kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2006年07月27日

『ブナ林便り』のアーカイヴ

今月半ばに、運営者さんのご病気のために更新がお休みになった(ムジュウカラさんのブログを参照)ウェブサイト、『ブナ林便り』のアーカイヴが公開されているとのお知らせを、運営者さんからいただきました。

http://rootless.org/goloh/

「日付毎」の文字列をクリックすると、「2004」、「2005」、「200601」といったフォルダが表示されます。その先も、見たい日付(「2004年12月8日」であれば「20041208」)が出るまでクリック。日付のついたリンクをクリックすると、その日の『ブナ林便り』が表示されます。

『ブナ林便り』さんでは、このブログも、また私がやっている別のブログ(イラク関連)も早くからご紹介いただいてきました。

当方を紹介していただくことによって、当方でも『ブナ林便り』さんを閲覧し、『ブナ林便り』さんから別のサイトやブログを閲覧し……というようにして知ったことは、とてもたくさんあります。特に、ムジュウカラさんも書かれていますが、世界のマンガの紹介は楽しみにしていました。

現在は入院中かと思いますが、運営者の吉田悟郎さんのご快癒を心よりお祈り申し上げます。

お休みに入られるときの吾郎さんの言葉:
みなみなさまには生きた世界学習、自分を含んだ いまも壊され試行されつつある世界史(それは学校とかメディアのなかにある ひからびた ありきたりの 過去の「世界史」のことではありませんよ くれぐれも・・・)の学習を自主的に継続していかれることを願い期待します。


「世界史」が「暗記科目」だと思っている高校生だったこともある私には、悟郎さんのおっしゃる意味が、「暗記科目」だと思ってたこともあるからこそ、少しはよくわかるような気がします。かといって、私に何ができるかっていうと、なんですが。(^^;)

※この記事は

2006年07月27日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:28 | Comment(0) | TrackBack(1) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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「ブナ林便り」運営者さんご退院
Excerpt: この7月半ばにご病気の治療のため、入院なさった「ブナ林便り」の運営者の吉田悟郎さんから、退院なさったとのメールをいただきました(21日)。 ご静養のため、「ブナ林便り」の更新は、これからもしばらくお..
Weblog: tnfuk [today's news from uk+]
Tracked: 2006-08-21 23:39





【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