kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2009年01月26日

【ガザ攻撃】「ここには何があったのかと尋ねると、レモンの果樹園だったんだと教えてくれました」――ハテムさんの支援活動日記、1月21日分

国際支援組織「イスラミック・リリーフ」のハテム・シュラブさんの支援日記、1月21日の分です。

Aid worker diary
http://news.bbc.co.uk/2/hi/middle_east/7802295.stm

彼の日記は、「イスラミック・リリーフ」のサイトにもアップされています(文面は基本的にBBC掲載のものと同じ)。
http://www.islamic-relief.com/Emergencies-And-Appeals/emergency.aspx?emID=47

ハテムさんの日記は、前回は18日でした。18日はイスラエルによる「一方的停戦(攻撃停止)宣言」と、ハマスによる同様の宣言があった日で、その直後のガザ市内の様子と、支援活動の様子の報告でした。
http://nofrills.seesaa.net/article/112843377.html

21日の日記で、ハテムさんは18日以後にガザ市の外、ガザ地区南部で行なった支援活動のこと、21日に同僚の家のある――というより「家があった」――ガザ地区北部を訪れたときのこと、そしてその同僚の家族の受けたあまりに大きな被害のこと、彼の家のある地域の被害のことを書いておられます。

ガザ:1月21日
今日は、ジャバル・アル=レイス (Jabal al-Rayes) という地域に行きました。ガザ地区北部で、イスラエルとの国境に近いところです。

同僚のアラアを訪ねて行ったのです。アラアのことは数週間前に書きました。彼は地上侵攻の初日に自宅を出ました。彼の家のあるエリアでは砲撃が激しかったからです。

アラアはお兄さん(弟さん)と同じ建物に住んでいました。兄弟それぞれが別の階に暮らしていました。

アラアは夫人と2人のお子さんを連れて家を出ました。お兄さん夫妻と子供たちも出るようにと言ったそうですが、砲撃が非常に激しくなって、お兄さんたちは家を出ることができませんでした。

アラアは疲れきった様子で、何があったかを話しながら、涙をこらえていました。

彼は、お兄さんと義理のお姉さんと子供たちが、家の外の爆弾から身を守ろうと、家の階段の下で身を寄せ合っていたさまを語りました。

3時間の攻撃停止の時間で、義理のお姉さんは台所に行って家族の食事をつくり、子供たちは外に出て新鮮な空気を吸っていました。

その家を、ミサイルが直撃しました。窓から入ってきたそうです。

アラアのお兄さんの子供のひとりで、生後17ヶ月の赤ん坊が殺されました。2発目のミサイルは、台所にいた義理のお姉さんを直撃し、お兄さんと息子さんを負傷させました。

私が彼のもとを訪ねたとき、アラアは、瓦礫――彼の家はこんなになってしまった――の中を歩きながら、こっちに来てくれ、と言いました。

友人であり同僚である人が、こんなふうに打ちひしがれて悲しみに満ちているのを目の当たりにするのは、非常につらいものでした。

彼がまだ生きていることについては神に感謝しました。でも、こんなふうになっている彼を見るのはつらかった。アラアやその家族のような善人たちの上にふるわれた残忍な暴力に、心底吐き気を覚えました。

アラアと私が歩き続けていくと、かつて家々が建っていた場所は、瓦礫の山、また山、でした。

1軒の、部分的に破壊された家から煙が上がっていました。近くによってみると、子供が3人いました。女の子が2人と、小さな男の子が1人。

暖をとり、お湯を沸かすためにおこした火の周りに立っていたのです。

この子供たちは薄手の服を着ているだけでした。この寒さの中、これではあまり役立ちません。それに、3人は靴を履いていませんでした。

女の子の1人と話をしました。ニマという名前の12歳の女の子で、一緒にいるのは弟のラミといとこだそうです。

ご両親はどこにいるのと訊きました。ニマは、お父さんは死んでしまった、お母さんは家からあまり遠くないところにあるテントにいる、と答えました。亡くなったお父さんのために弔問に訪れる人たちが集まっているテントです。

子供たちは私に、家はもうなくなってしまったと言いました。

私はにっこりと笑って、子供たちの手を取って、何とか笑ってもらおうとしました。ときどき笑みを浮かべてくれたけれど、女の子たちは何度も涙をこらえているようでした。

このような子供たちが、寒さの中、身を守るものもなく、この先どうなるのかわからない状態に置かれているのを目にするのは、あまりにもつらい。心に傷を負っている様子で、私は何かを尋ねるのをやめにしました。

アラアと私はその地域を1時間ほどかけて歩き、損害を見積もりました。ある地点で、何百というレモンの木が抜かれていました。

アラアに、ここには何があったのかと尋ねると、レモンの果樹園だったんだと教えてくれました。

オリーヴの木と同様に、レモンの木はパレスチナの文化に深く埋め込まれたものです。これらの木々は私たちにとって神聖なものです。レモンの木々にこんなことが起きているのを見るのは、魂がつぶされるような思いです。

