kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月30日

【ガザ攻撃】ゼイトゥンの殺戮について、ハテムさん日記、ジェレミー・ボーエンの取材、Rafahkidさん写真など、たくさん。

※このエントリはものすごく長いので、読むのには時間がかかると思います。

Photos taken in Hai Al-Zaytoun on 25th January
*a CC photo uploaded by Rafahkid on flickr

「子供たちの将来を豊かなものにするために」というテーマのパンフレットの表紙になっていてもおかしくないこの写真は、Rafahkidさんがflickrにアップしている写真 (CC Attribution-Share Alike 2.0 ライセンス) を単に正方形にトリミングしてちょっとだけ加工したもの(光の効果)。

写真の撮影場所はガザ市近郊のゼイトゥン (Zaytoun, Zeitoun)、撮影日は2009年1月25日。同じ日にゼイトゥンで撮影された写真は彼の1月29日アップロード分で一覧できる。鶏が中に入ったまま押しつぶされている養鶏場の籠とか、子供たちの写真。

Rafahkidさんが写真をアップしているページに投稿している説明文を日本語化しておく。

その前に、28日のハテムさんの日記。ゼイトゥンを訪れたあとに書かれたもの。

ガザ:1月28日

この1ヶ月間、毎日、私はガザの市街に出れば、新たな破壊の光景を目の当たりにしてきました。

昨日はゼイトゥン (Zaytoun) のサモウニ (Samouni) に初めて足を運びました。そこでのひどい破壊のことは聞いていました。

(そこを訪れたとき)「イスラミック・リリーフ」では食料や毛布、衛生キットを配布していました。

ひどいにおいがしました。湿った木々と、砂と血と、腐敗していく死体のにおいが混ざり合ったものです。

ガザの破壊はそれまでにも目にしています。でもこれは別のものでした。

この一帯を通っていったのが戦車とブルドーザーだけだったとは信じがたいものがありました。ハリケーンでひどい被害を受けたかのように見えました。

私が7歳のEsa Rashid Samouniに会ったのはここででした。

彼は瓦礫の上を走って遊んでいました。話をしようと声をかけて呼び止めました。そして、家や家族のことを質問しました。

彼は話し始めました。声が震えていました。破壊された建物を指差して、彼は私に言いました。「お父さんと、お母さんと、弟は死んじゃいました。あとはひとり、怪我をしたお兄ちゃんがいるだけです」

彼にどんな言葉をかけたらよいのか、私にはわかりませんでした。

それから彼は、瓦礫の山を指差して、お母さんは殺される前はここにいたと言い、別の山を指差して、お兄ちゃんがいたのはここだと言いました。

そして彼の次の言葉にはびっくりしました。「僕が何か悪いことをしたんですか。家を壊されて押しつぶされるなんて、お母さんが何をしたんですか。お兄ちゃんが何をしたんですか。みんなに会いたい、そばにいてほしい」

7歳という年齢の彼も、ガザ地区の何千人という人々と同じことを尋ねてきました。

Esaは孤児になってしまいました。ガザ地区で彼のような状態にある子供たちがほかに何人いることでしょう。

私が呼び止める前、彼は瓦礫の中で遊んでいました。あのような悲劇が襲ったあとでも、子供がすることは彼もしていたのです。つまり遊びを。

この出来事が、この子に心理的にどのような影響を与えることになるでしょうか。

ガザの子供たちと会うたびに私の心をよぎるのが、これです。

Esaは、親戚のみんながなぐさめてくれると言っていました。

「家族全員にいつか会えるよと親戚の人たちが言います。でもいつ、どこで会えるのかわかりません。天国にいるんですよね。いつかまた会えるんでしょう」

毎日、前より多くの場所に足を運び、破壊の規模はぞっとするほど鮮明になってきます。そして、語られることはますますひどくなる。

ガザの全域に苦難が塗られています。(Misery is painted all over Gaza.)

