kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2010年08月16日

「憎悪は毒物です。人を内部から焼く火です」――自宅への砲撃で娘3人を殺されたイゼルディーン・アブルアイシュ医師

何も言わずに、下記のURLをクリックしていただきたい。Flashで「楽しそうな家族の写真」のスライドショーが表示されるはずだ。
http://www.daughtersforlife.com/

このスライドショーの中では、秋っぽい服装の女の子たちとそのお父さんが、青い空の下、きれいな砂浜で楽しい時間を過ごしている。女の子たちは波打ち際で水と戯れ、砂浜に自分たちの名前を書いて微笑んでいる――Bessan, Mayar, Aya, それぞれ21歳、15歳、13歳。



写真に写る海は地中海で、この砂浜はガザ地区にある。

これらの写真が撮影されたのは2008年12月。その2ヶ月前、彼女たちはお母さんを急性白血病で亡くしていた。

写真の中で白いシャツに黒い革のコートを着たお父さんは不妊治療の名医で、ガザ地区北部のジャバリヤ難民キャンプ(1948年のイスラエル建国の際に無理やり故郷を追われたパレスチナ人が住む町であり、それから何十年も経過した現在、「キャンプ」という名称から連想される「仮設住宅やテント」とはまったく違う、普通の街のようになっている)でランドマーク的に人々に認識されている家を建てて自分の妻子、親戚とともに暮らし、ガザ地区で診療所を開き、学校で教えるかたわら、イスラエルの病院にパートタイムで勤務していた。

イゼルディーン・アブルアイシュ医師 (Dr Izeldeen Abuelaish)。彼の家族のことを、覚えておいでだろうか。

2009年01月21日 【ガザ攻撃】IDFによる一般家屋への砲撃で、3人の娘たちが殺された。父親はイスラエルで仕事をする医師だ。
http://nofrills.seesaa.net/article/112928063.html

BessanとMayarとAyaは、米国でブッシュ大統領が正式に退き、オバマ大統領が就任する直前に開始されたイスラエル軍による「キャストレッド作戦」で、イスラエル側が一方的に攻撃停止を宣言する前日、2009年1月15日に、イスラエルの砲弾によって殺された。医師の自宅になぜか砲弾が撃ちこまれたのである。それが突き破った壁は、娘たちの部屋の壁だった。



「娘たちは、寝室で小さな声でおしゃべりをしていたんです」とアブルアイシュ医師は、声を詰まらせながら、電話で語った。

「私はちょうど、一番下の息子を肩に乗せて、娘たちの寝室から出たところでした。そのとき、1発の砲弾が壁を突き抜けてきたんです」

「大急ぎで戻ると、娘たちの死体が――というより、娘たちの身体がばらばらになったものが――部屋中に。ひとりはまだ椅子に腰掛けた状態でしたが、両脚がなくなっていました」

http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7838465.stm
http://nofrills.seesaa.net/article/112928063.html


「私の娘で最後にしてください」
http://nofrills.seesaa.net/article/112928063.html


このアブルアイシュ医師が、3人の娘と1人の姪を一度に殺されたこの体験の中から、希望と和解のメッセージを中心にすえた本を書いていた、ということを、8月15日のガーディアン/オブザーヴァーの記事で初めて知った。

Gaza doctor writes book of hope despite death of three daughters
Harriet Sherwood in Jabalia
guardian.co.uk, Sunday 15 August 2010 17.53 BST
http://www.guardian.co.uk/world/2010/aug/15/palestinian-doctor-izzeldin-abuelaish-gaza-war

本のタイトルは、 "I Shall Not Hate" ――『我、憎むこと勿れ』。現在、アブルアイシュ医師が暮らしているカナダでは既にこの4月に出版され、英国でもこの次の1月に出版されることになっている。(医師は2008年ガザ攻撃が始まる前に、カナダからジョブ・オファーを受けていた。しかし夫人の急性白血病のため、すぐに着任することができなかった。そうこうしているうちに、ガザ攻撃が始まった。)

確認してみたら、amazon.co.jpのカタログにも入っていた。カナダ版は割高だが、UK版なら普通の値段で買えるだろう。

カナダ版(現在、マーケットプレイスのみで5000円以上している):
0307358887I Shall Not Hate: A Gaza Doctor's Journey
Izzeldin Abuelaish
Random House Canada 2010-04-27

by G-Tools

※「なか見検索」がある。

UK版(2500円くらい):
0802779174I Shall Not Hate: A Gaza Doctor's Last Sacrifice on the Road to Peace
Izzeldin Abuelaish
Walker & Co 2011-01-04

by G-Tools


どちらの版の表紙も、このエントリの冒頭でリンクしたサイトの「砂に名前を書いた3人の女の子たち」の写真だ。

このサイトはDaughters for Lifeといい、Bessanたちが殺されたことで立ち上げられたチャリティ基金である。サイトは英語、アラビア語、ヘブライ語で提供され、3人の女の子たちの写真と彼女たちの言葉(「私がお母さんになったら、自分の子供には『ロケット』は宇宙に行く乗り物のことでしかない現実の中で大きくなっていってほしい」など)、彼女たちやアブルアイシュ医師のことを書いた他者の文章などが読めるようになっている。また、サイトのAboutのところをクリックすると、基金の設立目的が読める。

A foundation, with an international mandate, is being established to provide education and health access to women and girls in Gaza and the Middle East to support their leadership development. Inspired by Dr. Izzeldin Abuelaish's values and lifetime commitment to working across challenging situations, the foundation will honour the memory of his daughters and serve as a living legacy.

