kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年08月12日

「彼ら」が育った街、ウォルサムストウ

10日の、「航空機爆破計画発覚、容疑者20名超を逮捕」で逮捕された人々の氏名と生年月日、大まかな住所が、11日のBBC記事に出ている。

'Air plot' suspects: Names released
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/4782343.stm

1980, 1982, 1979, 1984, 1981, 1978, 1977, 1986, 1989... ひとつだけ1970という数字があるが、「いいトシ」なのはそれだけだ。(1989年生まれだとまだ17歳だから、通常英国では氏名は明らかにされないはずなのだけれども、今回明らかにされているのはなぜだろう・・・Terrorism Act関連かも。)

さらに、逮捕された彼らのリストで顕著なのが、「London, E17」という住所が多いことだ。地名でいえばウォルサムストウ。

「East 17 (E17)」ってボーイバンドが90年代初頭に売れたことがある。ロンドン東部、郵便番号E17の地域の出身の子たちによるアイドルグループ(SMAPというよりDA PUMPみたいなの)で、アルバムのタイトルは確かWalthamstowだったと思う。「ワル」のイメージというか、白人の労働者階級というアイデンティティを全面に出していた。で、楽曲の典型的アイドル節のキャッチーなメロディは一度聞いたら頭をぐるぐるしやがり、わたしはあの時代の記憶とともに、その曲を覚えている。※ウィキペディアを見てみたら載ってるし。なんか再結成とかしてるみたいだし。

といっても、別にそのアイドルグループのせいでWalthamstowという地名を覚えたわけではない。Walthamstowにはウィリアム・モリスの旧居があり、そこが「ウィリアム・モリス・ギャラリー」として公開されているのだ。

ウォルサムストウってのは地下鉄のヴィクトリア・ラインの終点で(Walthamstow Central)、都心の博物館・美術館と異なり、「よっしゃー、行くかぁ」と気合を入れないと、まず行けない。んで、旅行中のある日、よっしゃーと行ってみたわけだ。しかし、駅からてくてくと歩いて到着してみると臨時休館。しょうがないので近くにあった公園で、アヒルを見て帰ってきたのだ。観察はモリスの基礎だ、と言い聞かせて。

それは3月の週末の暖かい晴れた日の午後のことで、アヒルたちのいる池の周りには、子供からお年寄りまで、地域の人たちがたくさんいた。失意のどん底の私がほけーっとアヒルを見ている隣で、幼い子供がきゃあきゃあと声を上げてアヒルに触ろうと手を伸ばし、少し年長の子供が「ふっ、これだからガキは」といった顔をして、それでもお兄ちゃんらしく、幼い子供が転ばないように見ていたりしていた。そばには祖父らしき人がいて、「あれはメスだ」「これはオスだ」と、お兄ちゃんのほうに教えていたりした。おじいちゃんの方とは二言三言ことばを交わしたかもしれない。(それとも別の人だったか。)「ギャラリーに来たんですけどね、休館で」、「それは残念だったね。でも世界の終わりじゃないよ」みたいな。(<わたし、そこまで打ちのめされた顔してたらしいです。)

今回逮捕された人たちの中には、あの子供と同じくらいの年齢の子が含まれている。

ただ、あの公園には、アジア系の人はいなかった。

この一帯は20世紀になってから本格的に住宅街として開発されたので、ロンドンの都心部からゾーン3にかけてはほとんど見られない、アール・デコの建築物が多いことでも知られているのだけど、基本的には、工場街で労働者が多く、組合が強く、労働党の地盤という感じの場所だ。そういったことはWikipediaに詳しく書かれている。(こりゃ、Rough Guideばりだね。)

以下は12日のガーディアン、「ともに信仰心を極端に高めていった、ごく普通の友人たち」の概要。この、何の変哲もなさげな、人種・文化的にmixedな郊外が、こういうかたちで「トップニュース」の舞台となって関心を集めているのは英メディア全体でのことで、同じような記事はBBCにも出ている。BBCよりガーディアンを先に読んだので、とりあえずガーディアン。なんか、あんまりまとまった記事ではないし、ロンドンなど英国の都市のmixedなエリアのことを知らない人が読んだ場合に何がどう伝わるのかわからない記事だけれども。

Ordinary friends who grew devout together
http://www.guardian.co.uk/terrorism/story/0,,1843077,00.html
Paul Lewis and Sandra Laville
Saturday August 12, 2006

子供のころ、彼らは学校まで数百ヤードの道を、毎日一緒に通っていた。午後3:15になるとダッシュで下校して、通りでサッカーボールを蹴ったり、その辺の店で駄菓子を買ったりしていた。10代になると、そこら辺の若者と同じようなことに興味を持つようになった。プロ・サッカー、異性、ファションに音楽。そして20歳を過ぎ、彼らはともに信仰心を極端に高めていった。

航空機爆破計画の焦点のひとつとして昨日浮上したウォルサムストウでは、逮捕された9人を知る人々は一様に、彼らは特に目立つような生活をしていたわけでもない、ごく普通の子たちだと言う。

逮捕された19人のうち13人が、ロンドン東部に住所を有している。そしてそのほとんどが、半径500メートル以内に固まっている。小石を埋め込んだモルタル仕上げのテラスト・ハウスが並び、イスラムの書店や食料品店、アジア方面の航空券を販売する旅行代理店が散在するこの東ロンドンの地域では、10人[原文ママ]はよく知られた顔だった。ほとんどがシャルワール・カミーズ(訳注:パキスタンやアフガニスタンなどで男性が着ている写真がよく新聞などに出る、丈の長い服)を着て長いひげを生やし、クイーンズ・ロードのモスクで1日に5回のお祈りをしていた。数年前、この同じ通りでは、現在は禁止されているイスラムの団体al-Muhajirounもまた、よく見られた。

