kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2011年06月19日

【訃報】国会議事堂前のブライアン・ホーさん

昨年9月、トニー・ブレアが回想録を出したときに、次のように書いた。
http://nofrills.seesaa.net/article/161388346.html
ロンドンのウエストミンスターの国会議事堂の前の芝生のスペースに座り込んで抗議行動を続けているブライアン・ホーさんという男性がいる。彼は「イラク戦争に抗議して」と説明されることもままあるのだが、実際に彼が座り込みを開始したのは2001年6月、イラク戦争どころか、9-11の前だった。行動を開始するほどに彼が強く抗議したのは、イラク戦争ではなく「対イラク経済制裁」だった。

彼の行動はニュースになったし、彼のテントとその周辺に集められた支援者からのアートワークなど(バンクシー含む)が警察によって強制的に撤去されたときには大きなニュースになったし、そのときに撤去されたアートワークが現代美術家によって再現されてテイト・ブリテンで展覧会がおこなわれたときも大きなニュースになったが、それでも、トニー・ブレアは回想録で「英米が主導し、国連が実施した対イラク経済制裁」を無視する。

この「権力者による無視」に対し、常に抗い続けていくということは非常に大変なことだ。常に圧倒的な無力感と戦わなければならない。

そのブライアン・ホーさんが、18日、亡くなった。今日(19日)の午後、TwitterでBrian Hawという名前がTrending Topicsに入っていたので、パーラメント・スクエア(国会議事堂前の芝生のスペース)での抗議行動と警察による排除をめぐる裁判で進展があったのかと思ったら、訃報だった。62歳。肺癌だった。

ホーさんのご家族や支援者のサイトに、最後の映像と思われるもの(部屋でのギター・セッション)を添えて、告知が出ている。
http://brianhaw.tv/index.php/blog/746-19062011-joint-press-release-brian-haw-january-7th-1949-june-18th-2011

タイミングが合ったので、Twitterで最初の訃報まで遡ることができた。Chirpstoryにまとめてある。有名な人たち(議員やジャーナリスト)のもおおかた入ってると思う。サリー・バーコウとかジェレミー・コービンとか、BBCなどの記事のネタになってる「コメント」がここにある。故人と意見を異にする人たちも「彼の決意の固さと信念には敬服していた」など、それぞれに追悼の言葉を寄せている。
http://chirpstory.com/li/1791

パーラメント・スクエアの抗議行動が最もしっかりしていたころの写真で、Banksyが寄贈したボード:
Petrol Banksy
Photo by Patrick John Quinn (All rights reserved)

Brian Haw
Photo by melfeasance (All rights reserved)


*a CC licensed photo by Seb*[Non Monsieur!], Taken on May 9, 2006

ブライアンのこの「キャンプ」のプラカード類は今から5年前(5年も経つのか)の2006年5月、深夜に警察によって撤去された。

In the early hours of 23 May 2006, 78 police arrived and removed all but one of Haw's placards citing continual breached conditions of the Serious Organised Crime and Police Act 2005 as their reason for doing so.
http://en.wikipedia.org/wiki/Brian_Haw

以後、ブライアンはこれら撤去されたプラカードの所有権を主張し、当局と法廷で争い、最終的に勝った。その一連の経緯を、アーティストのMark Wallingerは記録していた。彼はブライアンのキャンプを、現場から数百メートルしか離れていない美術館、テイト・ブリテンの中に再現するという「作品」を作り、これで2007年のターナー賞を受賞した。

パーラメント・スクエアでの撤去と、テイト・ブリテンでの展示と撤収、警察の倉庫でプラカード類と再会したブライアンの映像をコラージュした、マーク・ウォリンガーの映像作品がYouTubeにアップされている。3分50秒。

http://www.youtube.com/watch?v=TteVn5aczXg
※「埋め込み無効」に設定されているのでYouTubeで見てください。

ブライアンは非常に「濃いキャラ」の人だったようだが、陰謀論・疑似科学方面への傾きが以前からあったのかどうかは私は知らない(元々福音主義のキリスト教の人だそうだが)。ウィキペディアを見ると、今年1月に治療のためドイツに渡っていたそうだが、その資金はデイヴィッド・アイクが出していたそうだ。また、肺癌は随分前からかかっていたようだが、放射線と投薬のコンボという通常の医療は受けず、代替医療だったようだ。

今年3月、スクエアの所有者であるロンドン市当局が裁判で勝ち、ブライアンら抗議行動参加者は芝生から締め出され、周囲の狭い歩道にテントを張ることになった。曖昧な記憶だが、確かウィリアム王子の結婚式にあわせての対処だったはずだ。(このスクエアは、ホワイトホールとウエストミンスター橋のある通りの交差点の真ん中の浮島で、すぐ南側は結婚式の行われたウエストミンスター・アベイだ。)

そのスクエアがどうなっているかの写真。今年6月7日に撮影されたもの。

Peace protest camp in London
※A CC photo by Leonora Enking (CC BY-SA 2.0)

訃報があってすぐに書かれたジャーナリストのポール・ウォーの記事。
http://www.politicshome.com/uk/article/30140/why_haw_started.html
while many people know Haw for his opposition to the Iraq war (and latterly Afghanistan war), what's less well known is the original reason for his protest*.

When he first fetched up on Parliament Square's green sward, way back in 2001, Haw's placard was all about children dying from sanctions in Iraq.

And believe it or not, he and Tony Blair were (unwittingly) actually of like mind on the subject.

Even before 9/11, Britain and the US could see that the UN sanctions regime wasn't working. Saddam was screwing the system so that funds intended for medicines for sick children were actually diverted to line the pockets of the regime.

Blair revealed in his Chilcot evidence that he decided to lobby for a switch to 'smart sanctions' after Clare Short kept telling him that the blunt system had left Iraq with a worse child mortality rate than Congo. ...

Yet attempts to change to a 'smart sanctions' system were repeatedly blocked by the Russians and the French. ...

ポール・ウォーはこの記事で、「ブレアは経済制裁をより実効性のあるものにしようとした」ということを述べているが、それはブレア自身の考えというよりクレア・ショート(国際開発大臣)や外務省の考えで、ブレアは「政権に関係のない犠牲が多い」ことより「サダムに効果がない」ことを憂慮していたはずで、その点、かなりミスリーディングな記述であると思う。

しかし、10年が経過し、全然変わってないというかますますおかしな方向というか、フランスなあ……リビアにはNATOの空爆、シリアの虐殺には積極的に動く感じでもなく、バーレーンの人権侵害(公民権運動弾圧)は見てみぬふり(まあ、バーレーンは影響力的には、フランスではなく英国のテリトリーだ)。

※この記事は

2011年06月19日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