Esaのような子供に、君には未来がある、君は重要なひとりだ、ガザはまた、希望と幸福の場所になる、ということを世界が示すことは、決定的に重要です。


Rafahkidの写真に添えられている文章。
http://flickr.com/photos/rafahkid/3234471369/
1月6日、ガザ市のアル=ゼイトゥン地区で一軒の家がイスラエル軍に攻撃され、アル=サモウニ家のうち30人近くが殺された。この地域は、それからおよそ2週間後にイスラエル軍が撤退するまではアクセスすることができず、レスキュー体が遺体を回収でき、その惨劇の一部始終が明らかにされたのはその後のことである。詳細はAl-Haq(パレスチナの人権NGO)の下記の報告をご参照いただきたい。
http://www.alhaq.org/etemplate.php?id=416

※これも日本語化しておきます。この下の引用内がそれ。
ガザ地区、アル=サモウニ一族の苦難: 彼ら自身の声による

ガザ地区のアル=サモウニ一族の話は悲劇的で身の毛もよだつようなものである。Al Haqのフィールド・リサーチのメンバーによると、発端は2009年1月3日、土曜日のことだった。この日、アル=ゼイトゥン地区にイスラエル軍が侵攻し、砲撃を行なっていた。

翌日の2009年1月4日、イスラエル占領軍は同じ地域を爆撃し、パレスチナ人1人を殺した。

2009年1月5日月曜日の午前7時、イスラエル占領軍は再度同じアル=ゼイトゥン地区を爆撃した。ミサイルのうち1発がタラル・ヒルミ・アル=サモウニの家の3階を直撃した。負傷しながらも(OR 心的外傷を負いながらも)、家族は消火に手をつくした。その前に、ここの16人の家族――祖父母と子供たちとその家族 ――は、ガザ地区を襲っている爆弾を恐れて1階に避難していた。

状況がますますひどくなり、砲撃が激しくなるにつれて、アル=サモウニ一族のさらに3家族が、タラルの家に避難してきた。これらの家族の内訳は、イブラヒム・アル=サモウニ一家(12人)、ラシャド・アル=サモウニ一家(11人)とナフィズ・アル=サモウニ一家(10人)であった。合計で49人のアル=サモウニ一族のメンバーが、タラルの家に集まっていたことになる。

月曜、(人々を移動させた)その後イスラエル占領軍はタラルの家のドアをノックし、集まっていた一族の人々に、ワエル・アル=サモウニ(家族は11人)の家に移動してほしいと告げた。イスラエル占領軍はまた、男たちには出口のところでシャツをめくるように言って(これはいずれの文化圏でも、相手の人間性を奪う態度である)、ワエルの家を包囲し、アル=サモウニ一族の60人を、24時間水のない状態に置いた。電気に関しては、ガザ地区ではイスラエルの爆撃が2008年12月27日に開始されてから全面的にストップしていた。

翌6日、サモウニ家の人々は近くで銃撃の音がするのを耳にした。その後は静かになった。彼らはイスラエル占領軍が地域から撤退したのだろうと考え、ひとりが表玄関のドアから出て、喉を渇かしていた子供たちのために家の前においてあった貯水タンクに水を汲みにいった。彼が驚いたことに、イスラエル占領軍と戦車はまだ家を取り囲んでいた。このため彼は、すぐさま家の中に引き返した。

5分後、戦車が1発のミサイルを家に撃ち込んで、7人を負傷させた。わずか3分後にイスラエル軍は別のミサイルを(家の)すぐ近くに撃ちこみ、アル=サモウニ家の人々の多くを殺した。そのほとんどが子供と女性であった。

22人ほどの生存者の多くは負傷しており、白旗を掲げ、死者の4人の遺体を抱えてその家を後にした。イスラエル占領軍は彼らの周囲を銃撃し始めたが、彼らは歩き続け、救急に電話をかけ収容を要請し、負傷者を助けようとした。しかしイスラエル占領軍は彼らに対し、軍は救急サービスがこの地域に来ることを禁止した、と教えた。実際に、イスラエル兵士は重武装していながら、赤十字(のスタッフ)を含む救急隊員や救急車がここに入るのを絶対に許可しなかった。しかし、1キロ半ほど離れた十字路で、1台の救急車が負傷者を何とか乗せることができた。

