kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月26日

【ガザ攻撃】「今年初めて、自分の通うモスクで金曜の礼拝をすることができました」――ハテムさんの支援活動日記、1月23日分(付:攻撃前のガザ地区の人道危機)

国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月23日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

23日の日記では、攻撃が停止されて徐々に「いつもの状態」に戻ろうとするガザの様子が、ハテムさんという個人を通してうかがわれます。(決して「明るい話」ではないのですが。)日記の後半では、これまでに「イスラミック・リリーフ」の支援チームが行なってきた支援内容について具体的にまとめられています。そして、この大規模な武力行使がガザ地区という小さなエリアに何をもたらしたのかは、これから正確に調査をしていかないとわからない、ということも。

ガザ:1月23日

今日、今年初めて、自分の通うモスクで金曜の礼拝をすることができました。

今日はたくさんの人たちと抱き合いました。何週間も顔を合わせていなかった人がたくさんいたのですが、まるで何年ぶりかで会ったかのような感じでした。

みな、嬉しいような悲しいような、複雑な気持ちを抱えていました。親友のひとりであるアハマドは、「君が無事でいてくれたのは嬉しい。でも、たくさんの人が亡くなったことが悲しいよ」と言いました。

昨日は、国連人道問題担当事務次長兼緊急援助調整官のジョン・ホームズ氏にお会いしました。私の日記をずっと読んでいてくださったそうです。

この巨大な規模の破壊と損害について、たくさん話をしました。

こういったことに加え、大切な人を亡くし、持っていたものすべてを破壊されるのを見た人々のこころの痛みということがあります。

破壊された家や建物は、間違いなく再建されるでしょう。しかし、ここまでぼろぼろになってしまった生活はどうなるのでしょう。誰がそれを立て直す手助けをするのでしょう。

現在、推計で3万人が家を失っています。

「イスラミック・リリーフ」で食料をジャバリヤ難民キャンプに配っていたときのことです。私はアデルという名のひとりの男性に会いました。夫人と2人の小さなお子さんは避難所にいました。

なぜまだ家に戻っていないのですかと尋ねると、戻ってはみたが完全に破壊されていたので、ということでした。

話をしながら、爆撃前のアデルさんの生活についても話しました。失業していて貧しかったとのことです。

アデルさんは、自身と家族の命を長らえるため国際食糧支援に頼らざるを得ないガザ地区の13万人のひとりです。そして今、彼にはアパートを借りるお金もありません。

アデルさんの話は、ガザ地区の何千という人たちの話と同様です。

この数週間、イスラミック・リリーフが行なってきた活動について、私は誇りに思っています。

私たちの支援チームが食料の箱を届けたときに、幼い姉妹が満面の笑みを浮かべた光景を思い出します。箱の中には、昔からあるお菓子のハルワが入っていたのです。子供たちの顔に微笑みを浮かべさせるには、これで充分でした。

私たちはこれまでの緊急支援で、300万ドル近くを費やし、さらに実地での支援活動を強化していこうとしています。

この3週間で、ガザ、ラファ、ハンユニスの12箇所の国連避難施設に、11,000箱の食料を届けました。

それぞれの箱には米、砂糖、レンティル(豆)、トマトペースト、豆、缶詰の肉とジャムが入っています。

また、ガザの病院には4,000キロ超の冷凍肉をはじめ各種食料を届けました。これで1ヶ月は持ちこたえられます。

病院は私たちの重点エリアのひとつです。

トロリーや心電計 (ECG)、輸液ポンプ、集中治療室用の患者監視装置、麻酔器、人工呼吸器、手術室用のモニターや緊急医療の用具のスペア部品をはじめとする機器を、病院に届けることができています。

また、エジプト国境経由で、救急車は7台をガザ地区に入れることができています。うち1台は集中治療の設備があり、1台は移動病院になっています。

小児科病棟にはおむつを1,400枚、届けました。

水は数千ガロンを避難施設に届けました。毛布は3,000枚以上を配布しています。

これが、私たちがしてきたことのごく一部です。

いろいろな意味で、本当の仕事はこれから始まります。

ようやく、すべての地域に立ち入ることができるようになったので、ガザ地区に対する損害が実際のところどのくらいなのかを調べられるのです。

国連は、ガザ地区を再建するには何十億(ドル)とかかると見ています。これは、支援機関だけでできることではありません。

私たちには、人々の直近のニーズを満たす必要があります。食料、水、安全な場所、医薬品や毛布を配らなければなりません。

全世界からのご支援が、ガザの再建のために必要とされています。


1月2日の日記で、ハテムさんは、たぶん自分が普段通っているのとは別のモスクでの金曜礼拝に行って、政府機関の建物に近接しているモスクは門を閉ざしていることを報告し、「中東では耳にしないことだ――モスクが金曜日に閉まっているなんて」と書いていました。
http://nofrills.seesaa.net/article/112102932.html

普段、どこかのお寺さんに通っているわけでもない私には「モスクが閉まっている」ことの意味が実際にどこまでわかるか、という感じですが、「当たり前のことができなくなっている」ことの影響、特に心理的な影響がどのようなものであるかは、想像に難くありません。

そういった状況が、戦闘の停止によって「改善された」ことは素直によいことだと思います。しかし、それは極めて異常な状態にあったのが元に戻った(戻りつつある)ということであり、ガザ地区の場合は「元に戻った」としても、それ自体が「異常」な状態にあります。

