kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年10月04日

部隊の帰還/「非主流派リパブリカン」について

アフガニスタンでの任務を終えた英軍の部隊が英国に戻り、基地のある町でパレードを行なった――それをわざわざこのブログに書いている理由は、参照する記事のURLでわかるかもしれない。

Thousands welcome soldiers home
Page last updated at 16:00 GMT, Saturday, 3 October 2009 17:00 UK
http://news.bbc.co.uk/2/hi/uk_news/northern_ireland/8287169.stm

3日に帰還パレードを行なったのはthe Royal Engineers38 Engineer Regiment, 基地は北アイルランド、アントリムにあるMassereene Barracksだ。

この部隊はアフガニスタンのヘルマンドでの任務で2人を失った。(1人は5月に、もう1人は7月に。)

そしてこの部隊は、この3月、アフガニスタンに向けて出発する直前に、基地のゲートで2人を失っていた。兵士たちが「アフガンに出発する前の食いおさめ」として頼んだ宅配ピザが配達されたところに銃撃があり、兵士2人が死亡、2人が負傷、ピザを届けた店員2人も負傷した。(後の報道によると、30秒間で60発以上の弾丸が発射されていたそうだ。静止しているも同然の相手に対して。)事件後ほどなく、Real IRAの犯行声明が出された。

事件発生直後の報道に基づいてこのブログで書いたもの:

2009年03月08日 北アイルランド、英軍施設に襲撃、兵士2人射殺。(英各メディア記事URLと、トップページのキャプチャ/追記:日本語での報道)
http://nofrills.seesaa.net/article/115346246.html

2009年03月09日 北アイルランド、英軍施設襲撃事件の詳細(メモ)
http://nofrills.seesaa.net/article/115350864.html

2009年03月09日 英軍基地襲撃、Real IRAから犯行声明が出たようです。
http://nofrills.seesaa.net/article/115354564.html

2009年03月09日 英軍基地襲撃、記事ははてなブックマークでクリップしています。(現段階での英メディア記事まとめ)
http://nofrills.seesaa.net/article/115369208.html

2009年03月10日 英軍基地襲撃事件、ベルファスト・テレグラフの記事一覧。
http://nofrills.seesaa.net/article/115411516.html

北アイルランドでは、英軍基地襲撃からわずか3日後の3月10日に警官射殺事件が発生、こちらはContinuity IRAが犯行声明を出した。(Continuity IRAは、Real IRAと仲が良いわけではないにせよ、互いに邪魔はしないことにしているらしい。いずれの組織も、1997年に停戦し、現在では武器放棄も完了して武装闘争活動は行なっていないProvisional IRA、つまりいわゆる「IRA」からの分派で、つまりいわゆる「IRA」とは別の組織である。)

立て続けに起きた2件の事件で一気に高まった「紛争再び」的な空気は、英全国紙のトップページに「北アイルランド」を再登場させ、UKの右翼のメディアは例によって「IRA」の定義をルーズにしたまま「IRAの暴力」を書きたてた。北アイルランドの人々は政治的にどちら側にいるかに関係なく街頭に出て、「二度とあの時代には戻らない」という意思を明確に示す行動をとった。ロイヤリスト武装組織は武器を放棄する方向に大きく動いた。

2009年03月11日 「だって私たちがそうなることを望んでいないのだから」――ベルファスト、紛争を知らない子供たちの声
http://nofrills.seesaa.net/article/115478469.html

2009年03月12日 北アイルランド、沈黙の抗議行動と、UDAリーダーの言葉、そして「憎悪」の言葉。
http://nofrills.seesaa.net/article/115514468.html

しかしながら、その後もReal IRA(または/およびContinuity IRA)の活動は止まっていない。銃撃のような派手な事件は報じられていないが、爆発物のニュースは続いている。もっとも英全国紙で目立つように報じられるのは、下記のような大きなニュースだけだが。

2009年09月09日 北アイルランド、ものすごい量の爆発物が発見される
http://nofrills.seesaa.net/article/127626597.html

そして、こういう「大きなニュース」のときに背景解説として、RIRAやCIRAのような「非主流派リパブリカン dissident republicans」と呼ばれる組織が強いという地域(ラーガンなど)で最近どんなことがあったのかが書き添えられているのだが、それらがまた不穏だ。

北アイルランド紛争末期に、「武装闘争主義の終わり」に抵抗した超強硬派の武装闘争至上主義者たちと、紛争末期には「終わり」にする側にいたが、段々と主流派とは合わなくなって離脱した強硬派が、現在なお活発に活動している。彼らは相変わらず、英国の悪行をあれこれ並べ立てながら「だから連中は敵なのだ、何があろうとも絶対的に永遠に敵なのだ」ということを行動で主張しています、というようなことが書かれている。

彼らの行動は、規模としては全体に影響を与えるようなものではないかもしれないが、1998年の和平合意(ベルファスト合意、aka グッドフライデー合意)から11年が経過して、それでもなお「北アイルランド紛争は終わり、北アイルランドは平和になり、北アイルランドは変わりました。めでたしめでたし」ではないということは、何をもって「紛争」の終わりというのだろうかということは、示されていると思う。