逮捕された者たちの中には、兄弟が2組いる。22歳と25歳のフセイン兄弟と、同じく22歳と25歳のカーン兄弟だ。カーン兄弟の兄の妻と赤ん坊もまた、身柄を拘束された。

ウォルサム・フォレスト・イスラム協会のスポークスマン、イムティアズ・カディールは、「彼らはごく普通の英国の子たちだ。サッカーが好きで、ムスリムとして信仰を実践し、伝統的な服装をしていた。いい子たちだった。こんなことをするなんて考えられない」と語る。

9人のうちで最も仲がよかったのは、24歳のムハンマド・ウスマン・サディクと、22歳で医学を学んでいるワヒード・ザマンの2人だろう。2人はこのエリアで一緒に育ったが、性格はまるで違っていた。サディクはストリート・ギャングに入ったりビザ屋で働いたりと、順調とはいえない日々を過ごしてきた。一方のワヒードはロンドン・メトロポリタン大学でイスラム協会を主宰し、ハムリーズでバイトをしていた。(訳注:ハムリーズはロンドン都心部にある名門の玩具店。テディ・ベアで有名。ここでバイトするってことは一種のステータス。誰でもできるわけじゃない。)

2人のうち、傍目から見てはっきりと宗教と政治に身を入れていたのは、ワヒードのほうだった。記事でフルネームを出さないとのことで取材に応じたワヒードの友人のモハメドは、ウエスト・ヨークシャーのデューズベリに英国の拠点を置くイスラムの布教団体、Tablighi Jamaatが運営するイスラム教キャンプに、ワヒードと一緒に行こうと考えていた、と明かした。デューズベリは2005年7月7日の爆弾犯のひとり、モハメド・シディク・カーンの出身地である。

米国(の当局)は、この団体はテロリズムと関係していると信じている。しかし団体はこれを否定している。

モハメドは、キャンプはテロリズムとは関係のないものだと言う。「週末に行ってみようかという話になっていたんですが、キャンプではイスラムの美について話をするだけです。音楽を聴いたりガールフレンドを作ったりすることは許されない、と教えます。平和/平安を教えるだけです。キャンプでは徴募の活動などは行なわれていません。警察による混乱はこれまでにもありました。」

だがワヒードは常に信仰で行動していたというわけではない。10代のころは彼も友人たちも、イスラムの教えよりも、クラブやデートに熱心だった。

「彼女にするなら白人だよな、ってみんな言ってました。ワヒードは女の子に言い寄ってました。誰でもするでしょ? でも3年前ですが、彼も僕も同時に、前より多く祈るようになって、ひげを生やした。神の約束のほうが、白人の女の人が与えてくれるものよりもよい、ということに気づいたんです。名声やお金への欲を永遠に追っていても何にもならない、と気づいたんです。」

クイーンズ・ロードの商店主の多くが、ワヒードのことはよく知っていると言う。物静かだったが長いひげと服装でよく知られていて、コミュニティでの活動に熱心だったという。

「若いのがちょっと荒れたり暴れたりしている場合に、モスクに行って宗教のことを考えろとアドバイスするような人物だった。若いのとも年長者とも、誰とでもうまくやっていける人間で、一目置かれていた」とある商店主は言う。

別の友人によると、サディクのほうはグループでは「あいつはなー」的存在だったという。「あいつは、ま、反逆精神の人間(rebel:トラブルメーカー)っていうか。最初は暴れてたわけだけど、それからイスラム教に目覚めて、深く入り込んでいった。次はモスクに行くのもやめて、また暴れだしたんだけど、最近になって今度はまた宗教のほうに行った。」

「あいつが暴れてたときはよく話をしたよ。地元の連中とつるんでた。最初に宗教に行っちゃってたのは3,4年かな、でまた暴れだしたんだけど。」

……以下、最新の状況についての記述が続く……


文中に出てくるal-Muhajirounについては、Omar Bakriで検索すると具体的なことがわかります。

地図を見ると、Queens Roadはウォルサムストウ・セントラル駅の南西、ウィリアム・モリス・ギャラリーとは駅の反対側です。「欧州一の長さ」のウォルサムストウの路上市のあるHigh Streetからもさらに南。ウォルサムストウ・セントラル駅とハックニー・マーシュの中間地点くらいですかね。ハックニー・マーシュの少し東がレイトン(Leyton)です。

Waheed Zamanが通っていたLondon Metropolitan Universityは、2002年にLondon Guildhall Universityとthe University of North Londonが合併してできた大学。元はポリテクで、医学に関連する学部はコース一覧ではBiomedical ScienceとかMedical Biosciencesだけかな・・・ガーディアンにはthe popular young medical studentと書かれているのだけど、ちょっと不正確ですね。

■日本での報道:
「英テロ計画 ロンドン北東部に容疑者5人居住 住民ら困惑」 毎日新聞 - 8月12日13時30分更新
ウォルサムストウの容疑者宅周辺は中流階級が多く落ち着いた住宅街だ。モスクはあるがアラビア語の看板は少ない。ポーランドや中国やタイなど「20カ国語以上が話される」(近所の住民)地区のためイスラム教徒の行動もリーズほどは目だたない。

※この記事は

2006年08月12日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 17:51 | Comment(0) | TrackBack(1) | todays news from uk | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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「彼ら」が育った街、ウォルサムストウ
Excerpt: 10日の、「航空機爆破計画発覚、容疑者20名超を逮捕」で逮捕された人々の氏名と生年月日、大まかな住所が、11日のBBC記事に出ている。 'Air plot' suspects: Names rele..
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Tracked: 2006-08-12 21:15





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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