一方、死亡したパレスチナ人の死体が横たわっている家では、まだ生存している家族のメンバーが13人いた。うち8人は子供で、何人かは負傷していた。彼らは、死亡した親や家族・親戚の死体と一緒に、食べ物や飲み水も一切手に入らない状態で、3日間も、監禁されていた。

死者や負傷者をその場から出すために赤十字が入ることを許可されたのは、3日後のことだった。負傷者のほとんどは非常に危険な状態にあり、ベルギーやエジプト、サウジアラビアに搬送されて治療を受けている。

合計して、アル=サモウニ家の人々26人が殺された。うち10人は子供、7人は女性であった。

残された疑問は次の点である。
- これら無辜の市民の犠牲の責任を誰が負うのか。
- イスラエルは人道に対する罪をおかしている。誰がその責任を問うのか。
- 子供や女性、男性たちの生命について、誰が賠償するのか――実際には誰にも(本当の意味で)賠償などできないことは明らかであるにしても。
- 親や親戚の死体に囲まれて3日間も過ごすことになったこれらの子供たちが、彼らとその家族に降りかかったひどい違法行為に対する国際社会の沈黙をゆるすときが、いつか訪れようか。

アル=サモウニ家の生存者たちは、正義がなされるべきであるということを含め、これらの質問への答えを必要としている。

アル=サモウニ家とその苦難についてのこの報告のために入手された情報は、ガザに拠点のあるAl Haqのフィールド・リサーチ担当者によって集められた。情報はアル=サモウニ家の生存者から直接聞いたもので、自身でそれを経験した人たちの説明である。

殺された子供たちの名前:
- Azza Salah Al Samouni, 3歳
- Waleed Rashad Al Samouni, 17歳
- Ishaq Ibrahim Al Samouni, 14歳
- Ismail Ibrahim Al Samouni, 16歳
- Rifka Wael Al Samouni, 8歳
- Fares Wael Al Samouni, 12歳
- Huda Nael Al Samouni, 17歳
- Ahmad Atieh Al Samouni, 14歳
- Mu'tassim Mohammed Al Samouni, 6歳
- Mohammed Hilmi Al Samouni, 5歳

殺された女性たちの名前:
- Rahma Mohammed Al Samouni, 50歳
- Safa' Hilmi Al Samouni, 25歳
- Maha Mohammed Al Samouni, 22歳
- Rabbab Azzat Al Samouni, 32歳
- Laila Nabih Al Samouni, 40歳
- Rifqa Mohammed Al Samouni, 50歳
- Hannan Khamis Al Samouni, 36歳

殺された男性たちの名前:
- Tallal Hilmi Al Samouni, 55歳
- Attieh Hilmi Al Samouni, 25歳
- Rashad Hilmi Al Samouni, 42歳
- Tawfiq Rashad Al Samouni, 23歳
- Mohammed Ibrahim, 26歳
- Ziyad Izzat Al Samouni, 28歳
- Nidal Ahmad Al Samouni, 30歳
- Hamdi Maher Al Samouni, 23歳
- Hamdi Mahmoud Al Samouni, 70歳

【訳注:死者のリストはあくまでこの時点で判明していた人たちのみ。詳細はエントリ末尾参照。】


下記URLにある映像は、虐殺を生き延びた10歳のモナ・アル=サモウニと、13歳のシャイマのインタビューの映像である。モナは攻撃で両親を失っている。(上記の)写真はアル=サモウニ一族の子供たちを撮影したもの。また、(この日にアップロードした別の)写真は、彼らの家の隣にある、破壊された養鶏場のものである。

モナ・アル=サモウニのインタビュー、1月25日:
https://rcpt.yousendit.com/645858506/eb6a09c47983881592bc203b3edb2874

シャイマ・アル=サモウニのインタビュー、1月25日:
https://rcpt.yousendit.com/646271988/15fa9b1f2d7f9692842afa8c246e509f