英軍基地襲撃事件では、現時点での最新のニュースは9月半ばのもののようだ。なぜか英メディアの記事がなくて、Bloombergが配信した記事だけど(掲載はアイリッシュ・タイムズ)。

Massareene murders accused gets bail
Last Updated: Friday, September 18, 2009, 20:19
http://www.irishtimes.com/newspaper/breaking/2009/0918/breaking69.htm

要旨:
3月に英軍基地を襲撃し英軍兵士2人を殺害したとして起訴されているBrian Shivers被告(44歳)が、今日、ベルファスト高等裁判所で保釈を認められた。Shiversはデリー州のMagherafelt在住。コクラン判事は、拘置施設内で被告が受けられる医療が不十分であると認め、保釈を許可した。被告には嚢胞性線維症(CF症)の持病がある。

Shivers被告は7月23日に殺人の容疑で起訴されていた。犯行に用いられた車両が、放火され一部燃やされた状態で現場から7マイルのところで発見されたが、この車両から採取されたDNAがShivers被告のものと一致していた。被告は殺人容疑を否認している。

一方、同じく同事件で起訴されたコリン・ダフィ被告(殺人の容疑)は再拘留となっている。




さて、10月3日のアントリムの町での38 Engineer Regimentの帰還パレードについてだが、これに併せて「非主流派リパブリカン」の側が抗議行動を行なう予定だということが9月の末にベルファスト・テレグラフで報じられていた。一方で、「パレードが行なわれた」というベルテレの記事にはその抗議行動についての言及はない。(抗議行動が行なわれなかったのか、行なわれたのが無視されているのかなどはわからない。)

Eirigi to protest at army tribute to Massereene soldiers
By David O'Dornan
Sunday, 27 September 2009
http://www.belfasttelegraph.co.uk/news/local-national/eirigi-to-protest-at-army-tribute-to-massereene-soldiers-14512583.html

Eirigi(本当はアクサンつきの文字で書かなければならない)というのはアイルランド語で「立ち上がれ、蜂起せよ」といった意味だそうで(二人称複数の命令形)、1916年イースター蜂起でのアイルランド共和国の宣言 (the 1916 Proclamation) を現実にすべしというスタンス(というか、それが「リパブリカン/共和主義者」なのだが)の団体だ……といった説明は、彼らが北アイルランドの政治上の緑とオレンジのどちら側に位置するかということしか語らない。手っ取り早くいえば、彼らはシン・フェインの主流(ジェリー・アダムズの)から離脱した非主流派である。

Wikipediaの記述を見ると、2006年4月(つまり1916年蜂起から90年目)にダブリンで結成されたインターナショナル・マルクス主義の政治団体・政党ということで、実際に彼らが発行している刷り物(PDF)などでは「ソーシャリズム」を強調しているのを見たことがあるし、ソーシャリストの人たちに組織のことを宣伝しているようではあるが、同時に「英国人を力で追い出せ」というようなパンフレットを作ったりしていて、単に「ソーシャリストの政党・政治団体」と位置付けるのはどうか、という団体。ソーシャリズム云々以前に、何をするにしても「英国」との今のような関係を力で断ち切ることが前提のアイリッシュ・ナショナリスト強硬派である。

で、Eirigiは公式サイト(Wikipedia末尾にリンクあり)には、幹部でさえ名前を掲載していないのだが、WikipediaにはChairmanとGeneral Secretaryの名前があって、General Secretaryは人名で項目が立っている。それを見てみると、ゲール語表記では見覚えのない名前だったが、英語にすればBrendan McKennaで、手持ちの本か資料のプリントアウトに出てくる名前。ドラムクリーの紛争でのカトリック・コミュニティの「住民代表」で、1999年のローズマリー・ネルソン爆殺事件の真相究明を求める運動の指導的な存在である。

彼は2007年4月に警察支持の方針をめぐってシン・フェイン(主流派)から離脱し、その後Eirigiに加わって、2009年5月にGeneral Secretaryに選ばれた――とウィキペディアにある。

ローズマリー・ネルソン爆殺事件といえば、爆殺されたネルソン弁護士が担当して無罪を勝ち取ったクライアントのひとりが、2009年3月の英軍基地襲撃事件で逮捕・起訴されているコリン・ダフィである。これはネルソン弁護士がどうのこうのというのではなく、ネルソン弁護士やブレンダン・マッケンナやコリン・ダフィの暮らしている地域(アーマー州、特にラーガン、クレイガヴォンのあたり)が、超強硬派の地域であるということだが。

「eirigiが10月3日のパレードで抗議活動を行なう」というベルテレの記事で「これまでにも平和的抗議行動が邪魔されたことがあった」といったことを語っているEirigiのスポークスマン、Eamann McManaisも2008年7月にシン・フェインから離脱した人だそうだ。

「非主流派リパブリカン」の新世代、というのも変な言い方だが、1980年代の分派(議会欠席主義をめぐる対立で、Continuity IRAとRSFが分派)、1990年代の分派(和平合意をめぐる対立で、Real IRAと32CSMが分派)の後、2000年代の分派(警察に対する協力という方針転換をめぐる対立)で、集団が形成されている、ということになる。

※この記事は

2009年10月04日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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