目の届く限り、周囲の至るところが、ものすごい破壊でした。


果樹園の破壊については、ウェブ検索すれば日本語で書かれたものがいくつも見つかります。そのひとつから少し引用しておきます。NPO法人「パレスチナ子どものキャンペーン」さんのサイトから:
http://www32.ocn.ne.jp/~ccp/others/letterGl.html
2001/03

ガザのアトファルナろう学校・ジェリーシャワ校長先生からの手紙

ガザにも春が訪れています。アトファルナろう学校の周りでも、オレンジの木が花をつけ、かぐわしい匂いが漂ってきます。でも、数キロ先で状況は様変わりします。いつもならオレンジやレモンの甘い香りで充満していた場所が、催涙ガスやタイヤの煙、硝煙で息もできません。

オレンジの林が消えています。永年育てられてきたオレンジ、レモン、オリーブ、なつめやしなどの果樹園が何エーカーにもわたってイスラエル軍により、ブルドーザーで掘り返されてしまいました。生きている木も、果樹園にいた生き物たちも殺され、そこで生活していた人たちの生活が破壊されたのです。……


「パレスチナ」のオリーヴについては――この「パレスチナ」は「ヨルダン川西岸地区とガザ地区」のことというより、今は「イスラエルとパレスチナ」として認識されているあの地域全体のことというべきですが――、日本で輸入・販売(フェアトレード)を手がけておられる「パレスチナ・オリーヴ」さんのサイトに詳細な背景解説があります。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~polive/

オリーヴや柑橘類というと、イタリアとかスペインがすぐに連想されると思いますが、「地中海」という見かたをすれば、パレスチナで「特産品」であることもなるほど、という感じだと思います。私自身、ロンドンでギリシャ系・トルコ系の移民街に一時滞在していたときにはじめて「地中海」の食文化としての「オリーヴ」を実感するまでは、地図とかはそれなりに見てたのに、何か想像しきれないような感じがあったのですが……昔話です。

ハテムさんのこの日の日記は、まだ続きます。南部での支援活動についての記録です。

ガザ地区南部で1,000家族に、食料を詰めた箱を届ける支援チームを手伝いました。多くの家族が避難所から、元々住んでいた家に戻るのを見ました。

歩いていると、私が支援ワーカーだということがわかって(イスラミック・リリーフのジャンパーを着ていますから)、自分の家がどうなったか見に来てくださいと声をかけられ続けました。

イスラミック・リリーフが資金を出している小さな市場に連れていかれました。オーナーは人々が生活を確立する手助けとなっているイスラミック・リリーフのマイクロ・クレジット・プログラムの一環として、リリーフから融資を受けていますと話してくれました。

彼はいつも、自分で商売をやることを夢見てきました。しかし今は無一物になってしまった。彼の市場はガザ地区攻撃でひどくやられてしまっていました。

この21日間の出来事で、私はもう本当に、疲弊しきった気持ちです。


「イスラミック・リリーフ・ワールドワイド」によるマイクロ・クレジットのプログラムは、同組織のサイトの「パレスチナ」の項を見ると、2007年にスタートしているようです。
http://www.islamic-relief.com/wherewework/CountryPage.aspx?CountryID=PS



「レモンの木」については、2008年にイスラエルの映画監督がそれをテーマにした映画を制作しています。

Etz Limon (Lemon Tree)
http://www.imdb.com/title/tt1172963/

ベルリン国際映画祭で観客賞を受けるなど、評価の高い映画です。イスラエル領内のアラブ人の家の果樹園をめぐる、実話に基づいた物語だそうです。

IMDBに掲載されているあらすじによると、ヨルダン川西岸地区。アラブ系イスラエル人(イスラエル国籍のパレスチナ人)であるサルマはずっとここに住んでいた。その家の隣に、新たにイスラエルの国防大臣になった人物が引っ越してくる。「テロ対策」を理由として、サルマの家のレモンの果樹園の伐採が決定される。亡き夫と守ってきた果樹園を伐採させたりしない――サルマは弁護士のジアドとともに、法的手段で抵抗する。彼女の取り組みは、国防大臣の妻の心を動かす。そして……というストーリー。ネタバレなので、背景色と同じ色で文字。読みたい方はカッコ内をマウスで反転させてください。→【最終的にはサルマの果樹園には例のコンクリートの壁が建設され、果樹園は伐採されたことが映像だけで示される、ということのようです。

トレイラーがYouTubeにあります。日本で公開されないのかなあ……。同じ監督の1作前の作品、『シリアの花嫁』がこの2月から岩波ホールで公開とのことで、しばらく待てば見られるのかも。

http://www.youtube.com/watch?v=YIoowHIpUT0


※この記事は

2009年01月26日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 01:00 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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