追記:
シャイマ・アル=サモウニの妹のインタビュー映像、1月25日:
https://rcpt.yousendit.com/646311674/2777e0f834af4942589ff5ea3553357a

BBCのジェレミー・ボーエンが、モナ・アル=サモウニが学校に戻った初日を取材している。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7849376.stm


Rafahkidさんのところにある映像は見たいのだが、私もさすがにいろいろときついのでまだ見ていない。DLのリンクが失効する前にと思って、DLだけはした。

彼が言及しているジェレミー・ボーエンの記事(当ブログで28日に触れた「アハメッドくん」についての文章の前日の日記です):

Bowen diary: No ordinary school day
Page last updated at 11:58 GMT, Sunday, 25 January 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7849376.stm
記事の冒頭は「新学期スタートの日というものはどこだってばたばたするものだ。教科書やらノートやらを揃えて持たせ、いってらっしゃいとわが子を送り出すまでは」といったことが書かれた導入部。

それに続けて:
では、ガザ地区のモナという名前の10歳の女の子の場合はどんな感じか、想像してみよう。モナの学校は、戦争で休校していたが、土曜日の朝に再開した。

モナには送り出してくれる両親はいない。イスラエル兵士に殺された。お兄さんが今朝、家族の家にモナを連れて戻って、学用品を探した。

モナの家を占拠したイスラエル兵士は、彼女の戸棚にあるものを全部、ぶちまけていた。石が敷かれた家の床は、サンドバッグに詰める砂を採取するためにぶち抜かれていた。モナの服や学校の教科書は、砂にまみれて、軍用配給食のパッケージやらタイルの欠片やらと一緒に地面に放置されていた。

彼女はあたりをかき回し、英語の授業で使う本を引っ張り出して、それからモスグリーンの学校のスモックを引っ張り出した。

私は、なぜイスラエル人が彼女の人生に立ち入ったのだと思うかと尋ねた。

彼女は、それはイスラエル人がパレスチナ人のためのではなく、イスラエル人のための平和を求めていたからでしょうと答えた。娘の寝室がこんなふうになっているのを見たら、お母さんはどう言うだろうと尋ねた。モナは、ものすごい勢いで怒ると思うと答えた。

モナは最終的には学校の本はその場に置いていき、小脇にグリーンのスモックを抱えていった。スモックは汚れていてしわくちゃで、着て歩きたいとは思えなかったのだ。

モナは聡明な少女だ。自分に何が起こったのかしっかり把握している。彼女はいつもノートを持ち歩いて、常に何か絵を書いている。うちの子たちもそうだが、うちの子の絵は、庭で遊んでいるところとかパーティーで楽しいことをしているところとか、休暇を描いたものだ。

モナは2種類の絵を描く。そのときに心に浮かんでいることを描くのだ。それはミサイルを発射する戦闘機とか、兵士とか、戦車、建物を破壊しているブルドーザーで、その絵の中央には小さな棒人形でいっぱいの一軒の家がある。棒人形はモナと家族・親戚だ。もう1種類の絵は、母親と父親を助けようとしているモナの姿だ。

テレビ局の取材陣と一緒にいるからだろう、モナは学校に少し遅れた。ケアテイカーの人しかいなかった。彼は、授業は1マイルほど向こうの別の建物でやることになった、と言った。

その理由は、学校は子供たちを入れられる状態ではなくなっていたからだ。ひどく銃撃を受け、一部は完全に焼けている。モナは自分の教室を見たがった。教室は廃墟だった。校庭は荒れ果て、何もなくなっていた。

砂でできた地面に残されている痕跡から判断するに、戦車が校庭の壁を登って、破壊している。

もう一件の学校はもっとまともな状態だった。銃痕はなかったが、騒々しい子供たちでいっぱいだった。けれども今の、ここでの、またガザのほかの場所での「まとも」っぽさは、幻想だ。

