以降の(Provisional IRAおよびその分派)に限定。1920年代のIRAは、大雑把には、同じ名称の別の組織なので注意。

訳注:
*1:
ダルサラームDarussalamはブータンの国名にも入っているが、 「平和な土地」という意味の語。なお、同書店のサイトによると、ロンドン支店があるのはE17ではなくE10、といっても両者は隣接しているので、道をまっすぐ行くだけである。

*2:
http://en.wikipedia.org/wiki/Tablighi_Jamaat
報道で「アルカーイダ系」と言われているのは、おそらくこの組織というか団体のことではないかと思います。(推測。)

*3:
英国の地方議会選挙では、数千票で確実に当選する。詳細なデータを参照したくてBBCのelection 2006を見てみたが、各候補者の得票数のデータはなかった。local election 2006についてのはてなブクマを見ても、Respectについては特に注意していなかったので(私の関心はBNPにあった)、何らメモがない。orz

※この記事は

2006年08月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 21:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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