昨年3月のBBCの記事:
Gaza's humanitarian crisis
Page last updated at 11:22 GMT, Thursday, 6 March 2008
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7191359.stm

これは、アムネスティ・インターナショナル、ケア・インターナショナルUK、オックスファムなど、UKに拠点を置く人権・開発組織が合同でガザ地区について調査してまとめた報告書についての報道です。

ここでは、1967年の戦争でイスラエルがガザ地区を占領して以来最悪の人道危機が発生していると結論され、それはハマスのミリタントが2007年6月にガザ地区を掌握したあとに行なわれているガザ地区の孤立・封鎖を原因として生じている人為的な災害であると述べられた上で、イスラエル・国際社会・西岸地区のパレスチナ指導部(つまりファタハ)によるガザ地区に対する政策の根本的変更が呼びかけられています。

メディアによって違いはありこそすれ、英国の報道ではガザ地区については常にこういった報道があり(それでも少ないと指摘されていますが)、BBCなり何なりをチェックしている人は、特に中東に関心がなくてもそういうことは見聞きしていたと思います。(2007年にガザ地区で拉致され、3ヶ月以上拘束されていたBBCのアラン・ジョンストン記者も、「ハマス対ファタハ」の争いが激化し、壁とか検問所とかでただでさえひどい状況にあったガザ地区がますますひどい状態になっていくさまを、BBC Newsで伝えていました。)

しかし日本では、私が気がついた範囲では、そういったコンテクストがほとんど報道されてこなかった。パレスチナについては、出版物も多く出ているし、ネットで恒常的に現地のことを伝えている方々も多くおられますが、マスコミでは伝えられてこなかった。(これは何もパレスチナに関してだけではないのですが。)そして、「ハマスのロケット攻撃への報復」というイスラエル政府の(たぶん後付けの)理由が政府首脳の口からも野党の党首の口からもそのまま繰り返され、いやもうほんとはぁ、みたいな。

で、ハテムさんは支援組織の職員で、支援活動という側面から今回の攻撃の後に何をどうすべきかということを考え、日記に記しておられるのですが、これを「よかった、支援活動が安全にできるようになって」という安堵の気持ちを覚えるだけで終わらせてはいけないんじゃないかと、23日の日記を読みながら思いました。

上に言及した、2008年3月のBBCの記事から、少し抜き出して日本語にしておきます。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7191359.stm
貧困:
ガザ地区のパレスチナ人の80パーセントが、人道支援に頼っている。国連の食糧支援を受けている人は、人口の4分の3にあたる110万人である。

UNRWAに頼っている世帯の数は、1999年以来、10倍になった。

2007年6月から9月の間で、世帯の月収は22パーセントも減少した。一人当たり1日1.2ドル以下の収入しかない世帯数は、55パーセントから70パーセントに増加した。

移動の制限:
イスラエルは、燃料や機械の部品、セメント、技術支援、衛生用品のための脱脂綿など、支援機関が要請する基本的な人道支援物資を特定して、ガザ地区への搬入をさせていない。

ガザ地区からの出入りはほとんど不可能で、食料や水の供給、下水処理、基本的なヘルスケアももはやあって当然のものではない状況にある。

食料価格は上昇しつつあり、小麦粉、乳児のミルク、調理用の油が徐々に欠乏しつつある。

2005年11月にイスラエルとパレスチナの間で合意がなされたにもかかわらず、国境をまたいだ移動は許可されていない。2006年には、平均して、毎日12台のトラックがカルニ検問所を通過しているが、予定されていた数には遠く及ばない数値である。ガザへの物資輸送は1日あたり250台が想定されていたが、それが45台しかないのが実情である。

経済の崩壊:
過去6ヶ月の間にほとんどの商業が立ち行かなくなり、ガザの工業の95パーセントは輸出入の制限の結果として機能停止状態にある。失業率は40パーセントに迫っている。3,900軒の工場のうち3,500軒が閉鎖されており、民間企業の分野で75,000の雇用が失われた。

農業も、イスラエルが繰り返し侵入して畑や温室を破壊することで打撃を受けている。イスラエルは、40センチ以上の丈になる作物は栽培が許可されないのだと主張している。

電気ガス水道:
イスラエルは、EUが供給する産業用ディーゼルを週に22万リットル、ガザ地区に入れることを許可しているが、それでは主要な発電所を100パーセント稼動させるのに足りない。発電量は20パーセント減少し、病院、上下水道など公共の施設に影響があると考えられる。

水を汲み上げるポンプを動かす電力がないため、ガザ地区の人口の25から30パーセントは自宅に水道がなく、毎日300から400万リットルの下水が処理されぬまま海に垂れ流されている。

医療の危機:
病院にも1日あたり8から12時間電気が来ないので、発電機に頼っているが、ディーゼル燃料が不足している。発電機の部品も手に入らない。

(医療設備が不十分な状況にある)ガザ地区の外に出ないと助からないケースについては、2007年12月には全申請の64パーセントしかイスラエルに許可されず、多くの患者が死亡することになった。


記事にはこのあと、「子供たち」のこと(人口の56パーセントが子供で、学校に通えなかったり、学校が満足に機能していなかったりする)、「治安」のこと(「武装勢力の攻撃からイスラエル市民を守る」ことを理由として、陸・海・空をイスラエルがコントロールしているが、常に攻撃にさらされ、暗殺も行なわれている)が書かれています。記事内からこの報告書へのリンクもあります。

※この記事は

2009年01月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 08:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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