学校では心理学者(心のケアの専門家)が子供たちと、何を見たか、どんな目にあったかについての話をする。心理学者は、まず教師から始めなければならないと言っていた。まともに仕事するのが難しいとのことだから、と。

教師の1人は、自分自身の家が破壊されてしまったときに、子供たちを助けるのは実に大変なことだと私に語った。


学校の心理専門家は、攻撃初日が最も大きなショックを与えた、と語っている。子供たちはパニック状態になり、低学年の子供たちは恐怖でおもらしをしてしまったほどだったという。

そしてボーエンは次のトピックに進む。
私はここで会ったすべてのパレスチナ人の成人に、この苦境の責任はハマスにあると思うかと尋ねている。イスラエルの報道官らは何度も、ハマスがガザの人々を人質に取っている、イスラエルはハマスを一般市民と引き離したい、と語っている。

ガザの人々の多くが、ハマスのことをあまり好いていない。ハマスは内部的対立も激しく、情け容赦ない。

BBCは、ハマスがファタハ支持者を対象に懲罰射撃 (punishment shootings) を行なっているという根拠のある報告を調査しているところだ。それらは多くの場合命には関わらないが、身体に影響を与える。ハマスは言論の自由を促進していない。

しかしひとりの男性が、私が話をした人たちのムードを要約していた。この男性は、ハマスがイスラエルを攻撃しているとしても、イスラエルの軍隊には、彼らがパレスチナの市民たちにしたようなことをする権利は、一切ないのだ、と語った。

全体的に弱い記述で、特に「ムード」というのが弱いが、ゼイトゥンで行なわれたようなことをする権利は、誰にもない。イスラエル軍にもないし、ハマスにもない。それは国際法に照らして事実である。(今、「国際法に照らして」と言うだけで「反イスラエル」と言われる状況だが、それはその状況のほうがおかしい。BBCがいろいろと厳しいのはわかるが、何とかならんのかね、このくらいは。)

ところで、punishment shootingsといえばkneecappingがすぐに連想される。映画『父の祈りを』の冒頭、ベルファストでのシーンで、ちょっとやりすぎたジェリーがIRAに連れて行かれて膝頭に銃口を向けられる。彼はこのときは父親の助け舟でこれを逃れたが、あれが「ニーキャッピング」だ。殺さずに、一生その傷を背負っていくこと(それも、誰の目にも明らかなように)が「懲罰」として機能していた。まったくひどいことだ。この状態が、above the lawと呼ばれ、IRAに対しては、"No one is above the law." という非難のことばが何度も何度も、数え切れないほど浴びせられてきた。(今でもそうだけど……on-the-runsをめぐって。そのon-the-runsもこのまま責任を問われることなく終わりそうなムードだが。)

ボーエンの日記に戻ろう。この日の長い日記の最後で、彼はモナのことに戻る。いわく、モナが死んでしまったと聞かされていた親友が彼女の手を離さなかったこと、先生も、モナは死んでしまったと思っていたので、その姿を見て目に涙を浮かべていたこと。

そして、モナは結局、自宅の廃墟から引っ張り出してきたスモックを着なかったこと。ほかの生徒たちはぱりっとした身なりをして、真新しい白いリボンで髪をまとめていたこと。次に登校するときには、モナを慈しんでいる親戚のおばさんたちがそういうところも見てくれるだろうということ。

そして最後のパラグラフは:
She told me that she would still work hard, do her homework and live her life. But without any of the self-pity an adult might be forgiven for showing, Mona told me that without her parents half the future was missing.