つまり、ガザ地区および中東の女性たちの教育・健康についての活動を行なう基金である。ガーディアン記事によると、アブルアイシュ医師の著書の売り上げはこの基金に寄付される。

ガーディアン記事の主眼は、アブルアイシュ医師のインタビューだ。仕事のため移り住んだトロントから、夏休みでジャバリヤに帰っている彼に、記者が話を聞いている。

以下、一部を抜粋して訳出する。
……略……

そのようなタイトルを選んだことについて、彼はこう説明する。「私はあらゆる暴力に反対です。暴力や、軍事的アプローチはダメだということが何十年も前にはっきりしているのに、それは絶対に変化しない。誰も内実をしっかり検討しようとしない。ただ何も見ようとせずに続けているだけです。」

「パレスチナ人もイスラエル人も、物事の進む道を変化させることに失敗しています。ただ単に同じアプローチをとり続けているだけですが、それは憎悪と流血を悪化させ、エスカレートさせ、溝を広げるだけです。生活を破壊することは簡単です。しかし、それを建設することは非常に難しい。」

この人の身にどんなことが降りかかったか。あんな経験をすれば、憎悪を感じているとしてももっともだと言えるのではないだろうか。「怒りと憎悪の間には違いがあります。怒りは急性ですが一過性です。しかし憎悪は毒物です。人を内部から焼く火です。怒ることは人にとって必要です。しかしそれを、建設的な方向に向けなければなりません。」

……略……

当時は、自分の家族を襲った惨劇のことを考えるだけでいっぱいだった。時間が経過して、(砲撃を受けたすぐ後に自分が常々出演していたテレビ局のキャスターにかけた)電話が生放送されたことのインパクトに気づいた。「あれがイスラエルの一般の人々の目を開いたのです。ガザでの戦争について秘密にされてきたことが、明らかにされたのです」と彼は語る。

当時のイスラエル首相、エフード・オルメルトも放送を見ていた。「オルメルト首相が『イザルディーンのあのさまを見て、泣かずにいられる人などいるだろうか』 と言った、ということを読みました」とアブルアイシュ医師は述べる。その2日後、オルメルト首相は戦闘停止を宣言した。「少なくとも、娘たちの血は無駄に流されたのではないと、他の人々を救ったのだと、そう私は思っています。」

そのとき既に、アブルアイシュ医師はトロントで仕事の声がかかっていたのを検討していた。そして半年後には、トロントの大学のグローバル・ヘルス学科で教授として新生活をスタートさせた。夏休みで帰郷しているアブルアイシュ医師は、ガザは「ますますひどくなっている」と言う。

「人々はやり場のない憤りを抱え、希望も失っています。まともな暮らしというものは、単に衣食が足りているということだけで決まるわけではありません。私たちは自由に餓えています。より明るい将来に、安全な暮らしに。自分たちの人間らしさを感じることに。」

しかし、ガザの人々はただ他者を責めるだけではなく、自分たちでも責任をとらなければならない、と彼は言う。「人生においてはどんなことでも可能です。平和だって。不可能なのはただひとつ、妻と娘たちを生き返らせることだけです。人は進み続けなければなりません。ひどい出来事によって私の人生が規定されることはありません。あのようなひどい出来事があったから、私はますます速い速度で進むようになりました。」

アブルアイシュの本と(Daughters for Lifeの)基金は、死んだ娘たちのために彼が作った記念碑である。「神様に誓ったんですよ。いつか、娘たちに再会したら、お前たちの血は無駄にはならなかったからねと言ってやるのだ、と」と彼は言う。

基金は中東の女性の間に健康と教育を促進するために設立されたものだ。「私の人生、母と妻と娘たちから恩を受けっぱなしですからね」と彼は言う。「すべての変化はまずは母親から始まります。変わりたければ、まず女性から始めなければなりません。」

アブルアイシュ医師は、ビーチでのあの日を回想する。彼の著書の表紙を飾る写真だ。「戦争になる2週間前のものです。娘たちは自分の名前を砂に書いた。今、娘たちの名前はどこにあるでしょう。お墓で、墓石に書かれている。しかし、いつかあの子たちの名前が、あの子たちを記念する学校や医療機関に、金属や石に彫られて掲げられる、そんな日が来ます。ことばは銃弾よりも強いものです。憎悪と復讐を正しいものと信じている人々に、希望のメッセージを届けなければなりません。」


Daughters for Lifeへの問い合わせ・寄付の申し込みは foundation[アットマーク]daughtersforlife.com へメールで(英語・アラビア語・ヘブライ語)。

※この記事は

2010年08月16日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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