kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月29日

【ガザ攻撃】「まさか3週間も容赦のない爆撃の下に置かれるとは思っていませんでした」――ハテムさんの支援活動日記、1月25, 27日分

国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月25日、27日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

「攻撃停止」から1週間、攻撃開始から1ヶ月となったこの期間に、ハテムさんは、特に子供たちの日常という点からガザの様子を描写して伝えてくれています。25日は学校のこと(BBCの記事には、瓦礫の中を、学校のリュックサックを背負って通学する女の子たちのAPの写真があります)、27日は攻撃開始の日に女の子を出産した女性のことなど。そして、「攻撃停止」から1週間経っても、イスラエルが建築資材のガザ地区への搬入を認めていないということ。

ガザ:1月25日

瓦礫と破壊された建物のなかで、人々は通常の生活に戻ろうと全力を尽くしています。もしもガザにそのようなものがあるとすれば、ですが。

子供たちが学校に戻りつつあるのもその一環です。一部の学校が再開し、生徒たちは戻りたがっています。

ガザの子供たちは精神的にタフです。そうでなければやっていけませんから。けれども結局のところはまだ子供です。タフといったって、どのくらいでしょうか。

子供たちの心理状態はたいへんデリケートで、学校の再開は非常に重要です。

タル・エル・ハワ (Tal El Hawa) の7歳のマリアムという子と話をしました。ほかの子たちと同様に、彼女も最初の爆弾が落ちてきた日のことが忘れられず、今は教室に戻れて喜んでいます。

「爆弾の音が聞こえたのは、アラビア語のテストを受けてるときでした。お父さんが来てうちに連れてってくれるまではすっごい怖かったです。家に行くときにも大きな爆発の音がしました」と彼女は言っています。

「今は静かになってて、学校に戻れて嬉しいです。今日は学校で、会談のところに座ってお友達と話をしました。みんな言いたいことがあって、3人は家がぜんぶ壊されちゃいました。先生も、どういうことがあったのと質問しました。こんなことがありましたと答えました」

再開したのは小学校だけではありません。20歳で技術を学んでんるモハメド・シサリムという学生にも話をききました。

「今日、ようやく大学に行けます。通学途中で多くの破壊を目にしました。信じられないほどです。あまりにもひどい」と彼は私に言いました。

「大学ではガラスが割れていて、最もお金のかかった建物は破壊されていました。講堂は破壊されてはいませんでしたが、机や床は瓦礫でいっぱいでした」

ガザでは教育は限られたアクセスしかありませんが、今でも親は教育のことを真剣に考えています。瓦礫の中でも、授業は進められます。

みなが不安です。何千という人々が、この先どうなるのかわからないままに、破壊された自宅に戻りつつあります。

その多くが、家だったものの横に建てられたテントで寝起きしています。おそらく、そこにいれば何がどうなるのかについての話がわかるのではないかと期待して。

「イスラミック・リリーフ」は、次の2ヶ月間、心理サポート・プロジェクトを拡大します。子供たちと家族たちに焦点をあわせます。

建築物の取り壊しで出る廃棄物の除去、家屋修復、病院への食料配布などのプロジェクトと同様に、心理サポートの活動にもさらに300万ドルの予算を使うことを計画しています。


続いて、27日の日記です。BBCのページと、イスラミック・リリーフのページそれぞれに、目鼻立ちのはっきりしたかわいい赤ちゃんの写真があります。イスラエルによるガザ攻撃が開始されてちょうど1ヶ月となるこの日の日記で、この赤ちゃんが生まれた経緯のことを、ハテムさんは報告しています。

ガザ:1月27日

最初の爆弾がガザ地区に落とされてから、今日でちょうど1ヶ月です。

最初の日のことは今も覚えています。誰も、この先どうなるのかわからずにいましたし、まさか3週間も容赦のない爆撃の下に置かれ、それが語りつくせぬほどの苦難と破壊をもたらすとは思っていませんでした。

12月27日はごく当たり前の一日として始まりました。みなが日常のことをやっていました。何が起ころうとしているかまったく知らずに。

エマン・アブ・バクル(21歳)は、ガザの病院の参加病棟にいました。病棟には出産を間近に控えた女の人がたくさんいました。帝王切開で出産することになっていた彼女は予定日より数日早めに入院していました。

「27日は早く目が覚めました。夫が体調は大丈夫かと電話してきました。そのあとで病院に来ました。11時ごろ、たくさんの爆発音が聞こえました。これまで聞いたことのないほどのものでした。30秒に1発、と言うに近いものがありました」とエマンは言います。

「院内の空気はカオティックになりました。たくさんの人々が叫んでいて、救急車のサイレンがずうっと鳴り響いていました」

「たった今、戦争が始まったというニュースがありました。私の恐怖は倍増しました。出産が怖いだけではなく、この戦争が、そしてもうすぐ生まれてくる赤ちゃんが」

その1時間後に、エマンはナダを出産しました。かわいらしい女の子です。

爆撃の3週間の間、ガザの人々は毎日が最後の日になるかもしれないという恐怖を抱いて過ごしてきました。私自身も完全におびえていました。

人々に会うと、私はこの人なら疑問に答えてくれるんじゃないかという感じでした。私は支援ワーカーですし、イスラミック・リリーフのような支援組織なら、自分たちのことを助けてくれるし質問の答えも知っているんじゃないかと、あまりの状況の中で、考えていたのだと思います。

避難所を訪れたとき、21日前に、爆撃の最中に出産した女性とお会いしました。この女性は、砲撃があまりに激しかったので病院まで行くことができませんでした。避難所にいた女性たちが出産を手伝いました。

この女性と話をしたあとで、何人かの父親たちが私のところに来ました。彼らは、誰が自宅を建て直してくれるのか、イスラミック・リリーフはアパートを貸してくれるのか、といったことを質問しました。

大半が、家を失ってしまっていました。こういった質問に答えることは困難です。

現状、配布されている支援物資はほとんどが医療関係と食料、毛布といった緊急性の高いものです。建設資材はガザ地区には入ってきていません。こういった質問に答えることは、私には不可能なのです。


イスラエルは「この事態はハマスの責任である」と主張しています。しかし、あれだけ派手に破壊しておいて、その破壊についての自身の責任を逃れることは不可能でしょう。それでも、「物資の搬入を認めない」という政策は続けられています。そういうのを、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」と言うのではないかと私は思います、東京の片隅で。

※この記事は

2009年01月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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