彼女は私に、でもまだがんばって勉強するし、宿題もやるし、自分の人生を生きる、と語った。けれども、大人だってこういうときは仕方がないという自己憐憫は欠片も見せずに、モナは私に、両親がいなくなってしまって、自分の将来の半分はなくなってしまった、と言った。


ボーエンは、ザイトゥンについて、モナの話とアハメッドの話のほかに、もう2本日記を書いている。

Bowen diary: A father's loss
Page last updated at 21:24 GMT, Friday, 23 January 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7848127.stm

1月6日の日記(←画面をスクロールダウンしてください)で触れた、「死んだ幼子を抱きかかえる父親」の写真について――ジャーナリストがガザ地区に入れない中、元々ガザにいたBBCのパレスチナ人支部員やロイターなど通信社の配信で受け取った映像――、「この父親の名前も子供の名前もわからないこと」にフラストレーションを感じていたボーエンは、ガザへの立ち入りを許可されてから、この親子について調査した。そしてわかったのが、父親はヘルミ・アル=サモウニ (Helmi al-Samouni) という名前で27歳、子供はモハンメドという名前で生後6ヶ月だ、ということだった。つまり、ゼイトゥンの死者だ。

赤ちゃんは頭を撃たれて死んだ。ヘルミの妻、マハ(19歳)もほどなく殺された。ヘルミは、ヘリコプターからロケット弾が発射され、ヘルミの両親も殺された、と買った。

ボーエンは、彼に会って話を聞いたときには、あの映像のお父さんだとは気付かなかった、と書いている。髭が伸びて、10歳も老けて見えたという。

そしてその前日、ラファからガザに入った日の日記の後半で、ボーエンはゼイナト・アブドゥラ・アル=サモウニ (Zeinat Abdullah al-Samouni) という35歳の女性と話をしている。イスラエル軍が来たときに「世帯主は誰か」と訊かれ、彼女の夫のアティヤが手を挙げると、イスラエル兵は至近距離から頭を撃った。それから部屋で銃を乱射し、このときに4歳の息子が殺された。息子の遺骸を抱いて彼女が命令されるままに家を出ると、イスラエル軍は家を破壊した。

Bowen diary: Rafah rebuilds
Page last updated at 22:13 GMT, Thursday, 22 January 2009
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7846136.stm

ほかの情報源からもいくつか拾っておこう。

サモウニ家の虐殺について、1月5日のニューヨーク・タイムズは次のように報じている。(時差を考えると、最初にミサイルが撃ちこまれた直後の情報だろうか。)

Warnings Not Enough for Gaza Families
By TAGHREED EL-KHODARY and ISABEL KERSHNER
Published: January 5, 2009
http://www.nytimes.com/2009/01/06/world/middleeast/06scene.html?_r=1

以下はこの記事の冒頭部分。先日、BBCのジェレミー・ボーエンの日記について書いたときによそのブログさんから引用したケータイ小説風(?)の訳文を、より原典に近く日本語化したものである。
サモウニ家の人々は、危険な状態に置かれているということに気付いていた。2日間にわたって赤十字に電話をかけ続け、ゼイトゥンから外に脱出させてほしいと懇願していた、と彼らは言う。ゼイトゥンはガザ市の東にある貧しい区域で、ハマスの拠点と考えられている。

救出者は来なかった。その代わりに、日曜の夜遅くにイスラエル軍が彼らの建物に入り、建物を退避するように告げた。彼らはそうした。しかし月曜日の朝6時、イスラエルの戦闘機から発射されたミサイルが、人々が避難所として集まっていた家を直撃した。どこにも逃げ場はなかった。

目撃者と病院関係者の話では、このために一族の11人が殺され、26人が負傷した。……

一族に属する人々が何百人も、シーファ病院(ガザ市の基幹病院)に雪崩れ込んだ。みな、ゼイトゥンの人々で、ショック状態にあった。20歳のマスーダは夫と夫の母親と10ヶ月の息子を亡くした。彼女はミサイルが直撃したとき、赤ん坊のための食事を用意していたのだという。「あの子、お腹をすかせたままで死んでしまって」と彼女は言う。……


ゼイトゥンの包囲が解かれてアクセスが可能になったあとに、サモウニ家の人に、アムネスティ・インターナショナルのガザ調査団が取材したもの(AIのブログ@1月22日木曜日を日本語化したもの)
http://gaialog.jp/amnesty/staffblog/perm/293
多数の家屋がイスラエルの爆撃機やブルドーザーに一掃されたガザ市のザイトゥーム近隣では、女性や子どもたちは少しでも家財を探し出して回収しようとがれきとなった自宅跡を探しまわっていた。

瓦礫の中の遺体安置所のテントでは、サモウニ家の生き残った家族が弔辞を受け、イスラエル軍に殺された一族の29人のために祈りをささげていた。イスラエル兵たちはサモウニの家を占拠し、そこを軍事基地として使用した。兵士たちは、サモウニ家の人びとには向かいの親戚の家に移れと指示し、次の日その家を爆破したとサラーフ・サモウニが私たちに語った。

何人かは即死し、何人かは死ぬまで放置されたという。数日間、イスラエル兵たちは負傷者を運ぶために救急車が家に来ることを許さなかった。


また、国際的な人道支援NGO、Care Internationalの食糧配給スタッフのMohammed Ibrahim Samouniさんが、この攻撃で亡くなっているようだ(お名前がAl Haqの死者リストにあり、日時も一致する)。
http://www.careintjp.org/news/newsrelease_090108.html



私がこれをアップする日からさかのぼること37年前の1972年1月30日、英軍が北アイルランドのデリーで、非武装の一般市民を攻撃した。13人が射殺された。英軍は、撃たれた人々は武装勢力の人間で、英軍を攻撃してきたのだという「事実」を捏造した(死体に武器を持たせるなど)。彼らが参加していたデモがユニオニストが独占していた当局の許可を得ていなかったことが、撃ち殺された彼らの側が「無法者」だったのだという言い分にプラスに作用した。そして、「血の日曜日 Bloody Sunday」として知られるその事件は、「北アイルランド紛争」の本格化の始まりとなった。あまりにもむごく、無差別で、非対称のその暴力(投石と、実弾)は、ナショナリストの多くの若者に、武装勢力に加入することを動機付けた。

事件から10年後の1982年、アイルランド共和国のダブリンで活動していたバンドのギタリストが、ギターのリフと歌詞を書いた。その曲は翌1983年にリリースされた。曲が書かれたときも、リリースされたときも、ベルファストなど北アイルランドではまだ日々が爆弾(カーボム、時限式爆発物など)とともにあった。

How long, how long must we sing this song?
いつまで、俺らはいつまで、この曲を歌わなければならないのだろう。

http://en.wikipedia.org/wiki/Sunday_Bloody_Sunday_(song)



昨年の1月30日に書いたものから。
http://nofrills.seesaa.net/article/81515258.html
なお、Bloody Sundayについてのウィキペディア英語版の記事は昨年よりかなり情報量が増えている。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bloody_Sunday_%281972%29

更新履歴のページを見ると、北アイルランド紛争関連の記事では珍しいことではないのだがひどいヴァンダリズム(記事の破壊行為)や、用語をめぐる編集合戦のような状態が発生しつつも、着実に充実してきている。2007年1月30日の版と、2008年1月30日の版を見比べてみると、どこがどう変わっているのかが一目瞭然だ。

今後も改版は重ねられていき、記述は変わるだろうが、現時点で印象に残る変更点(太字は引用者による):
At a certain point, reports of an IRA sniper operating in the area were given to the Army command centre.
→ At a certain point, reports of an IRA sniper operating in the area were allegedly given to the Army command centre.

The aggression against the British troops escalated, and eventually the order was given to mobilise the troops in an arrest operation, chasing the tail of the main group of marchers to the edge of the field by Free Derry Corner.
Continuing violence by and against British troops escalated, and eventually the order was given to mobilise the troops in an arrest operation, chasing the tail of the main group of marchers to the edge of the field by Free Derry Corner.

中東について、violence by and againstという言葉が普通に(イスラエルによって)使われるようになるまでには、まだ長く待たなければならないだろう。

それまでは、自分はせめて書き留めていきたい。



ゼイトゥンの死者数は、最終的には48(サモウニ家29人、そのほかの人々19人)。

Newsweek日本語版の2009-2-4号の内容から。
http://nwj-web.jp/


※この記事は

2009年01月30日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

……全文を読む
▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